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26 昔話

 リチャードは、廊下の壁に手をついた。崩れ落ちそうになる膝をなんとか支えながら、荒くなった呼吸を抑えきれずにいる。


 蝋燭の光が揺れる石造りの壁。そのわずかな明かりの下で、彼の顔は異様なほどに青ざめ、汗に濡れた前髪が肌に張りついていた。


(なぜだ……なぜ、ロザリエが……!)


 握りしめた手の中の指輪が、じわりと掌を痛めつけるほど食い込んでいる。血の気を失った指が震えていることにも気づかない。ただ、頭の中で幾度も同じ言葉が反芻される。


(これは……アイツの、兄上のッ……!)


 その瞬間、リチャードの視界がぐらりと揺らいだ。


 蝋燭の灯りが消えたかのように暗転し、目の前に広がるのは五年前の記憶だった。




♦︎




 まだ自分の背丈も心も未熟だった頃。だが、妬みや劣等感だけは、誰よりも鋭く膨れ上がっていた時代。


 王族の子には、時折“魔力”を持って生まれる者がいる。


 兄、ルーデリウスは、その稀有な才能を持って生まれてきた。しかもその力は一朝一夕のものではない。幼い頃から空気を読むように魔力を操り、火を灯し、水を操り、物を浮かせる。彼が何もせずとも、人々は畏敬と憧憬の眼差しを向ける。


 同じ王妃の腹から生まれたというのに、なぜ自分ではないのか。


 リチャードの胸に、黒く硬いものが芽生えたのは、もっと幼い頃のことだった。


(みんな……兄上のことばっかり……)


侍女も、騎士も、側近たちも、口を開けば、褒め称えるのは兄のことばかり。


 「さすがは第一王子様、魔力のお力も見事なものです」

 「本日も王宮の訓練場では火球が舞ったとか。あの方に並び立つ者などおりません」


 耳にするのは、そんな言葉ばかりだった。


 ルーデリウスは選ばれし者。魔力という祝福を与えられ、あらゆる者から期待される存在。

 一方、自分はただの第二王子。力もなく、影のように兄の背中を追うだけの存在。


 その劣等感が、リチャードの心に黒い澱を積もらせていた。


 そんな時だった。


 その日、たまたま王宮に訪れていた一人の男と、リチャードは出会った。


 片眼鏡に長身。赤みがかった茶髪に、氷のように冷ややかな青い瞳を持つ男。


 ゲラルド・オーディット伯爵であった。


 初対面の彼は、妙に丁寧な態度でリチャードに接した。

 その日、兄は政務に出ており、王宮の広間にはリチャードしかいなかった。伯爵はふいに歩み寄り、リチャードの正面で片膝を折る。


「リチャード殿下。私はあなた様のようなご才覚を持つお方と、こうして言葉を交わせるのを誇りに思います」


 突拍子もないその言葉に、リチャードは思わず息を呑んだ。


「……才覚、だなんて。僕は兄上のような魔力も持っていませんし、何も……」


 そう返すと、ゲラルドはにこりと笑った。


「魔力などという曖昧な力に頼らずとも、王子はすでに賢明で、何より、人の心を見る目をお持ちだ。それは選ばれた者にしか宿らない、特別な才です」


 その言葉が、胸に深く突き刺さった。


(……この人は、僕を褒めてくれる)


 リチャードは、その日から何かにつけて伯爵のもとを訪れるようになった。

 自身の心情を吐露し、王宮の中での孤独を語り、兄への複雑な感情も、隠すことなく打ち明けた。


 ゲラルドは、ただ一人、頷いてくれた。

 否定も叱責もなく、静かに耳を傾け、時に笑ってみせた。


(この人だけが、僕を見てくれている)


 それは、幼いリチャードにとって、毒にも似た甘い錯覚だった。


 心の奥に、ずっと押し込めていた〝認められたい〟という願い。その芯を、そっと撫でられたような感覚だった。


 兄と比べられるのは、もう慣れていた。

 いや、慣れたふりをしていた。


 いつも兄が先に立ち、自分は後を追いかけるだけ。家臣たちは兄の手柄ばかりを称え、母でさえも、兄の成功に目を細める。自分の成長など、誰も期待していないのだとそう思い込むようにして、リチャードはいつしか心を閉ざしていった。


 だが、この伯爵だけは違った。


「あなた様こそ、本来あるべき王の姿だと私は思いますよ」と。


 最初は戸惑った。だが、何度会っても、彼は同じようにリチャードを褒め、気にかけてくれた。

 それはまるで、乾いた大地に初めて降る雨のようだった。心が、潤っていくのを感じた。


 それ以降、伯爵が王宮を訪れると聞けば、リチャードは躊躇なく会いに行った。


 他の誰よりも早く、応接間へと足を運び、控えめに微笑むその姿を探した。

 最初はただの挨拶だった会話も、いつしかリチャード自身の心情へと踏み込むようになった。


 そんなある日。


 予定されていた会議が遅れていると聞き、リチャードは執務室前の廊下を通りかかった。扉はわずかに開いており、中で交わされる声が漏れ聞こえてきた。入るつもりはなかった。ただ、その一言が耳に飛び込んできた瞬間、足が止まったのだ。


「第二王子殿下も、勉学には熱心でいらっしゃるが……やはり、第一王子殿下のほうが、器量も見識も一枚上手だな」

「ふむ。なにより、魔力をお持ちだからな。王家の威信を保つ意味でも、やはりルーデリウス殿下こそが……」


 笑い混じりのその言葉に、リチャードの全身が氷のように冷たくなった。


 その事を、夕刻に王宮に訪れていた伯爵へ、リチャードは真っ先に話した。ただ、誰かに気持ちを吐露して、すっきりさせたかったのだ。


 話を聞いている彼は、ただただ無言だった。「お辛かったのですね」と言うでもなく、「気にすることはありません」と慰めるわけでもない。


 ただ静かに、彼の言葉を待っていた。


「……僕は、どれだけ努力を重ねても、兄上と比べられる。……王族に生まれても、兄上に魔力があるだけで、皆はあっちを選ぶ。あの人は、何をしても称賛される。僕がやれば、『まぁまぁよくやった』の一言で終わりだ……!」


 言いながら、リチャードは拳を強く握りしめる。その指先が白くなる。


「僕の方が、ずっと見ているのに。民の声も、政策の裏も、周囲の者たちの欲深さも。……でも、皆が見るのは兄上だけだ。……何も知らない、何も分かっていないッ————」


 そこで言葉を切ったリチャードの唇から、吐き捨てるような声音が漏れる。


「……兄上なんて、いなくなっちゃえばいいのに……!」


 その言葉が、応接間に沈黙を落とした。


 一瞬、重たい空気が場を覆った。


 しかし、次の瞬間、伯爵の手がゆっくりと懐へと差し込まれた。指先に一切の迷いはなく、その動きはあまりにも自然で〝この時を待っていた〟とでも言わんばかりだった。


 懐から取り出されたのは、小さな小瓶だった。


 手の中で傾いた瓶の中では、紫がかった液体が揺れている。蝋燭の灯が反射して、それはどこかアメジストのように美しく、毒とは思えぬほど清らかな輝きを放っていた。


「これは、我が家で長年かけて品種改良を重ねた花……レペグリアから抽出した特別な液体です」


 その言葉には、どこか誇りすら滲んでいた。まるで自身の子供の名を語るかのような慈しみが、その声音に宿っていた。


「この液体は、摂取してもすぐに命を奪うようなものではありません。むしろ緩やかに、気づかぬほどに体内を巡り、少量であれば、せいぜい腹を壊す程度で済みますよ。……毒などというには、いささか穏やかすぎるかもしれませんね」


 リチャードは目を見開いた。信じられない、という思いよりも先に、思いもしなかった展開に言葉を失った。血の気が頬から引いていく。だが、それ以上に、心の奥に密かに沈殿していた〝ある欲望〟が、くすぶるように炙り出されてゆくのを、彼は感じていた。


「……腹痛を、起こす程度……?」


 その問いは、確認というより、自身に言い聞かせるような響きだった。


 伯爵は、微笑を浮かべて小さく頷いた。


「はい。せめてもの戯れとして……あの方に、少しばかり〝痛み〟を教えて差し上げるには、ちょうどよろしいかと。殿下のお気持ちも、少しは晴れるのではありませんか?」


 そう言って、彼はその小瓶を何気ない手つきでテーブルの中央へと置いた。あくまでも「選ぶのはあなたですよ」という風に、過度な押しつけもなく、誘惑の言葉すらも控えめに。


 だが、その分だけ深く、静かにリチャードの心を揺さぶった。


 リチャードは視線を小瓶に落とす。その中で揺れる濃紫の液体は、不思議なことにさっきよりもずっと濃く、意味ありげに見えた。


(兄上の紅茶に、少しだけ……ほんの少し……)


 思い浮かんだのは、何も知らずに紅茶を口に運ぶルーデリウスの姿。いつも通り冷静に微笑み、何も気づかぬままに飲み干す兄の姿が、ありありと脳裏に浮かぶ。そしてその後、腹を押さえて顔をしかめる様子……苦しむほどではない、だが一瞬だけ、その完璧な顔に歪みが差すかもしれないという予想が、胸の奥をひどく満たした。


(これは……ただの悪戯だ)


 そう、彼を傷つけたいわけじゃない。ただ、ほんの少し、〝上から見下ろされる痛み〟を知って欲しいだけ。それだけだ。と、リチャードは自分に言い聞かせた。


 ぐ、と喉が鳴った。


 迷いながらも、否応なく手は伸びてゆく。震える指先が、テーブルの上の小瓶に触れた。その瞬間、指先にひんやりとした感触が伝わり、心臓が小さく跳ねる。


 やがて、小瓶が彼の掌に収まった。


 手の中で、何かが決定的に変わった気がした。


 だが、その変化に、彼自身はまだ気づいていなかった。





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