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20 初恋の人

 焚き火の火がぱちぱちと小さく音を立てる中、レイヴンは膝を抱えてしょんぼりと肩を落としていた。まだどこか胃の奥に転移魔法の名残が渦巻いているらしく、顔色はほんのりと青い。

 残ったパンの端を手に、レイヴンはもぐもぐと噛みながら問うた。焚き火の橙が、ふたりの影を壁に滲ませている。


「……そういえば、この手紙、ルトワーズに届けて……そのあと、どうするつもりです?」


 パンを口に入れたままのくぐもった声。それでも、その言葉には確かな懸念が滲んでいた。

 ルーデリウスは黙ったまま、陶器のカップに口をつけ、ぬるくなったミルクを啜った。焚き火の光が彼の金の髪に柔らかく差し込み、碧眼に炎の揺らぎを映した。


「……毒の生成方法と、成分の解析について依頼するつもりだ。正式な調査という名目でな」

「はぁ!?」


 パンくずを撒き散らしながら、レイヴンは勢いよく立ち上がった。椅子がぎぃっと軋んで後ろに倒れ、火の粉がぱちっと音を立てて弾ける。


「毒の生成と解析なんて……!ルトワーズにそんな依頼出したら、下手すれば、外交問題になりかねませんよ!?〝ブルクハルトが毒を開発している〟なんて誤解されたら、戦争の火種になるんじゃ……!」


 額に汗を滲ませながら、レイヴンは大げさな身振りで頭を抱え込む。まるで世界の終わりでも来たかのような騒ぎっぷりだった。


「……大丈夫だ」


 ルーデリウスのその一言は、重みこそあるのに妙にあっさりしていた。レイヴンは目を見開き、思わず前のめりになる。


「何がどう大丈夫なんですか!?ルトワーズの宰相なんて、ひとつでも怪しい動きがあればすぐに詰問してくるんですよ!?この前も小麦の輸送の件で————」


 ルーデリウスはそんな彼の様子を一瞥したのち、パンの欠片をひとつ手に取って口元に運ぶ。


「あの変人なら、そんなことは気にしないだろ」

「誰ですその変人!ああ、待ってください。言わなくていいです……たぶん分かります、俺の上司ですよね!?えぇ、えぇ、知ってますとも!」


 レイヴンはやけになったように肩をすくめ、焚き火の周囲をくるくると歩き回る。声に出した瞬間、もう脳裏に浮かんでいた。否、勝手に浮かんできた、と言った方が正しい。あの飄々とした笑顔。どこか子供じみて、しかし計算高いような、無垢でいて底知れない〝あのお方〟の顔が。


「あの方が変人でも、限度ってものがありますよ!?毒ですよ!?毒の解析ですよ!?そんなもん、普通の感性してたら距離置きますって……!」


 そのまま言葉を繋げようとして、ふと、頭の中で生々しく再生された光景に思わず震えた。


 ————ぱらりと紙をめくり、何やら化学式のような呪文のような文字がびっしり書かれた表を前に、彼はいた。例の、あの〝変人〟が。満面の笑顔で、まるで菓子でも手渡すようにレイヴンへ紙束を押しつけながら、こう言ったのだ。


『毒の生成?解析?いいよいいよ〜!じゃあレイヴン、これ届けちゃって!』


 にこにこと、悪びれもせず。まるで気軽な遣いか何かのように。


「……っああああああああもう!思い出しただけで胃が痛い……!」


 レイヴンはその場で崩れるように膝をつき、頭を抱えた。


 顔を上げると、ルーデリウスは黙ってパンを齧っていた。が、肩がわずかに震えている。くっ、と唇の端が吊り上がる。


「……笑いましたね?今、明らかに笑いましたよね!?デリウス様、俺、本当に明日こそ胃に穴開くと思いますからね!」


 レイヴンの叫びに、ルーデリウスはたまらず声を上げて笑った。まるで、何か楽しい悪戯でも思い出したかのような、そんな笑みだった。


「はーあ。俺の上司って、なんでこう……人の苦労を理解しない天才型ばっかなんですかね……」


 ルーデリウスはパンを齧りながら、レイヴンの言葉に心外だと言わんばかりに軽く眉を顰めた。


「それは僕のことを言ってるのか?」

「言ってますよ。僕を〝あの変人〟と一緒にするなって言いたそうですけど、残念ながら一緒ですからね。似た者同士!」


 レイヴンは指をぴしりと突きつける。


「仕事を急に振るのは日常茶飯事!無茶な命令は止まないし、時間は守らないし、説明なしに勝手に動くし、移動手段が魔法だから時間の概念がバグってるし……!それに!」


 声を強めながら、レイヴンはぐいと前かがみになった。


「なんで急に従者のフリなんて始めたんですか!?あれほんっとに困るんですよ!?誰にも相談できないし、常に警護対象だし、僕一応命令受けてますからね!?〝彼に何かあったらお前の責任だからね〟って……!」


 レイヴンは叫ぶように言って、ついにミルクのカップを置いた。


「首、ですよ!?クビじゃないですからね!? 首を斬るって方の首ですよ!?物理的に!死ぬ方の!」


 その言葉に、ルーデリウスは再びふっ、と吹き出した。彼らしい静かな笑み。心底楽しんでいる風だった。


「……しかも今回、なんでまたロザリエお嬢様の従者に?学園に潜り込む目的があったなら、たとえば学園の使用人とか、厨房係とか、花壇の世話係とか……もっと目立たず出入りできるポジションが、いくらでもあったでしょうに。よりによって、あの目立つお嬢様の、しかも従者って……」


 焚き火の揺らめきに照らされながら、レイヴンはパンのかけらを齧る。言葉の端々には、呆れと半ばあきらめの混じった声音が滲んでいた。

 だがその表情が、ふとした瞬間に変わった。


 何かを思い出したように目を細め、レイヴンはちらりと隣に座る男の横顔を盗み見る。そこにはさして意味もなさそうな沈黙と、燃え尽きた薪のひとつをつつくルーデリウスの手元だけがあった。


 それでも、確信めいた直感が、彼の中でぴたりと形を成す。


「……まさかとは思いますけど、ロザリエお嬢様の美貌に釣られて、とか言わないでくださいよ?」


 からかうように、しかしじわりと核心に迫るような声音で投げられたその一言は、焚き火のぱちりという音とほぼ同時だった。


 そして次の瞬間だった。


 ルーデリウスの動きが、まるで小さな石を投じた湖面のようにぴたりと静止した。

 薪をつついていた細い指が止まり、手が微かにこわばる。


 何事もなかったように見えた横顔が、ふいに火の光から逃げるようにわずかに背けられる。顎の角度がわずかにずれ、薄い唇がわずかに引き結ばれた。


 それはほんの一瞬のことだった。けれどレイヴンの目は、その一瞬を決して見逃さない。


 静かに月光が廃屋の隙間から差し込んでいた。そこに照らし出されたルーデリウスの横顔に、ほんの僅かに色が差していた。


 ……耳の先が、淡い紅に染まっている。


 にやり、とレイヴンの口角が静かに持ち上がる。


「……うわぁ、赤い……赤いなぁ〜〜……こりゃあもう、確定ですね」


 焚き火の前、レイヴンはじっとりとした目つきでルーデリウスを見つめていた。その表情は日頃押し殺していた鬱憤の全てが解き放たれたかのような愉悦に満ちている。


「言い逃れしようとしても無駄ですよ?耳まで真っ赤、しかもさっきから目合わせてくれないし……あ〜これはもう、〝好き〟ってやつですねぇ〜〜」

「……っ、うるさい……」

「はいはい、照れ隠しは結構。あぁ〜なるほど、そういうことか……急に従者なんて始めたのも、目立つロザリエお嬢様に張り付くようになったのも、ぜ〜〜んぶ、恋のせいだったんだ……!」

「……やめろ、レイヴン」

「やめろって言われてやめるわけないでしょ! 日頃どれだけ俺が無茶振りされてると思ってるんですか!?徹夜で連日走らされたのもきっとこの為!この機会に全部清算しますからね!ルーデリウス様の〝好きな人〟って、ロザリエお嬢様だったんですね〜〜!!」

「……!」


 ルーデリウスの瞳がぐっと揺れた。そして、まるで限界の糸が切れたように、彼は小さく唇を噛みしめた後、ついに声を上げた。


「……うるさいっ!初恋の人なんだよっ!!しょうがないだ、ろ……!」


 声が震えたのは、怒りだけではない。羞恥に喉が詰まりそうになりながら、それでもどこかに諦めが滲んだような、そんな叫びだった。


 そして、沈黙。


 焚き火の炎がぱちんと弾ける音が、やけに耳に残った。


「……は?」


 一瞬、レイヴンの思考が止まる。


「……え?」


 そして、次の瞬間。


「うっわあああああああああ!?本気!?本気で!?初恋って言いましたよね今!?言いましたよね!?ああ〜もうダメだ、これは……!!」


 レイヴンは腹を抱え、その場に倒れ込むようにして笑い出した。完全に壊れた。


「〝しょうがないだろ……〟って……!え、何それ!?何ですかその台詞!?可愛すぎて心臓止まるかと思ったんですけど!?殿下がそんなこと言う世界線、聞いてませんけど!?いや、デリウス様か。どっちでもいいけど、可愛すぎる〜〜〜〜〜っ!!」

「……っ、黙れっ……!!」


 ルーデリウスの顔は焚き火の光に照らされ、さらに紅潮していた。怒りと羞恥がごちゃ混ぜになっているその顔に、レイヴンは容赦なく追い打ちをかける。


「いやもうほんと……ありがとうございます……一生分笑った……ああ……腹が痛い……でも、言っちゃったからには、もう後には引けませんからね?次にロザリエお嬢様に会ったら、ニヤニヤして見てますから。えぇ。ず〜っと」

「見るなッ……!」

「じゃあ、見守ります」

「それもやめろ……!」


 焚き火のぱちぱちとした音に紛れて、レイヴンがわざとらしく距離を詰めてくる。ルーデリウスの顔に、まるで虫眼鏡でも構えるような勢いでぐいっと身を乗り出す。

 笑いを堪える気はまるでないらしく、目はきらきらと輝き、口元は終始にやけっぱなし。


「もっと知りたいな〜。殿下の初恋のこと〜。ねぇねぇ、なんで好きになったんですか、殿下〜?ひょっとして、まだ王宮にいた頃ですか?あれでしょ、ロザリエお嬢様って公爵令嬢だしぃ、ってことは、婚約者候補に名前が上がってたんですよね?お見合いの書類とかに写真が載ってて、一目惚れとかしちゃった感じ?」

「……レイヴン、いい加減にしろ」

「は〜〜、なんだろう、ギャップ萌えってやつですか?あのいつも冷静沈着、無口で寡黙なデリウス様が、実はこっそり初恋を引きずってるとか、あ〜〜〜たまらん!世間の令嬢たちが知ったら、さぞ大騒ぎですよ〜?“まぁ!殿下にもそんな可愛い一面が……!”って!」

「……っ」


 ルーデリウスは、もう俯いてしまいたかった。けれどそんな隙を見せたらレイヴンが図に乗るのは分かっている。分かっているのに、顔が熱い。喉の奥がひりつく。冷静でいようと必死に睫毛を伏せるが、どうにも目元まで火照って仕方がない。


「……ち、ちがう……別にそんな……引きずってなんか、いるわけ……っ」

「赤い〜〜!!うわー、鏡がここにないのが残念ですよ!!ルーデリウス様の頬が、真っ赤通り越して真っ赤っ赤ですよ!?もしかして、今の〝ちがう〟ってやつ、実は肯定ですか?正直に言っちゃいましょうよ。どうせもうバレてるし!しかもこれ、初恋って言ってましたもんね?ということは、人生で初めて本気で人を想ったわけですよね?」

「黙れレイヴン……!」

「でもわかりますよ〜、ロザリエお嬢様、確かに美人ですもんね。しかも芯が強くて、自分を持ってて、気高くて……なんていうか、ほら、ルーデリウス様ってああいうタイプ好きでしょ?」

「……もうこの話は終わりだ……!」

「いやいや、まだまだ聞き足りないですよ!殿下がどれだけお嬢様に惚れてるのか!俺、興味ありますもん!で?初めて見たのはいつ?言葉交わしたのは?その時の感想は?え、もしかして影から見てただけの一方的なやつですか?それもまた良いですね〜〜〜〜〜〜〜!!」


 たまらずルーデリウスは椅子から立ち上がり、レイヴンの胸ぐらを掴み上げる。


「……レイヴン……いい加減にその口を閉じなければ————」

「あっ!まさか魔法で記憶を消そうとしてるとか言わないですよね!?でもご安心を、消されても多分俺、また思い出しますから。だってこれ、俺の人生の宝ですもん!一生忘れません!」

「誰が宝だ!!もう二度と喋るな!!!」


 赤面し、怒鳴りながら、マントの裾をばさりと翻すルーデリウスの背に、レイヴンはにんまりと笑みを浮かべる。彼の目は確かに冷ややかだったが、どこか、少しだけあたたかかった。





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