19 王族の象徴
「ちょっ……ちょっと待ってくださいって、言ったのに……おぇ……」
廃屋の影が濃く伸びる裏路地。その場に現れるや否や、レイヴンはしゃがみ込み、胃を押さえて呻いた。顔面は青ざめ、今にもその場に嘔吐しそうな勢いである。
「看守が来てたんだ。それどころじゃなかっただろ。というか、いい加減耐性をつけろ」
隣で平然と佇むルーデリウス————いや、今はデリウスと名乗るその青年は、まるで日常の一部かのように淡々と吐き捨てた。
「人には向き不向きってもんがあるんですよ……!あの、ひゅいってする感覚がもう……うっぷ……あれ、魂ごと引き剥がされる感じしません……!?」
訴えるように見上げるレイヴンの眼差しも、どこか遠く虚ろだった。だがルーデリウスは一切取り合わず、黒衣の内側から一通の羊皮紙を取り出し、静かに言った。
「この手紙はお前が管理しろ」
「え?」
レイヴンは一瞬耳を疑った。眉間に皺を寄せ、ゆっくりと顔を上げる。
「えっと、それって……さっきの……例のヤバい手紙ですよね?」
「あぁ。レペグリアを用いた毒の生成法————ゲラルド・オーディット伯爵直筆の機密文書だ」
「え!?そんな大事なもの俺に!?ていうか、俺、今回何もしてないんですけど……俺が留置所に同行する意味ありました……?」
「……いつも急に仕事を振るなと怒るだろう。だから今回は、詳細を現地で直接説明するために、敢えて連れて行った」
それはまるで「感謝してくれてもいい」とでも言いたげな声音だった。
「……口で言ってもらえれば分かりますから!というか、移動だけでほぼ全部終わってたんですけど!?」
レイヴンは思わず声を上げる。だが、ルーデリウスは涼しい顔をしてそれを聞き流した。
まったく悪びれない上司に溜息を吐き、レイヴンは思わず天を仰いだ。遠い空には星すら見えず、ただ雲がゆっくりと流れていく。彼の胃の中も似たような具合だった。
「レイヴン、その手紙をルトワーズに届けろ。それが今回のお前の仕事だ」
「え?」
再び短く問う。今度は声が震えていた。
「ルーデリウス殿下……あの……ル、ルトワーズってどこか知ってます?そんな隣町にちょっと行ってこいみたいなテンションで言われても……あの、国、跨ぎますよ?国、ですよ?国境って、そんなサラッと渡れるもんじゃないんですよ…?」
「今はデリウスだ」
「あ、はい、デリウス様。……いやそうじゃなくて!今、俺の命運が普通に軽く扱われた気がするんですけど……」
抗議の声も虚しく、デリウスは一歩近づき、レイヴンの肩にぽんと手を置いた。
「僕が連れてってやる。だから心配するな」
「…………余計心配なんですけど!?」
しかし、その言葉と同時に、レイヴンの肩に再び、ぞわりと魔力の気配が滲んだ。
「ちょ、まっ……!心の準備をですね!?今度こそ、ほんとに吐きますからね!?本当に、本気で!!」
「……冗談だ。流石に休憩させてやる」
「ありがとうございます……命拾いしました…」
♦︎
火の揺らめきが、廃屋の壁にぼんやりとした影を描き出していた。古びた木造の柱が静かに軋み、風がどこかの隙間から忍び込んでは、ぱちりと焚き火の火花を散らす。夜の静けさが、まるで世界から切り離されたような孤独な静寂を連れていた。
そんな中で、二人の青年は、粗末な木の椅子に腰かけ、小さな火を挟んで向かい合っていた。彼らの手には、ぬるくなったミルクの入った陶器と、固く乾いたパンの切れ端。贅沢とは到底言えない食事だが、転移魔法の衝撃で胃がひっくり返ったレイヴンにとっては、それでもありがたいものであった。
「……っあ! ちょっと、デリウス様!!」
徐々に顔色を戻しつつあったレイヴンが焦ったような声とともに、突然手を伸ばし、ルーデリウスのマントのフードをばさりと荒々しく頭に被せた。その勢いに、ルーデリウスは思わず身をのけぞる。
「……なにをする、レイヴン」
不満げに目元を細めて睨みつけるルーデリウスに、レイヴンは必死の形相で指を突き出した。
「いやいやいや! 戻っちゃってますって!! 髪と目の色が!!」
「……ん?」
ぱちり、と瞬きを一つ。自分の頬に触れたルーデリウスは、視線を少し下げ、燃えさしの火に照らされた自身の髪の先をつまんだ。
夜の闇に馴染んでいたはずの黒髪が、いつの間にか光を宿したような柔らかな金色に染まり、風に揺れて煌めいている。加えて、その瞳。
ひとたび見れば誰もが息を呑むだろう、澄みきったサファイアのような碧眼が、月明かりに反射して淡く輝いていた。
それは、まぎれもなく。
ブルクハルト王家の〝血〟を証明する、選ばれし者の印。
「……別に、お前しかいないんだから構わないだろ」
ルーデリウスは肩を竦めながら、何事もなかったかのように答えた。
「髪や目の色を変えるのも、魔力を使う。……流石に、少し疲れた」
「いやいやいやいやいや!ダメですって!!」
レイヴンは今にも地団駄を踏みそうな勢いで叫んだ。
「今はただの〝デリウス〟なんですよ!?なのに王家印の金髪碧眼をうっかり晒してどうするんですか!?万が一、誰かに見られたら……!」
「見られない。ちゃんと魔法で結界を張っている。音も光も、ここからは漏れない」
「それ以前の問題ですからぁあああ……!!」
レイヴンは思わず頭を抱えた。肩を落とし、焚き火の前で崩れ落ちるように座り込む。
「……ったくもう。心臓に悪いったら……せめて俺にも警告くださいよ……ほんと……いきなり王子の顔に戻らないでください……」
「……王子じゃない。今はただの従者、デリウスだ」
「はぁい……デリウス〝様〟……」
皮肉めいた返事を吐きながらも、レイヴンはふと隣に視線を向ける。
金の髪に碧の瞳。その高貴な輪郭と静謐な気配は、まさしく王の器だった。
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