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18 魔法

 留置所の夜は、静かで、ひどく冷たかった。


 石の壁はひんやりとしていて、息を吐けば白く霧のように立ち昇る。時折吹き込む風が、かつん、とどこかの鉄格子を叩き、エラ・シュトランドの背筋をわずかに震わせた。


 その少女は、膝を抱え、牢の片隅に蹲っていた。


 細く柔らかな髪は乱れ、肩をわなわなと揺らしている。けれど、それは怯えから来るものではなかった。いや、確かに数刻前までは恐怖に支配されていた。だが今は違う。


「……そんな、一体、どうなっているの…!?」


 呟きながら、エラの震える指先が羊皮紙にぐしゃりと皺を作った。


 エラの手の中にある一枚の羊皮紙。


 調査官たちの前で突きつけた時、それはまるで最初から何も書かれていなかったかのように真っ白で、何の価値も持たないただの紙切れに過ぎなかった。あの時、全てが崩れた。人々の視線は彼女から信頼を奪い、冷笑と軽蔑を投げつけた。あれほど胸を張って差し出した「証拠」が、誰にも信じられなかったのだ。


 だが。


「……やっぱり。ある……わ」


 羊皮紙の表面には、確かに記されていた。


 ゲラルド・オーディット伯爵の流麗な筆致が、黒々と浮かび上がる。


 レペグリアの花、混合すべき抽出液の比率、熱する時間、保管条件、毒の効果……すべてが明瞭に記されており、その末尾には伯爵の署名がはっきりと書かれている。


「ほら……やっぱり……あの時だけが、おかしかったのよ。これを……もう一度見せれば、きっと————」


思わず、声が漏れた。唇が勝手に吊り上がる。背筋がぞくりとするような、陶酔に似た快感が心を満たしていく。


 その時だった。


 ————ごう、と、風が吹いた。


 エラの笑みが、ピタリと止まる。


 どこか遠くで牢の扉が軋んだのかと錯覚した。だが違う。この風は、外から吹き込んできたものではなかった。誰かの呼吸のように、肌を撫でる、異質な風。


「……な、に……?」


 言葉を発するより早く、彼女の視界の奥で〝何か〟が揺らめいた。

 空気が歪む。まるで水面に小石を落とした時のように、空間が波打ち、その歪みに人影が滲む。

 それは一瞬のことだった。歪みが収束すると同時に、そこには確かに〝人〟がいた。


 二人。


 光の乏しい牢の中でなお、はっきりと存在を主張するその気配。


 一人は、漆黒のマントを纏い、顔の半分を影に沈めた男。鋭い眼差しは闇を切り裂くようで、わずかに目を合わせただけで、肺の奥に氷を詰め込まれたような錯覚を覚える。

 もう一人、その後ろで、壁にもたれるように腰を折り、今にも崩れ落ちそうな青年がいた。


 思わず、エラは後ずさる。


 どこにも扉の開く音はなかった。足音すら、聞いていない。けれど間違いなく、彼らはそこに立っていた。


 まるで、最初からそこにいたかのように。


 けれど、違う。彼らは、さっきまでいなかった。間違いない。あの風の一吹きと共に現れた彼らは、明らかにこの世の理を無視していた。


 まるで————魔法のように。



「うぅ゛……やっぱり俺、転移魔法苦手です……」


 青年————レイヴンは青ざめた顔で、ぐったりとその場にうずくまる。片手で胃のあたりを押さえ、もう片方の手でふらふらと虚空を掴むように揺らしていた。


「胃が、ひゅう〜って……上に持ってかれる感じが……何度やってもダメですって、ほんと……内臓が裏返るかと……」


 唇の端が引きつり、額には脂汗が浮かんでいる。

 ルーデリウスはそんな彼を横目で一瞥しただけで、溜息混じりに呟いた。


「……ここで吐くなよ、レイヴン。余計な仕事を増やすな」

「ほんと、事前に言ってくださいよ……!今から転移するって!せめて、せめて三秒前には……」

「警告したところで、どうせ気絶するだろう?」

「だからって! せめて心の準備くらいは……胃が……ああ、胃がまだ浮いてる……っ」


 そう呻きながら、レイヴンは両膝を抱えるようにしゃがみ込んだ。見ようによっては子どもが癇癪を起こしているようにも見える姿に、エラは目をぱちぱちと瞬かせる。

 緊迫した空気の中、妙にコミカルな光景だった。


 だが、ルーデリウスの口元にだけは、ひとひらの笑みすら浮かばない。


「まだ文句を言う気力はあるようだな」

「うぐぅ……文句じゃないです……これは、命の叫びです……」

「あとで菓子でも買ってやる。今は黙っていろ。だから吐くな」

「…………それ、フリですか……?」

「違う」


 容赦ない即答だった。


 そんな二人のやりとりを、牢の中の空気が奇妙な沈黙で包んでいた。何が起きているのか理解できないエラは、ようやく我に返ったように口を開いた。


「な、何なのよ、あなたたち……!一体どうやって……」


 けれど、彼女の言葉を遮るように、ルーデリウスはまた一歩、前へ出た。軽やかで無駄のない動き。

 その瞳には、もはやレイヴンのふらつきも、エラの動揺も、何一つ映っていない。


「……遅かったか。魔法が解けている」


 そう言ったルーデリウスの声は、低く静かだった。だがその響きは、牢内の重苦しい空気をさらに深く沈める。


「は……?」


 思わず声を漏らしたのは、エラだった。理解が追いつかない。状況が飲み込めない。

 自分の懐にあった手紙が今、確かにその姿を取り戻していたというのに。


「魔法って、その紙にかけてたんですか?」


 横でしゃがみ込んでいたレイヴンが、うっすらと顔を上げながらそう尋ねる。まだ若干顔色は悪いが、その眼には興味の色が浮かんでいた。


「ああ、咄嗟にな。……ただの白紙に見せる幻影の魔法をかけておいた。だが、効果時間が短い。もって数時間といったところか」


「……魔法ってなに!?あんた、一体何者なのよ……!」


 震える声でそう叫んだ彼女の瞳は、怒りと恐怖と、そして得体の知れぬものへの本能的な拒絶で見開かれていた。唇はわなわなと震え、指先には微かに汗が滲んでいる。

 目の前の青年————ルーデリウスを睨みつけようとしながらも、その存在に触れるのを恐れるように、身体はどこかで後ずさろうとしていた。


 対するルーデリウスは、まるでその反応すら予想済みだったかのように、冷ややかな表情を崩さない。


「魔法を知らないのか?」


 ルーデリウスの声には高圧的な響きはない。ただ、静かで、確信に満ちたものだった。


 エラは肩を震わせたまま言葉を失い、息を詰めたように彼を見つめていた。


「……誰しも、一度は耳にしたことがあるはずだ」


 彼の口調は、どこか講義でもしているかのようだった。だが、彼の背後に漂う空気には、紛れもない異質さがあった。エラの常識を、世界の形を揺るがすような重さが。


「————王家の血を引く者が、稀に〝魔力〟を持って生まれるという話を」


 言葉が落ちた瞬間、牢の中に張り詰めていた空気が一層冷たくなる。まるで時間そのものが止まったように、冷え切った沈黙があたりを支配する。エラは、息をすることさえ忘れていた。胸の奥がひやりと冷たくなる。わずかに揺れた鎖の音が、現実に引き戻すように耳の奥で響く。


 彼女の中で、さまざまな情報が交錯していた。


 確かに、その話は聞いたことがある。遠い昔から語られる、古い伝承のようなもの。王家の血を継ぐ者の中に、ごく稀に魔力を宿して生まれてくる者がいると。


 まるで御伽話のようでいて、現実の裏側に静かに息づいている真実。


 実際、隣国のルトワーズ王国の王子が、魔法を使うという噂はあまりにも有名で、それが単なる作り話でないことを、誰もがどこかで信じていた。


 けれどブルクハルト王国では、違う。


 この国の現王家において、今も生きて名を連ねている王族に、魔力を持つ者は一人として存在しないはずだった。いや、少なくとも、そう公には知られていない。


 ならば、目の前で確かに魔法を使ってみせたこの男は、一体何者なのか。


 答えの出ない問いが胸中を渦巻く中で、空気が再び動いた。


「……おっと、長話をしている暇はない」


 ルーデリウスは思い出したように呟くと、静かに、しかし確固たる意志を宿した足取りでエラの目前に進み出る。そして、まるで何か神聖な儀式の一環のように片膝をついた。


 彼の指先が、ゆっくりとこちらへ伸びる。


「それを渡せ。エラ・シュトランド」


 穏やかだが、有無を言わせぬ口調だった。


「……いやよ!」


 エラの反応は、即座だった。


 その手に握りしめた羊皮紙————それこそが、彼女にとって最後の切り札。唇を噛みしめ、震える瞳でルーデリウスを睨み返す。


「絶対に渡さない……これがあれば……!」


 エラの声は、まるで断崖にしがみつく者のそれだった。牢の中、薄暗い灯りのもと、彼女は荒く息を吐きながら、ぐしゃりと握りしめた羊皮紙を胸に押し当てていた。その指は白く血の気を失い、瞳には焦燥と恨みと、微かな狂気が宿っている。


「そうよ……これさえあれば……カリナを、あの女をッ、引きずり下ろしてやるのよ……!」


 喉を振り絞るような呟きは、もう彼女が正気の端を離れつつあることを明確に示していた。


 そんな彼女を、ルーデリウスは無言で見下ろしていた。目の焦点が合わないエラに手を差し伸べたままわずかに溜め息をつく。やれやれといったふうに後頭部を軽くかきながら、困り顔で目を細めた。


 そして次の瞬間。


「カリナの次はあいつよ……!あの忌々しい女狐……!」


 耳に飛び込んできたその声に、ルーデリウスの動きが止まった。


「ロザリエ・ジークベルト……!全部あいつのせいなのよ……!あんな奴……跪かせてやる、あの女さえいなければ……!」


 言葉に毒を込めて吐き捨てるように、エラはロザリエの名を口汚く罵った。


 その瞬間だった。


 ————風が止んだ。


 ルーデリウスの瞳が、ゆっくりと細められた。

 それまで薄く笑みをたたえていた彼の表情から、音もなく感情が抜け落ちる。代わりにそこに現れたのは、鋼のように無機質な静けさだった。目の奥に、何の感情も浮かばない。だが、そこには確かに、圧倒的な拒絶があった。


 刹那。


「……ッぐぅ……!」


 鈍い音と共に、エラの頭部が不自然な角度に持ち上げられる。

 気付いた時には、ルーデリウスの右手が彼女の頬をがっちりと掴んでいた。

 強く、だが乱暴ではなく。確実に、しかし無駄のない動作で。

 指先は鋭くはない。だが、どこか氷のような冷たさがその手にはあった。


「次、ロザリエお嬢様の名を口にしてみろ」


 その言葉は、氷の刃のようだった。


 ゆっくりと、確実に。

 ルーデリウスは、エラの視線の高さまで身を屈めた。手はすでに離れていたが、空気の重さはなお変わらない。彼の声は怒鳴りもせず、静かだった。それなのに、エラの背筋にはひやりと冷たい何かが走った。


「お前のそのよく回る舌を引き抜いてやる」


 その声音に、冗談の気配は一切なかった。


 月明かりが、牢の鉄格子を抜けて、かすかに差し込んでいた。彼の輪郭ははっきりと見えた。整った眉、きりりとした目元、月光を受けてほんのりと光る黒髪。張り詰めた沈黙の中で、ふとその顔立ちに既視感を覚える。


 震えるまつ毛の奥で、過去の記憶が静かに波紋のように広がっていく。


(ッ、この男……!)



 記憶が、確信に変わる。


 間違いない。

 彼は、いつもロザリエのすぐ後ろに控えていた男だ。従者か護衛か、あるいはただの身の回りの世話係か。特に気に留めることすらなかった。


 しかし今。


 目の前に立つこの男の圧は、かつてのそれとはまるで別物だった。

 同じ顔、同じ姿形のはずなのに、まるで違う。エラの記憶の中の彼は、もっと静かで、影のようで、従順そうだった。

 それが今はどうだろう。冷えた瞳でこちらを見下ろし、全身から溢れるような威圧感を放っている。


 震えながら、エラは後ずさろうとした。


 が、背後には鉄格子の壁。


 逃げ場はどこにもなかった。


「デリウス様?あのー、そろそろ行きませんと……看守の足音も聞こえてきた事ですし?」


 レイヴンは小さく息を呑み、少し気まずそうに声をかけた。薄暗い牢屋の冷たい空気に、その言葉がぽつりと響く。


 ルーデリウスは、放心状態で身動きもできずにいるエラの傍らで、静かに目を閉じた。そしてゆっくりと息を整し、落ち着きを取り戻すと、鋭い視線をエラの手元に向ける。


「……分かっている」


 その短い言葉に重みを感じさせながら、彼は迷うことなく、震えるエラの手から手紙を奪い取った。指先に触れる冷たい羊皮紙の感触が、真実を握りしめた瞬間の重みを示していた。


 ルーデリウスは手紙を一瞥すると、それを黒衣の内側に滑り込ませた。そして振り返ると、戸惑い気味に後ずさるレイヴンの肩を、容赦なく引き寄せた。


「へっ……ちょ、ちょっと待ってください!まだ心の準備がッ————」


 レイヴンの言葉が終わるよりも早く、空気が一瞬にして張り詰めた。


 牢獄の中に渦巻く風がひゅうと鳴り、月明かりすら揺らめいたように見えた。

 そして二人の姿は、まるで幻のように、そこから掻き消えた。風と共に、痕跡も残さず。


 ……ただ残されたのは、冷たく揺れる枷の音と、膝を抱えて震える少女の嗚咽だけだった。





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