22 オーディット伯爵家
毎年冬に行われる冬の祝宴は、パルビス学園において年の瀬に催される、ささやかでありながら格式ある社交行事である。
この時期になると、パルビス学園の空気はいつにも増して華やぎ、生徒たちの足取りは自然と弾むようになった。
廊下では、誰がどんな衣装で登場するのか、誰と誰がペアになるのかという噂話が飛び交い、教室では授業の合間に刺繍や舞踏の話で盛り上がる生徒の姿も珍しくなかった。まるで全員が、もう祝宴当日を迎えたかのような浮き足立ちようだ。
中には週末の自由時間を利用して、街の仕立て屋へとドレスの新調に向かう者もいた。上級生の多くは親の名を使って最高級の布地を取り寄せ、下級生は姉や親戚から譲られたドレスに自分らしい工夫を加えていた。
その中でも、誰よりも注目を集めていた令嬢の一人、カリナ・オーディットも、休日を使って学園を離れていた。
『お父様と、今度の晩餐会のドレスを選びに行くの』
そう周囲に告げて、きっちりとリボンの結ばれた外出用のケープを羽織り、学園馬車に乗り込んだ彼女の姿は、まさに“貴族の鏡”とでも言うべき立ち居振る舞いだった。整った容姿に、完璧に磨かれた笑顔。周囲の女生徒たちは彼女に見惚れ、男子生徒たちは羨望の眼差しを向ける。
だが。
カリナが向かった先は、街の仕立て屋などではなかった。
馬車がたどり着いたのは、首都にほど近い丘の上————オーディット伯爵家の屋敷。
静かな郊外に佇むその館は、重厚な石造りでありながらどこか冷ややかさを漂わせていた。
使用人たちが恭しく門を開き、学園のローブに身を包んだカリナを迎え入れる。けれど彼女は、いつものように誰にも笑みを向けなかった。ただ、手袋を外しながら淡々とこう告げる。
「お父様は?」
カリナが外套の襟元を指先で整えながら尋ねると、迎えた執事は静かに頭を垂れた。
「応接間にてお待ちでございます、お嬢様」
「そう……通して」
その言葉に、執事は一礼し、音も立てぬ歩みで先導する。カリナはその後ろに続きながら、慣れ親しんだ屋敷の空気を胸に吸い込んだ。
壁を飾る絵画、深紅の絨毯、ほんのり香る薔薇のポプリ。
すべてが昔のまま。だが、彼女の中には、あの頃の幼さや甘えなど微塵も残っていなかった。
やがて、重厚な応接間の扉の前で執事が立ち止まる。
「お嬢様、こちらでございます」
小さく頷くと、扉が静かに開かれた。中からは、やわらかなランプの灯りが漏れ出し、暖炉の火がぱちぱちと薪を割る音が聞こえる。
そして、その中央。深いモスグリーンのアームチェアに腰かけていた男が、ゆるやかに顔を上げた。
ゲラルド・オーディット伯爵。カリナの父親。
その姿は、いつ見ても威厳に満ちていた。赤みがかった茶色の髪は丁寧に後ろへ撫でつけられ、片方の目に光る片眼鏡が知性と冷静さを際立たせている。背筋はまっすぐに伸び、身につけた黒の上衣は一切の皺なく、細身の体躯を引き立てていた。
そして、何より印象的なのは、その瞳————澄んだ青色をしているが、凍てつく湖面のように冷ややかで、時に人の心の奥底を見透かすような鋭さを持っていた。
扉が音もなく閉じられた瞬間。
部屋の空気がぴたりと張り詰めた。温かな暖炉の火に包まれているはずの応接間は、不思議なことに、どこか冷たい緊張感に包まれていた。
だが、カリナはまるで何も感じていないかのように、優雅な動作で父の正面の椅子へと腰を下ろした。背筋はすっと伸び、スカートの裾がゆるやかに波打つ。
「お兄様は?」
その問いは、静かで何気ないものだった。あまりに自然すぎて、まるで今夜の夕餉の献立でも尋ねるかのよう。だが、オーディット伯爵の片眼鏡の奥の瞳が、わずかに細められる。
「……手足に痺れが残っているようだが、回復しつつある。……紅茶は、飲めないようだが」
その言葉に、部屋の温度がほんのわずかに下がった気がした。
「それは……お気の毒に」
カリナの内心には、ほとんど感傷はなかった。代わりに去来したのは、彼女なりの計算だった。紅茶を口にできないということは、それだけ深く、あの一件が兄の神経に傷跡を刻んだという証。
それほどに、あの毒は効果的だったということ。
もっとも、伯爵が口にしたその報告にも、同情や父親らしい心配などは微塵も含まれていなかった。ただの経過報告。毒殺未遂という一大事件すら、彼にとっては感情を交えぬ“事象”に過ぎない。
……沈黙が一拍、二拍と続いた。
暖炉の薪がぱちりと音を立てるたび、かえって部屋の静寂が際立つ。
カリナは、まるでそこに心の揺れなど一滴も存在しないかのように、椅子に腰掛けたまま、ふっと唇に微笑を浮かべた。
その笑みは、親愛のものでも、感謝でもない。乾いた硝子のような冷たさと、ほんのわずかな棘を孕んでいた。
「……あの手紙、嘘を書きましたのね」
囁くような声音。けれど、その言葉は決して軽くはなかった。オーディット伯爵は片眼鏡を指先で押し上げ、視線だけをカリナへと向ける。無表情のままだ。
「少量では命に別状はない。そう……そう書かれていたはずですわ。なのに、お兄様は、ほんの少しの毒で死にかけた」
笑顔のまま、カリナは伯爵を見据える。
青い瞳と蜂蜜色の瞳が、冷たい光を交わす。
伯爵はすぐには答えなかった。長い指で肘掛けを叩くように一度だけ軽く鳴らすと、微かに口角を上げた。
「……文面の通りだったろう。『少量では命に別状はない』と、確かに書いた。だが……あの娘が定める量が、果たして少量と呼ぶに相応しかったのか、それは我々の定義と一致するとは限らない」
「まぁ、つまり、あれは嘘ではないと?」
「書かれていた通りだよ。私は、ただ適切な尺度について言及しなかっただけだ」
皮肉とも、冷笑ともつかぬ調子で伯爵は言う。まるで、会話ではなく、詰めの甘い報告書を添削しているかのように、淡々と。
カリナはその言葉に、はっきりとした怒りも呆れも見せなかった。ただ、笑みの角度をほんの少しだけ深くした。
「……ずいぶんと意地悪なお父様」
それは皮肉ではなかった。ただの事実の述懐。その瞬間、対面するオーディット伯爵の青い瞳が、ふいに細く鋭くなる。冷たい硝子を思わせるその視線が、娘を静かに射抜いた。
「……カリナ、私も一つ、お前に聞きたいことがあるのだがね」
オーディット伯爵の声が、低く地を這うように響き渡る。
「エラ・シュトランドに毒を盗まれたそうだな」
カリナの瞳が微かに揺れたのを見逃さず、伯爵は続けた。
「そして……彼女は留置所でこう喚いているそうだ」
その口調は、抑えた怒りを孕んでいた。
「〝あの毒を作ったのはカリナ・オーディット。使用した毒の作り方は、伯爵からの手紙に書かれていた〟と。……私の署名入りの、毒の調合書が確かにあったと証言している」
静寂。
カリナは微笑を崩さない。ただし、その指先はゆっくりと組んだ膝の上で絡み、解け、また組まれた。
そして、伯爵の声が、先ほどとは打って変わって、鋭く、鋼のように冷たく響く。
「カリナ」
呼びかけられた名は、まるで刃のように研がれていた。
「私は、手紙の文末に記していたはずだ。読んだら焼却処分するようにと。……なぜ、捨てなかった?」
その問いは、有無を言わせぬ圧を伴っていた。逃げ場など与えない。そういう声だった。
やがて、先に動いたのはカリナだった。
ふ、と微かに笑う。
「申し訳ありませんわ、お父様。私、どうにも物覚えが悪くって……」
そう前置いたあと、唇に人差し指を当てる仕草で、カリナは少しだけ首を傾げた。
「手紙を読み返さないと、作り方を忘れてしまうんですの」
オーディット伯爵の表情は変わらなかった。だが、片眼鏡の奥の蒼い瞳が、僅かに細められる。
娘が無知を装いながら、自分の言葉に真っ向から反論し、皮肉を返してきた。
そう、わかっていて手紙を残したのだ。あの娘は。
もはやただのお人形ではないことを、伯爵は改めて痛感していた。娘は、忠実な駒を演じながら、時に己をも刺しにくる刃へと姿を変える。
カリナは、手紙が公になっても構わないと、心底思っている。まだ逃げ道があるのだ。全てお父様に指示されてやった。怖くて逆らえなかった。などと嘘を並べ、父親すら切り捨てるつもりでいる。
応接間の時計が、小さくカチリと音を立てた。
その一瞬の音が、これほど長く続いた静けさの中では、やけに耳に障るほどだった。やがて、伯爵がゆっくりと息を吐いた。怒りも苛立ちも露わにはせず、ただ一つ、目を細めたまま低く呟く。
「……言い訳も甚だしい。一体誰に似たのやら」
その声には、怒号も皮肉もない。ただ、静かに吐き捨てるような冷笑だけがあった。
重たい沈黙の後、オーディット伯爵は背凭れに深く体を預け、組んだ指の上に顎をのせるようにして、じっと娘を見据えた。
「……毒は、調査官に押収されてしまった」
その声はひどく穏やかであったが、言葉の端には苛立ちが滲んでいた。計画が狂ったのは、彼にとって許しがたいことなのだ。
「〝あの計画〟のためにも、あの毒は必要不可欠だ。だが……」
視線が窓の外へと向けられる。
「レアンがああなってしまった以上、もう簡単に〝花〟を学園に届けることもできん。使者の目も厳しくなった。……私が届けたいのは山々なのだがね。残念ながら————最近は鼠が、どうも私の周りを嗅ぎ回っているようでな。……迂闊な行動は、命取りになる」
カリナはその言葉を聞いても、笑みを崩さなかった。まるで冬の朝の霜柱のように、凛として冷たい笑みを。
「それで……お父様は、私に〝花〟を持って学園に戻れと?」
伯爵は頷きもせず、ただその青い瞳を細めた。
カリナは小さく首を傾げ、まるで冗談を囁くように、ふふっと微笑む。
「申し訳ありません、お父様……私、すっかり毒の作り方を忘れてしまいましたの」
伯爵の指がぴくりと動いた。
「何?」
「ねぇ、書いてくださる?もう一度、作り方を」
その声音はあくまで可憐で、甘やかな令嬢のそれだった。まるでスコーンのおかわりでも頼むかのように。
「それから……お父様、実は、もうひとつお願いがございますの」
「……何だ」
「私、最近とても忙しくて。勉学に集中しなければなりませんし、冬の祝宴の準備もあって……毒を作っている暇がないのです」
満面の笑みだった。
目元に愛らしいえくぼまで浮かべて、心の底から無垢なふりをして。
「ですから、できれば……お父様が、もう一度作ってくださると嬉しいのですが」
部屋の空気が、また一段と冷たくなる。扉が閉じていたことを、今になって重く意識させられる沈黙が落ちた。
「……無茶を言うな。どうやって今さら持ち込むというのだ?検閲が厳しくなっていることはお前も知っているはずだ」
怒気を孕んだ声に、カリナはほんの少しだけ肩を竦めて見せると、懐から小ぶりの瓶を取り出して見せた。
カリナが愛用している香水の瓶だった。厚みのあるガラスに繊細な銀の装飾がほどこされた、手のひらほどのサイズ。長年使い込まれたそれは、カリナの指先に吸い付くように馴染んでいる。
「この瓶に入れて、持ち込んでください。夜の祝宴で、そっと受け渡しをしましょう……心配はいりません。〝以前、娘が実家に来たときに忘れていった香水瓶〟ということにしておいてください。誰も、疑ったりはしませんわ」
まるで何気ない忘れ物の手配でもするかのように、カリナは軽やかに言ってのけた。その指先で揺れる香水瓶は、小さな芸術品のように洗練された形をしている。だが、その中に注がれるものは、誰かの命を脅かす毒。美しい容れ物の中身がどれほど醜悪か、彼女は知っている。知っていて、笑っている。
————この娘は、気づいているのだ。
ゲラルド・オーディットはなるべく自分の手は汚さない主義。どんなに血が繋がっていようと、使えるものは使い倒し、必要がなくなれば躊躇なく切り捨てる。それが彼のやり方であった。
だからこそ、毒の調合も娘にさせ、もし何かあれば責任は彼女のものにするつもりだった。
だが、カリナはそれを見抜いている。
その穏やかな微笑みの奥に、父親を試すような、冷めた知性の光が宿っていた。
「……いいだろう。香水瓶に毒を詰めて送る。……だが、二度は頼まんぞ。今度こそ、失敗は許されん」
「ええ、もちろん」
淑女らしく微笑んで、カリナは嬉しそうに返事をした。
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