27 己の罪
その日は、雲一つない快晴だった。
風は穏やかで、陽光は冬の冷たさをほんのわずかに和らげるように渓谷を照らしていた。澄んだ空気が肺を満たすたびに、視界の奥まで景色がくっきりと浮かび上がる。岩肌にへばりつくように咲いた淡紫の花々が、陽の光を受けてきらめき、遠く下を流れる川が銀糸のようにきらめいていた。
王家の者のみが使うことを許された、展望台のテラス。
白いクロスが掛けられた丸卓の上には、既に茶器と菓子が丁寧に並べられていた。だが、その場にいる二人は、景色にも茶にも菓子にも目を向けようとはしていなかった。
王太子・ルーデリウスと、その弟・リチャード。
国王の命で毎月一度行われている「兄弟の親睦を深めるための茶会」。それが、今日の名目だった。
本来、王族の警護は数人で組まれ、常に目と耳が届く距離での護衛が基本とされている。だがこの日は特例だった。「息子たちが自由に話せるように」と、国王自ら護衛の人数を絞り、しかも距離を取らせた。まるで、父王の願いが空のように晴れ渡っているかのように。
(バカバカしい)
リチャードは、兄の正面に座りながら、心の内で吐き捨てる。
この茶会が、誰のためになるというのだ?
兄は茶会ではいつも穏やかで、笑みを絶やさず、取り繕いもなく紅茶を注いでくれる。優しい声で季節の話題を持ち出し、時折自分の顔を覗き込むようにして話しかけてくる。けれどその気遣いすら、リチャードには滑稽に映った。
(兄上はきっと、本気でこれが“いい時間”だと思っているんだろう)
何も知らず、何も見ようともせずに。
自分が、どれだけ兄の存在に押し潰されてきたか。
兄が生まれた時から魔力を宿していたこと。誰もがその力を「王にふさわしい」と称賛したこと。彼が歩けば風が整い、彼が笑えば空気が和らぐ。王族の血に相応しい、と周囲は皆彼に頭を下げる。自分にはない力。自分には届かない輝き。
だからこそ、今日。
今日だけは、自分の意志で何かを変えられる。ずっとそう思っていた。
兄のルーデリウスは、少し遅れてくるという。午前中、魔力制御の訓練があったからだ。王家の第一王子にして、類稀な魔力を持つ存在。その才能は、誰からも賞賛されていた。
「……今のうちだ」
無意識に、リチャードの手がテーブルの上の、ルーデリウスのカップへと伸びる。
心臓の鼓動がうるさい。手のひらにはじっとりと汗がにじんでいた。
視線を周囲に走らせる。誰もいない。護衛たちは、王命により遠く離れて待機している。兄はまだ来ていない。
リチャードは、迷うように一度だけ目を閉じた。けれどすぐに、懐に手を差し入れる。
音を立てぬよう、そっと取り出したのは小さな子瓶。中には、ごく僅かに揺れる紫がかった液体。
あの片眼鏡の伯爵が、やけに自然に、まるで世間話でもするかのような口ぶりで差し出した、レペグリアという花を加工して作られた毒。
『少量なら腹痛を起こす程度。ほんの戯れです、殿下』
その時の、伯爵の口元には笑みがあった。
(悪戯……ただの、悪戯)
そう、自分は兄を殺そうとしているわけではない。ただ、ほんの少し。苦しませて、思い知らせるだけ。リチャードは必死に自分にそう言い聞かせながら、手を震わせ、瓶の中の液体を数滴、カップの中へ慎重に、そっと落とす。
————ぽたり。
音もなく沈む毒。
リチャードは瓶を懐に戻すと、何事もなかったようにポットの蓋を閉じた。
直後————。
「遅れてすまない、リチャード」
朗らかな声が背後からかかった。
リチャードの肩がびくりと震える。
振り向けば、額に汗を滲ませながらも、笑顔でこちらに向かって来るルーデリウスの姿がそこにはあった。金の髪を風になびかせ、まるで光そのものを身にまとうようなその姿に、リチャードの胸にまた嫉妬の棘が刺さる。
「魔力の制御が少し乱れてしまって、訓練が長引いたんだ」
いつもと変わらない、穏やかな笑顔。兄は無防備にテーブルへと近づき、椅子に腰を下ろした。白いシャツの胸元には、訓練の名残か、うっすらと汗がにじんでいる。
「……っ兄上、喉が渇いてるでしょ?淹れてあげるよ」
リチャードは立ち上がると、テーブルの上にあるティーポットを手に取った。毒が沈んだカップの底を見られる前に、紅茶を注いでしまおうと思った。心臓が胸の内側を激しく叩く。手のひらがじっとりと汗ばむのを感じながらも、表情だけはいつも通りを装った。
カップの中に紅茶を注ぐ。香り立つ湯気がふわりと立ち昇る。
「今日は季節の紅茶らしいよ。香りがいいって、メイドが言ってた。……兄上の好きな、花の香りがするやつ」
必要以上に口数が多くなる自分に気づきながらも、止められなかった。沈黙が怖かった。黙っていれば、鼓動の速さが声に滲んでしまいそうだった。
ルーデリウスはそんな弟の様子に気づくこともなく、微笑んで頷いた。
「ありがとう。リチャードが淹れてくれるなんて、嬉しいな」
あまりに無防備なその言葉が、リチャードの胸に針のように突き刺さる。
兄はゆっくりと、紅茶のカップを両手で包み込むように持ち上げた。陽光に反射して、中指のシルバーリングがきらりと光る。
ルーデリウスはそのまま、何の疑いも抱くことなく、カップを口元へと運ぶ。
ひと口。
そして、もうひと口。
熱い琥珀の液体が、兄の喉を滑り落ちていく。
「……うん。確かに、香りがいいな」
喉が渇いてたらしいルーデリウスは、カップの中の紅茶を飲み干した。ルーデリウスは目を細め、紅茶の香りを楽しむようにふっと息を吐いた。だがその直後、僅かに眉間に皺が寄る。穏やかな微笑が、微かに揺らいだ。
「……っ……」
かすかに喉を詰まらせるような音。ルーデリウスは胸のあたりに手を添え、そっと息を吸い込んだ。
「……少し、胃のあたりが……重いな……」
その言葉は、まるで何でもないように発せられた。だが、リチャードの耳には異様に重く響いた。
兄の口元がかすかに引き攣っている。額にうっすらと浮かび始めた汗、そして明らかに深くなった呼吸の音。普段の落ち着いた雰囲気とは異なる、かすかな異変。
「兄上……?」
リチャードは喉を詰まらせるようにして問いかけた。指先が、じっとりと汗ばむ。喉の奥がひりつくような乾きに襲われた。
ルーデリウスは微かに顔をしかめたまま、テーブルに肘をついた。その動作に、余裕のない重さが混じる。
「……あまり、寝ていなかったから……そのせいだと思う。すまない、気にしないでくれ」
そう言って微笑もうとするが、その笑みはどこかぎこちない。涼やかな瞳に、わずかな濁りが生まれていた。
(本当に……効いた……?)
リチャードの心は嵐のように荒れていた。あの毒の影響が、兄の体に現れている。けれど、兄は何も知らない。ただ、体調不良だと信じている。
罪悪感と、快感と、恐怖。相反する感情がぐるぐると渦を巻く。
「……少し、風に当たってくるよ」
そう呟いたルーデリウスは、口元を押さえながら、静かに席を立った。普段の優雅な所作とはかけ離れた、不自然な動きだった。彼は足取りもおぼつかないまま、渓谷を望む石造りのテラスへと向かっていく。
(……歩き方が、おかしい)
リチャードは、椅子の背を強く掴んだ。胸がざわつく。あれほど「ただの腹痛」だと聞かされていたのに、兄の様子は明らかに、常軌を逸していた。
風が吹く。高所の冷たい風が兄の髪を揺らし、服の裾をはためかせる。ルーデリウスはそのまま、テラスの石の欄干に片手を突いた。彼の背が、リチャードに背を向けたまま震えている。
顔が見たい。
あの完璧な笑顔が、苦痛に歪んだところを。
衝動が、疼いた。
罪悪感ではない。ましてや心配でもない。劣等感と嫉妬に塗れた幼い憎悪が、いまや理性の形を変えて彼の背を押していた。
「兄上、大丈夫?」
リチャードはあくまで穏やかな声音で問いかけながら、ゆっくりと兄の背後へと近づいていった。
その時だった。
「っ……ッ!」
ルーデリウスの体が、びくりと震えた。
次の瞬間、押さえていた口元から鮮やかな紅が、弾けるように飛び出した。
「……ッ!?」
咳と共に吐き出された血が、風に乗って冷たい空気を濁す。
石畳に赤が散る。白い制服の袖口が、にじむように濡れる。喉の奥から絞り出されるような苦悶の呼吸。兄の肩が大きく波打つ。ルーデリウスは口元を押さえ、咳き込むたびに肩を震わせていた。あれほど冷静で、あらゆる状況に動じなかった兄が、今はただの一人の人間として苦痛に顔を歪めている。
その顔を、リチャードは見たかったのだ。ずっと、どんな時も自分より評価され、優れていた兄が、痛みと苦しみに負けそうになる姿を。
(……やっと、追いついた)
そんな感情が胸の奥から湧き上がった。違う。これは、追いついたんじゃない、追い越したのだ。自分よりも何もかもが勝っていた兄が、今、自分の仕掛けた毒で苦しんでいる。
優越感で胸がふくれあがる。ざまあみろ、とさえ思っていた。喉の奥に熱が昇り、指先がわずかに震えていた。
「……くっ……」
ルーデリウスが呻く。その足元がふらつき、彼の身体がゆるやかに柵に凭れかかった。
兄の肩が、自分の目の高さにある。柵の先には渓谷が広がっている。切り立った岩場の向こうには、霧が流れ、底が見えない。
その時だった。
リチャードの中で、何かが弾けた。
気が付けば彼の手は、兄の背に触れていた。
次の瞬間、衝動に任せて、そのまま手を押し出した。
「……っ!」
ルーデリウスの身体が、空気を切り裂くように柵の向こうへと崩れ落ちていく。
その碧い瞳が、ふとこちらを見たような気がした。驚愕、疑問、痛み……なにか言葉にならない想いが宿っていた。
だがそれも、あっという間に消えた。
風の音が大きくなる。何もかもを飲み込むような深い静寂が、渓谷の底から這い上がってくるようだった。
「兄上ッ!!」
次の瞬間、リチャードはまるで悲鳴のような声を上げていた。
その声には、驚きと恐怖と、切羽詰まった慌ての色が巧みに織り交ぜられていた。足音を立ててテラスの中央へ駆け出し、柵に縋りついて身を乗り出す。あたかも兄が、足を滑らせて落ちてしまったかのような演技だった。
「誰かっ!護衛をっ……兄上が、兄上が落ちたんだ!!早く来い!!」
数秒後、リチャードの声に気づいた騎士たちが走ってくる。怒鳴り声と甲冑の打ち鳴らす音が、静寂だった渓谷の展望台を震わせた。
「リチャード殿下、お怪我は!?」
「ルーデリウス殿下が……崖下に……!?」
「下だ!渓谷の底を探せ!」
混乱が広がる中、リチャードは柵の傍に蹲り、肩を震わせていた。口元を両手で覆い、嗚咽を噛み殺すふりをして。
けれど————。
誰の目もこちらを見ていないと確信した刹那、彼の口元がわずかに歪んだ。
それは、ぞっとするほど冷たく、恍惚とした笑みだった。
(やっと、やっとだ……)
兄を超えた。そう思った瞬間、胸の奥に張りつめていた氷が溶けていくような感覚があった。兄が死んでも、涙は出なかった。心の底から、ひとかけらの悲しみすら湧かなかった。
リチャードは自分でも驚くほど静かに笑っていた。まるで、ずっと欲しかったものを手にした子供のように。
(これで、僕の時代だ……)
騎士たちの叫び声が耳に届かない。風の音も、渓谷の匂いも、すべてが遠ざかっていく。今この瞬間、リチャードの世界には、自分ただ一人しかいなかった。
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