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25 あり得ない

 会場に辿り着いたとき、ロザリエは自分が遅れていることに気づいた。玄関ホールにはすでに人影はなく、談笑の声も音楽も、扉の向こう————メインホールの中からほのかに漏れている。


 祝宴は、すでに始まっているのだ。


 息を整え、ロザリエは裾の長い青のドレスを片手に持ち上げながら、誰もいない廊下を一人で歩き出した。長く延びる回廊には、蝋燭の灯りがぽつぽつと置かれているだけで、宵闇のような陰影が床にも壁にも、静かに揺れていた。


 その時。


 先の廊下から、足音が近づいてきた。靴音は硬く、堂々としている。貴族らしい重みと自負を含んだ歩調だ。


 そして、姿が蝋燭の光の中に浮かび上がった瞬間、ロザリエの息が、胸の奥で引っかかった。


 リチャード・ブルクハルト。


 王太子であり、自分の婚約者の男。


 漆黒の礼装に金の刺繍が映え、整った顔立ちには疲労の色が浮かぶものの、やはりその威厳は拭いきれない。だが、ロザリエはその顔を見た瞬間、全身に緊張が走った。


(……今だけは、会いたくなかったのに)


 胸の奥に、ひやりとした感情が立ちのぼる。だが彼女は動じなかった。ゆっくりと歩みを止め、軽く視線を逸らしながらも表情を崩さずに通り過ぎようとする。


 その時、リチャードが低い声で問いかけた。


「……パートナーはどうした?」


 ロザリエは眉を寄せる。その言葉に、無意識に苛立ちが募る。わざと聞いているのだ。自分が一人で来たことなど、分かっていて。


「私は誰かに手を引いてもらわなければ入室できないほど、弱くも不安げでもありませんから。お優しい殿下には分からないことでしょうけれど」


 その一言に、リチャードの表情がわずかに歪んだ。感情を隠しきれず、眉間に深い皺が寄る。まるで、予想していなかった反撃にわずかに後退したように。

 彼の唇が何かを言いかけてわずかに動いたが、声にはならない。


 ロザリエはその沈黙を見透かすように微笑を浮かべ、静かに一礼すると、再び歩き出す。彼女のドレスが揺れ、蝋燭の灯に照らされた青が、夜の湖のように美しく波打った。


 ロザリエはリチャードの隣を通り過ぎ、何事もなかったかのようにホールへと歩を進めた————そのはずだった。


 だが次の瞬間、彼女の右手が鋭く引き戻される。


「……っ!?なにを————」


 驚きに振り返ると、そこには見覚えのある青ざめた顔があった。リチャード。だがその表情は、いつもの尊大さも気取った余裕も微塵もなかった。


「……馬鹿な……ッ!」


 恐怖に染まった目が、ロザリエではなく彼女の指に嵌められた、銀の指輪に注がれていた。揺れる蝋燭の灯にかすかに瞬く、小さな宝石が付いたシルバーリング。それを見た瞬間、リチャードはまるで全身を杭で貫かれたように、硬直していた。


「……お前……これを、どこで手に入れた……?」


 かすれた声。喉の奥が乾いているのか、言葉はひび割れていた。


「それを……誰に、貰った……!?答えろッ!!」


 手は強く震えていた。掴まれたロザリエの手首に、微かな痛みが走る。

 ロザリエは困惑しながらも、眉を寄せて問い返す。


「何の話をしているの?……っ痛いわ。手を放して」


 だがリチャードは耳を貸さない。目は見開かれ、冷や汗が頬を伝い、呼吸は荒くなっている。


「……嘘だ……あり得ない……アイツは……あの時っ……!」


 廊下に沈んだ蝋燭の明かりの中、リチャードの声は、まるで誰かに喉を掴まれたように掠れていた。額には脂汗がにじみ、整えられた金の髪が額に張り付いている。唇は蒼ざめ、かすかにわなわなと震えていた。


 まるで何かに取り憑かれたようなその姿に、ロザリエは目を見開いた。


「……殿下?」


 異変に気づいたロザリエは思わず問いかけたが、その声も、まるで届いていないかのようだった。

 リチャードの視線は、彼女の右手に嵌められた銀の指輪に釘付けだった。小さな宝石がひとつ、静かに蝋燭の灯りを反射して煌めいている。それが彼の神経を刃のように逆撫でた。


「っ、寄越せ!」


 低く搾り出すようなその声の直後、リチャードの手が伸びた。ロザリエが反応する間もなく、その手が彼女の手首を強く掴み、指輪を引き剥がすように乱暴に奪った。


「きゃっ!」


 その力に引かれて、ロザリエの体が大きく揺れる。絨毯も敷かれていない石畳の冷たい床に、青のドレスの裾をふわりと広げながら、彼女は無様に尻餅をついた。


 痛みなど一瞬で忘れるほど、ロザリエの意識は別のところにあった。目の前で指輪を握りしめたまま、青ざめた顔で震えるリチャードの姿。それは、これまで彼女が見たことのない、恐慌にも似た表情だった。


「これが……いや、そんなはずは……」


 震える唇。皮膚から浮き上がった血管。脂汗が頬を伝い、眉間に刻まれた深い皺が、彼の狼狽を物語っていた。


「……あれは……もう……死んだはず……確かに……あの谷で……ッ」


 まるで誰かと会話をしているかのように、ぶつぶつと呟き続ける。視線は手の中の指輪に固定され、狂気の色すら帯びはじめていた。


(何を言っているの……?)


 床に倒れたまま、ロザリエは困惑の表情で彼を見上げた。だが、リチャードは彼女の存在すら忘れたかのように、硬直したまま立ち尽くしている。


 そして、次の瞬間。


「……ち、違う……違う……いや、アイツは……」


 何かから逃げ出すように、突然リチャードは踵を返し、よろめくような足取りでありながらも足早に歩き出した。すれ違う蝋燭の明かりが彼の顔を照らし、驚くほど青ざめた肌と、恐怖に縛られた瞳を照らし出す。


「リチャード殿下……!」


 ロザリエが思わず名を呼ぶも、その声に振り向くことはなかった。彼はただ、何か見えないものに追われるように、ぶつぶつと呟きながら、暗がりの向こうへと消えていった。


 静寂が戻る。石造りの廊下に灯る蝋燭の揺らぎと、彼女の呼吸だけが残される。


 ロザリエはそっと自分の手を見た。そこにはもう、あの指輪はなかった。


(……一体、あの指輪に、何があるの……?)


 微かに残る指輪の感触と、リチャードの狂気じみた狼狽。

 まるで、この夜に何かが蠢き始めたかのようだった。





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