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21 隠し事

 エラ・シュトランドが連行されてから、数日が経過した。


 レアン・オーディットの毒殺未遂事件は、学園内に一時的な衝撃を与えたものの、まるでそれは最初から存在しなかったかのように、表面上は平穏を取り戻していた。

 噂好きな令嬢たちは新たな話題を探し、冷めた好奇心だけを残しては、笑顔を浮かべながらまた次の社交へと移っていく。教師たちも意図的に沈黙を守り、あくまで「異常はなかった」という前提で、いつも通りの日々を繰り返していた。


 だが。


 ロザリエ・ジークベルトの心には、取り除けない棘が深く残されていた。


(……デリウス)


 彼女の傍らに控える無口な従者。沈黙を好み、必要以上に主張せず、けれど確かにロザリエを守ってくれるその存在に、最近、妙な違和感を覚えるようになっていた。

 言葉では形容できない、不思議な重さが彼の沈黙に潜んでいる。

 視線が合えば、一瞬だけ感じる奇妙な緊張。まるで、彼が何かを隠しているような、そんな感覚。

 思考の断片が、脈絡なく頭の中を流れていく。結論には辿り着けず、けれど決して無視できるものでもない。

 ふと気づけば、ロザリエはもう教室を出て、人気の少ない回廊を歩いていた。重ねられたステンドグラスの影が床に揺れ、青や赤の光が静かに制服を染める。


(……考えても仕方ないわ。けれど、気を抜くべきではない…)


 角を曲がった瞬間、視界に飛び込んできたその姿に、ロザリエの呼吸が一瞬だけ止まった。

 金糸を流したような髪、深い湖面のような碧色。完璧に整えられた制服。何より、その胸元に輝く王家の紋章が、彼の立場を雄弁に物語っている。


 リチャード・ブルクハルト。この国の王太子。そして、形式上は自分の婚約者。彼の顔を見て、ロザリエの胸をよぎったのは、ときめきではなく、ただひとつ、冷ややかな諦めだった。


 一瞬、息が詰まるような心境の中で、ロザリエは顔を上げ、柔らかい微笑を貼りつけた。


(……落ち着いて)


 ロザリエはほんの僅かに瞬きをし、表情を滑らかに整える。胸の高鳴りをなだめるように深く呼吸し、どこまでも優雅に頭を下げた。


「ご機嫌よう、リチャード殿下」


 微笑みは完璧だった。けれどその裏には、張りつめた糸のような緊張が走っている。


 だが、リチャードは挨拶を返すどころか、その顔を怒りに歪めた。


「ロザリエ……!」


 リチャードの眉間には深い皺が刻まれている。その表情は怒気に歪み、言葉を抑えきれぬように、足音も荒く彼女へと詰め寄ってきた。


「お前……!なんという真似を……!」

「……真似?」


 ロザリエは首を傾げ、まるで心当たりがないという風に小さく問い返した。その冷静さが、リチャードの苛立ちをさらに煽ったようだった。


「カリナの部屋に、捜査官を連れて押しかけただろう。兄が毒を盛られたばかりで、心身共に弱っているあの子に、何の配慮もないのか?お前は彼女を侮辱し、傷つけたんだぞ!」


 その言葉に、ロザリエは僅かに目を細めた。


(……やはり、カリナから聞いたのね)


 リチャードは、いつだってそうだった。物事の一側面しか見ず、己にとって〝可憐で守るべき存在〟である者の言葉しか信じない。


「……殿下。調査は、私の一存で行われたものではありませんわ。レアン様の件は、学園全体の問題。学園側の判断によって調査官が派遣されたまでのこと」

「お前が唆したのだろう!」

「私が?……それは名誉毀損ですわね」


 淡々とした口調。しかしその声には、微かに怒りの熱が滲んでいた。


「カリナが、どれほど傷ついたか……!」


 リチャードの言葉は止まらなかった。まるで怒りを正義と勘違いしているかのように、彼はロザリエを怒鳴りつけ、荒々しく手首を掴んだ。その刹那だった。


 石畳の廊下に、柔らかな足音が重なる。一定のリズムを刻みながら、遠ざかるでも近づくでもなく、淡々と鳴り響くその足取りは、なぜか耳に刺さるような奇妙な存在感を孕んでいた。


 ロザリエは振り返らずとも、その足音が誰のものかを知っていた。予感ではない、確信だった。


 リチャードが訝しげに眉をひそめ、顔を上げた瞬間。


「……その手を、お離しくださいませ。殿下」


 その声はまるで、静謐な湖に投じられた一滴の水音のように、場の空気を変えた。


 叫ぶでも、怒鳴るでもない。けれど、その一言には否応なしに人の心を締め上げる、ひやりとした冷気が宿っていた。


 振り返ったリチャードの視線の先、廊下の奥に立っていたのは、一人の青年だった。


 漆黒の髪は丁寧に撫でつけられ、紅色の瞳はまっすぐに、鋭利な静けさを湛えている。質素な従者服に身を包んではいるが、その立ち姿には、凡百の従者とはまるで違う、異質な気配が滲んでいた。


「……なんだ、お前は」


 リチャードは言葉を荒らげたが、その声音は思ったよりも力を持たなかった。

 青年————デリウスは怯むことなく、ただ無表情のまま近づいてくる。ひとつ、またひとつと、足音が石床に落ちるたびに、その場に漂う温度が少しずつ下がっていくかのようだった。


「ご婚約者に対して、暴力ともとれる接触をされるとは……随分と情熱的でいらっしゃる。しかしながら、それは公の場では、決して美しいものとは見做されませんよ」


 皮肉も高揚もない、ただ冷えた声。だが、それが返ってぞっとするような威圧となって、リチャードの皮膚に突き刺さった。


「貴様……っ、誰に向かって口を————」


 怒鳴ろうとしたその瞬間、デリウスと視線が交錯した。


 ————ぞわり。


 言いようのない寒気が背筋を這い上がる。

 心臓が、一瞬、跳ねた。


(……なんだ、この感覚は)


 理解が追いつかない。だが、確かにこの気配を、リチャードは知っていた。


 呼吸が詰まりそうになるほどの既視感。頭の奥が、何かを思い出そうとしている。否、思い出してはならない記憶が、扉の向こうでじっとこちらを見つめているような感覚。


「っ……!」


 リチャードの手が、無意識にロザリエの手首から離れる。


 自分でもその理由が分からない。けれど、もうその青年と視線を合わせていることすら耐え難かった。


 逃げるように身を翻すと、ロザリエにもデリウスにも背を向け、まるで何かから逃れるかのように、足音を早めてその場を去っていく。


 その横顔は、酷く蒼白だった。


(……あり得ない。まさか、そんなはずは……)


 胸の奥が、激しく脈打つ。


(だって……アイツは、もう……!)






 ……リチャードは、ロザリエの手首を離したかと思うと、まるで何かに取り憑かれたように顔を青ざめさせ、その場から踵を返して足早に去っていった。


 彼の背が廊下の角に消えていくまで、ロザリエは一歩も動けずにいた。


(……何だったのかしら)


 あれほど怒りに燃えていた彼が、突如として表情を強張らせ、逃げるように立ち去った。その変化のあまりの急さに、彼女の胸には疑問が残る。しかし同時に、胸の奥に冷たい手を差し込まれていたような緊張感が、すっと和らいでいくのを感じていた。


「……助かったわ、デリウス」


 ロザリエはゆっくりと口を開き、穏やかに、けれどはっきりと彼に礼を述べた。その声音には、確かに安堵と、そしてほんの少しの揺らぎが混じっていた。

 デリウスはいつものように、涼やかな笑みを浮かべて一礼する。


「いえ、お嬢様。僕は当然のことをしたまでです」


 その一言は何度も聞いたことのある言い回し。淡々としていて、過不足のない敬意。彼はいつも通りの従者で、何も変わらぬ態度で応じてくれる。けれど。


(……やっぱり)


 ロザリエの胸の奥には、どこか晴れない靄が残っていた。エラの持っていた羊皮紙。リチャードの異様な怯え。そして、ほんの僅かに感じる、デリウスの〝演じている〟ような違和感。


 信じたい。けれど、信じ切れない。


 そのもどかしさが、喉の奥に引っかかったまま消えなくて、ついにロザリエは問いかけてしまった。


「……ねぇ、デリウス、正直に答えて欲しいのだけれど」

「はい。なんなりと。お嬢様」


「私に、何か、隠していることはない?」


 ロザリエの声は穏やかだった。しかしその響きには、彼女なりの覚悟と、微かに滲む不安の色が混じっていた。


 回廊には橙色の光が差し込み、ふたりの影を長く引き延ばしている。ステンドグラスを通った光が床に模様を描き、季節の風が微かに揺れるカーテン越しに入り込んでいた。


 その言葉を聞いた瞬間、デリウスの身体がぴたりと静止した。

 まるで時計が止まったかのように、時間が一瞬、凍りついたようだった。


「……」


 答えないまま、数秒の沈黙。ロザリエがじっと見つめる中、デリウスは顔を逸らした。


 ギギ……。


 機械仕掛けの人形が故障したかのように、ぎこちない動きだった。彼はまるで演じていた役から外れてしまった俳優のように、突然どこかへ視線を逃がし、聞き取りにくいほどの小さな声で呟いた。


「ぼ、僕が……お嬢様に……隠し事など……」


 その背には、普段の冷静な従者としての姿はなかった。


(おかしいわ……何をそんなに動揺してるの?)


 ロザリエは静かに、しかし確かに目の前の男を観察していた。

 こちらを見ず、視線を逸らし、何かを誤魔化すようにぎこちない笑みすら浮かべず、ただ、戸惑いに固まったかのようなデリウスの表情。


(いつものデリウスなら、もっと冷静に切り返せるはず……)


 それは、これまでの彼の在り方を知っているからこその違和感だった。

 たとえ核心を突くような問いをぶつけても、デリウスは決して動じることはなかった。ほんのわずかな間を置いて、完璧な嘘を返してくる。そこに偽りがあろうとも、彼は必ず〝正しい従者〟として振る舞っていた。


 けれど今、彼は明らかにおかしい。


 (何をそんなに……隠そうとしているの?)


 ロザリエの視線に、デリウスは気づいているはずだった。けれど、それでも彼は目を合わせようとしない。手持ち無沙汰に手袋の縁をいじりながら、どこか所在なげに窓の外へと視線を向けていた。


 そして。


 そんなロザリエの鋭い視線にも気づかぬほど、デリウスの内心は、今まさに嵐のただ中にあった。


(……駄目だ、何故こんなに意識してしまうんだ……)


 胸の奥がざわざわと波立ち、視線を合わせることすら困難だった。これまで彼女に〝好き〟という感情を抱いていたことは、否定しない。

 それでも、それを隠すことは、難しいことではなかった。

 今はロザリエの従者として、必要以上の感情を持つことは許されない。そう自分に言い聞かせ、感情を殺して立ち回ることは慣れていた。


 けれど、昨夜。


 焚き火の前でレイヴンに弄られ、煽られ、最後には自分の口からあの言葉がこぼれてしまった。

『うるさい!初恋の人なんだよ!しょうがないだ、ろ……』

 口にした瞬間、自覚してしまった。

 あぁ、自分はずっと、彼女を特別に想っていたのだと。


 その後のレイヴンのはしゃぎっぷりは言うまでもない。ニヤニヤ笑いながら、「か〜わい〜〜」だの「初恋続行中なんですか〜!?」だのと馬鹿みたいな言葉を連ねてきた。


(アイツ……絶対、いつか海に沈めてやる……!)


 心の底で毒を吐くが、怒りすら冷めやらぬまま、今度はロザリエ本人に問い詰められている。


「……やっぱり、何かあるのね……?」


 静かな、けれど確かな問いだった。


 夕暮れの回廊に、ロザリエの言葉が淡く響いた。差し込む橙の光が、彼女の表情を半分だけ染め上げている。その瞳には、疑念というよりも、戸惑いと、そして、どこか寂しげな色が滲んでいた。


 その一瞬で、デリウスの胸に何かが突き刺さる。


 言いたくなってしまう。〝全て〟を、今すぐに。


 自分が何者なのか。彼女の知る従者が、本当は何者で、何が目的で、なぜ傍にいるのか。そして、その胸に秘めてきた、許されぬ想いの正体まで、全て打ち明けたくなってしまう。


 けれど、口は動かない。


 動かしてしまえば、すべてが壊れる。


 ()()()()()()()()()()()()


 それに、彼女を傷つけたくはない。どんな形であれ————。


 彼はぎゅっと拳を握りしめ、わずかに目を伏せた。


「……今は、言えないのです」


 静かに、それだけを告げる。その声には、無力さと、けれどどうしようもない誠意が滲んでいた。

 ロザリエは少し目を見開いた。けれど、次にデリウスが言った言葉が、ふわりとその胸に触れる。


「ですが……どうか忘れないでください。僕は、お嬢様の味方です。それだけは……どうしても伝えておきたかった」


 その瞬間だった。

 胸の奥が、少しだけ温かくなる。

 そして同時に、彼のその切実な言葉に、ロザリエ自身も思い至る。


(……私も、彼に何も話していない)


 彼は今まで、どんなに奇妙な命令でも、疑いもせず従ってくれていた。あの毒の事件にしても、エラの行動に対する探りにしても。問いただすことも、責めることも、詮索すらせずに。

 それは「従者として当然の姿勢」と言ってしまえば、それまでのことなのかもしれない。

 けれど、それでも。あまりにも献身的で、あまりにも無防備で。


 まるで、「信じています」と、その在り方だけで示されているようだった。


 ————なのに、自分は。


(私は、自分が〝回帰〟していることすら話していないのに……)


 胸が痛んだ。

 静かに、けれど確かに、ずしりと重く。


 あの日、自分が処刑されたその場にいた者たちの顔は、今でも鮮明に思い出せる。誰が、何を口にし、どんな視線で自分を見下ろしていたか。

 そのすべてを覚えているからこそ、警戒していた。

 誰も信じるまいと誓った。

 だからこそ、今この手に握った再び与えられた時間は、冷静に、計算に、策略に使うべきだと、心に決めていたはずなのに。

 彼の言葉や、表情や、あの柔らかな仕草の一つひとつが、少しずつその決意を揺らがせる。


(彼は……私に嘘をついているのかもしれない。でも、それでも。私だって、同じだもの)


 ロザリエは、ふと視線を落とした。

 夕暮れの光が、石造りの回廊に長い影を落としている。自分と、そして彼の影が、重なっているのが見えた。


 まるで、それぞれの〝嘘〟を抱えたまま、同じ場所に立っているかのように。


(私は、ただ利用する為だけに彼を従者に選んだ。……最初は、そうだった)


 復讐のため。情報を集めるため。自分を陥れたすべての人間に裁きを下す、その第一歩として。

 けれど、気づけば彼は————デリウスは、いつの間にか、自分の心の中で〝駒〟でも〝道具〟でもなく、違う何かに変わりつつあった。


(なのに、彼にだけすべてを明かせって……それは、きっと、身勝手よね)


 だからこそ、あの言葉が出たのだ。


「……わかったわ、デリウス。もう何も聞かない。でもいつか、話してちょうだいね。きっとよ」

「……はい。必ず……」


 それは、自分自身への誓いでもある。

 もし彼がその時を迎えてくれたなら、今度は自分も、すべてを打ち明ける。


 それはまだ、遠い約束かもしれない。けれど、今、夕暮れの静かな時間のなかで、確かにその約束は結ばれたのだと、ロザリエは感じていた。





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