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17 信じたい

 エラ・シュトランドは、喚き暴れるところを調査官たちに抑えられた。

 罪状は明白だった。

 レアン・オーディットへの毒殺未遂。そしてその罪をカリナ・オーディットへと意図的になすりつけようとした行為。


 殺意と偽証。

 貴族社会において、最も重く見られる二つの罪を重ねた少女の運命は、すでに定まっていた。彼女は今、被疑者という立場だが、これから調査を進め、然るべき機関がエラの罪を暴いてくれることだろう。


 罪人のように腕を掴まれ、足を引きずるようにして連行されていくエラの背を、ロザリエはただ、黙って見送っていた。

 その表情に、勝利の笑みはなかった。唇は固く結ばれ、目元には薄い疲労の陰りが漂っている。


(何かが、引っかかる……)


 確かに、エラは自ら毒を用い、レアンを傷つけた。確かに、彼女はその罪をカリナへ向けて矛先を逸らそうとした。

 ……だが、それだけで、果たして本当にすべてだったのだろうか。


 ロザリエの視界の端で、エラが扉の向こうへと連れ去られていく。それでも彼女は、一歩も動かない。立ち尽くしたまま、口を開くこともなく、ただ、心ここに在らずといったまなざしでその光景を見ていた。


「さあ、ロザリエお嬢様。そろそろお休みの時間です」


 背後から掛けられた、あまりに、いつもの調子の声。


 ロザリエは、はっとして振り返る。そこには、いつも通りの笑顔を湛えた、デリウスの姿。

 黒髪を丁寧に整え、きちんとした所作で立つその姿は、どこから見ても完璧な従者だった。だが、ロザリエの心の中には、解けきらぬ霧がまだ、確かに残っている。


 羊皮紙が白紙だったこと。

 エラの瞳にあった確信と驚愕。

 そして、それをいち早く「ただの羊皮紙です」と断じたデリウスの冷静さ。


(本当に、あなたは……何も知らないの?)


 問いかけようかと迷い、けれどその声は胸の奥に沈んで出てこなかった。


「……え、えぇ」


 僅かに遅れて、ロザリエは返事をする。そして、促されるままに、デリウスの後ろについて静かに歩き出した。


 廊下を進みながら、足音だけが規則正しく響く。

 何かを言いたいようで、でも言えない。そんな沈黙が、二人の間に淡く横たわっていた。


(信じたい……信じたい、けれど)


 ロザリエはちらりと、前を行くデリウスの背に視線を送った。その背中は、変わらずしなやかで、どこか安心感をくれるのに、どうしてだろう。


 今夜は、少しだけその背が遠く見えた。




♦︎




 学園から遠く離れた、王都の片隅————いや、その更に外れにある、廃屋の影が伸びる裏路地。


 夜はすっかり深まり、街灯も消え、遠くの塔の鐘さえ沈黙していた。人通りなど皆無で、ただ冷たい風が、ひゅうひゅうと石畳を撫でていく。

 そんな路地の一角に、ひときわ目立つ黒い影があった。


 黒いマントに身を包み、深く被ったフードからは、顔の半分を覆うように長い黒髪が垂れている。その青年は、路地の石壁に背を預け、ゆら、ゆらと首を揺らしていた。まるで木馬のように、こくりこくりと船を漕いでいる。


「……すー……すー……」


 律儀に、寝息まで立てているあたり、ただ者ではない。……いや、ある意味で、ただの間抜けにも見える。


 だが、次の瞬間。


 ————パチン!


 額に突然、ぴしりとした鋭い痛みが走った。


「ぎゃっ!?」


 情けない悲鳴を上げ、青年は目を見開いて飛び起きた。反射的に頭を押さえ、次に見上げたその先には。


「ッ!ル、ルーデリウス様っ!予定より早いご到着でっ!」


 慌ててフードを脱ぎ、直立不動になろうとするも、寝ぼけ眼ではうまくバランスも取れない。青年————レイヴンは、必死に言葉を整えようとするが、その前に、冷ややかな声が降ってきた。


「……レイヴン。外では、〝デリウス〟で通せと、何度言ったらわかる?」


 静かながらも低く、鋭い声だった。


 風の中に、ひときわ際立つ存在。

 月明かりの下、黒衣のコートを身に纏い、鋭い瞳と整った顔立ち。その男は、確かに王族の血を感じさせるものを纏っていた。


 ルーデリウス。基、今は、デリウス。


 路地の闇に立つ彼は、まるで影を引き連れるように、その場の空気ごと変えてしまう。


「も、申し訳ございません……!寝ぼけていたもので、つい……!」


 レイヴンは額を押さえつつ、背筋を伸ばして慌てて頭を下げた。その声には、恭しさよりも生き延びたいという本能的な恐怖が滲んでいる。

 ルーデリウスは、ちらりとレイヴンの足元を一瞥すると、小さくため息をついた。


「……この程度の緊張感で、よくここまで僕の命を預かってきたものだな」

「ひっ……申し訳ありませんっ!でも!あの、でもですね!?予定より三刻も早く来られるなんて、寝るなというのが無理な話でしてっ!」

「言い訳はいい。……例の伯爵の件の報告が先だ」


「は、はいっ! ああ……ええと、〝オーディット伯爵〟ですね!」


 レイヴンは慌てて黒マントの内ポケットを探り、ぐしゃぐしゃになったメモ用紙を引っ張り出す。紙の端が擦れて小さく裂ける。レイヴンは気にも留めず、目を走らせながら早口で続けた。


「伯爵は……はい、現在もリチャード殿下と定期的に会っています。形式上は、カリナ嬢との外出。いわゆる恋人のデートってやつでして、伯爵に会うためのカモフラージュですね」

「……で、どこで接触している?」

「王都劇場のVIP席です」


 そこまで言うと、レイヴンは顔をしかめながらも声を潜めた。


「VIP席は、防音設備も徹底されていて、外からも中からも音が届きません。演目に集中できるように、って名目ですが……実際には、密談にはもってこいの空間なんです。照明も調整されてて、観客席から誰が入ってるかも見えない」


 レイヴンは、両手でジェスチャーを加えながら、どこか呆れたような声で言った。


「さらに照明も絶妙に調整されてまして。観客席から誰が入ってるか、まず見えない。ほら、あれですよ。『観劇は幻想の世界に没頭するもの』って言葉にかこつけて、貴族たちが裏でこそこそやるために作られたような……ぶっちゃけ、便利な密談ルームです」


 ルーデリウスは目を細め、レイヴンの方へ視線を投げた。


「……会話の内容は?」


 短く放たれた問いに、レイヴンは一瞬だけ肩をすくめ、気まずそうに視線を逸らした。


「流石に、聞き取れませんでした。防音が徹底されておりましたので」

「そうか……受け渡しなどはあったのか?」


 ルーデリウスの声には、微かに焦りが滲むような冷ややかさがあった。それを敏感に察知したレイヴンは、真顔になって首を横に振る。


「ありませんでした。会話こそ何かしら交わしていたようですが、物品の受け渡しや、明らかに何かを手渡すような行動は確認できません。お互い身一つで現れて、身一つで立ち去った。見た限りは、ですけど」

「……なるほど」


 ルーデリウスは視線を遠くに投げる。


「……ご苦労だった」


 低く抑えられた声が夜の路地に落ちた。


 ルーデリウスが静かに立ち上がると、その周囲の空気がわずかに揺れたように感じられた。闇に溶け込むような黒のマントが、その背に風を孕んで揺れ、銀糸の刺繍が淡く月明かりを受けてきらりと光る。


 一歩、また一歩。彼が歩き出そうとした瞬間、レイヴンは安心しきったように体から力を抜き、軽く手を振りながら言った。


「はい、それでは俺はこれで。寒い中お疲れさまでし————」


 その言葉が終わる前に、ぐっと肩を掴まれた。


「待て」

「……っえ?」


 掴まれた肩に、ずしりとした重みが乗る。レイヴンは首をすくめ、固まった表情のままゆっくりとルーデリウスの方へ振り返る。そこには、仄かに微笑みながらも、まったく笑っていない紫の瞳があった。


「まだ仕事はある」

「え、いや、あの……」


 レイヴンは動揺したように目をぱちぱちと瞬かせ、額にじんわりと汗を滲ませながら言い淀んだ。


「俺、実はですね、昨日から、あの……腹に、何も入れてなくてですね?なんかその、軽食とか……パンとか、肉とか、そういうものをちょっとでも……取りたいなーって思ってたりして……」


 必死の訴えに、ルーデリウスは一瞬だけ目を細め、そして、静かに呟いた。


「……後で、たらふく食わせてやる」

「えっ?」

「鴨のコンフィでも、仔牛のロースでも、ミルクたっぷりの甘いプリンでも何でもいい。だから今日は残業だ」


 その語調は穏やかだが、有無を言わせぬ強さがあった。

 レイヴンは口を開いたまま絶句し、抵抗する隙も与えられぬまま肩を引かれ、歩き出すルーデリウスの後に続くことになった。


「ひ、人使いが荒い……。いやでも、プリン……?ほんとにくれるんですか……?」


 ぶつぶつと小声で愚痴を零しながらも、従う姿勢を崩さないあたりは、彼なりの忠誠の表れだろうか。


「それで……あの、どこまで付き合えばいいのでしょう」

「……今から留置所へ行く」


 唐突に放たれたその言葉に、レイヴンは呑気に「へぇ」と相槌を打ち、次の瞬間、首を傾げた。


「留置所……何故です?」


 歩く速度を緩めることなく、ルーデリウスは短く答えた。


「エラ・シュトランドが、そこに収容されているからな」

「……エラ……?あぁ、あの、シュトランド子爵家のご令嬢ですか?」

「そうだ。彼女が、とんでもないものを懐に抱えているから、それを回収しに行く」


 言葉の端々に、微かだが張り詰めた空気が滲んでいるのを感じ取り、レイヴンはようやく目を丸くした。


「とんでもないもの……?それって、なんです?」


 やや身を乗り出すようにして尋ねたレイヴンに、デリウスは一拍の沈黙を置いてから、静かに口を開いた。


「オーディット伯爵が直筆した、レペグリアの花を使った毒の生成方法が記された手紙だ」

「へぇ……毒の生成方法……」


 レイヴンの返事は、前半と後半で明らかにテンションが違った。


「……はああああああっ!?!?」


 彼の身体が一気に仰け反る。


「え、え、ちょっと待ってください!?そ、それほんとにあの、やばい文書じゃないですか!?どうしてそれが、シュトランド子爵令嬢の懐に————」

「……話は後だ」


 ルーデリウスの声がピシャリと空気を断ち切る。その直後。


「とりあえず、捕まれ」

「へっ……?ちょっ、わぁっ!」


 レイヴンが言葉を発する間もなく、肩をがっしと掴まれたかと思うと、次の瞬間、彼らの姿は闇の路地からふっと掻き消えた。


 風もないのに、黒いマントの裾だけが静かに翻り、そこにはもう誰の影も残っていなかった。

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