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15 余計なことを!

 重たい沈黙が、部屋の隅々にまで染みついていた。


 薄曇りの午後、カーテンの隙間から射し込む柔らかな陽の光さえ、この部屋ではどこか冷たく感じられる。空気は澱み、息をするたびに、胸の奥まで重苦しいものが染み込んでくるようだった。


 カリナは何も言わなかった。


 鏡台の前に座り、真珠のような耳元をちらつかせながら、静かに髪を梳いている。緩やかなウェーブのかかった赤髪が、淡い光を受けて、まるで火を宿した絹糸のように艶やかに揺れた。


 櫛が髪を滑る音だけが、やけに大きく響く。


 ぎし、と小さな音を立てて椅子が軋んでも、カリナはまるで何も聞こえていないかのように、ただ前を見つめたままだった。鏡の中の自分に、無表情の仮面をかぶせたまま、そこに宿るものは、もはや感情ですらなかった。


 対するエラも、また黙していた。


 言葉を飲み込むように、唇を真一文字に閉ざしたまま。手のひらは汗ばんでいるのに、膝の上に重ねた指先は凍りついたように動かない。


(……気づいている)


 エラは思う。確信に近かった。


(カリナ様は、きっと気づいている。私が、あの隠し棚を開けたことも……レペグリアの毒を手に取ったことも)


 背筋に、ぞわりとした冷気が走る。なのに、目の前の彼女は変わらない。

 変わらず、丁寧に髪を梳き、変わらず、視線を合わせようとしない。


 言葉一つ、視線一つ交わすことなく、それでいて、ただ〝知っている〟という圧だけを、ひたひたと空気に滲ませていた。


 突然、櫛の音が止んだ。


 小さな、けれど妙に耳につく音を立てて、カリナが鏡台に櫛を置いた。その動作は、あまりにも自然で、あまりにも静かだったのに、次の瞬間、部屋の空気が一変した。


「……ないのよ」


 ぽつりと零れたその声に、エラの背がぴくりと震えた。


「え……?」


 聞き返した声は、ほとんど反射だった。わかっていた。自分に向けられた言葉だということも、決してその先が優しい問いではないことも。けれど、耳は勝手に動き、口は意味を問うてしまっていた。

 カリナは、ゆっくりと鏡越しにこちらを見た。


 その目を見た瞬間、エラの喉が、ひゅっと音を立てて縮こまる。


 目の前の彼女は、いつもの穏やかな微笑みを浮かべる〝完璧な令嬢〟ではなかった。


 無表情ではなかった。

 怒りとも少し違う。


 それは、感情を削ぎ落とした氷のような、冷えた怒気。


「ないのよね」


 鏡に映る口元が、わずかに吊り上がった。笑っているように見えたけれど、それは形だけのものだった。目は笑っていない。どころか、底の見えない暗い湖のように、冷たく、重く、揺れていた。


「私が隠していた小瓶……それから、お父様からのお手紙も」


 一つずつ、明確に言葉を並べていくカリナの声が、ゆっくりと、エラの首を絞めるように響く。


「どこに隠したのかしら?」


 その問いに、エラの心臓がどくんと跳ねた。冷たい汗が背中をつたうのが分かる。


「わ、わた……わたし……私は……!」


 舌がもつれ、息がうまく吸えない。何か言おうとするたびに、喉が硬くなり、言葉にならない音ばかりがこぼれ落ちる。

 カリナはゆっくりと立ち上がった。椅子が微かに軋みを上げ、彼女の足音が、あまりにも静かに床を歩く。やがて、エラの目の前でぴたりと止まり、その瞳が真っ直ぐに、エラを貫いた。


「……本当に、貴方は」


 すぅと息を吸い込み、カリナは目を細めて、吐き捨てるように言った。


「余計なことをしてくれたわね」


 それは怒りではなかった。


 ただ事実を告げるように。ただ運命を確定させるように。


 その言葉は、エラの胸を突き刺し、じわじわと、凍えるような恐怖が足元から這い上がってきた。


「……毒は、いいのよ」


 静寂を裂くように、カリナの声が落ちてきた。それは、あまりにも自然で、あまりにも穏やかな響きだった。

 けれど、エラはその一言で、喉の奥がひゅっと詰まり、思わず肩を震わせた。心臓の音が、自分の耳にだけうるさく響いている。


「調べたところで、どの薬草で生成された毒かなんて……前例がないものなら、分かりはしないでしょうから。まだ、ね。まだ、いいのよ」


 まるで、料理の材料でも説明するかのような口調だった。その落ち着きこそが、何よりも恐ろしかった。

 目の前の令嬢は今、自らが〝毒〟という言葉を口にしていることに、なんの躊躇も感じていない。


 張り詰めた空気の中で、沈黙が訪れる。けれど、その静けさはすぐに破られた。


「でもね」


 エラは思わず、椅子の背凭れに身を引いた。だがそれも無意味だった。


 カリナは迷いなく膝を折り、顔を寄せた。真正面から覗き込むように、目と目を合わせる。


「……あの手紙は、だめ」


 その瞬間、息が止まった。


 カリナの吐息が肌に触れそうな距離。見つめる瞳は、澄んでいて、何より冷たい。


「あの手紙に、お父様の……オーディット伯爵の署名があるのを知らないわけじゃあないわよね?」


 一つの疑問の形を取ったその言葉に、エラの背中を氷の刃が撫でた。小さく、口が開きかけたが、声にならなかった。顔が強ばり、額には細かな汗が滲んでいく。


 カリナの瞳は一切揺れなかった。


「……あれはね、切り札なの」

「あ、え……?」


 エラが搾り出した問いかけは、かすれた声だった。自分の声が、自分のものとは思えないほど震えている。


「何故、私が手紙を取っていたか……分からない?」


 ふわりと囁かれたその言葉に、エラの胸がきゅっと締め付けられる。肺が空気を拒むように、深く息が吸えない。手のひらが、膝の上でこわばっていた。


「いざとなれば、〝お父様に指示されたのだ〟と主張できる————それを証明する、私の大切な、切り札だったのよ」


 ぞくり、と背骨に冷たい感触が走る。

 エラは動けなかった。瞬きすら忘れるほどに。カリナの笑顔は、あまりにも〝完成されすぎていた〟。

 その冷たい作り物の笑みに、怯えさせられるのではない。〝作り物だったという事実〟が、恐怖だった。


(この人は、本当に……カリナ・オーディットなの?)


 いつも凛としていて、誰にでも優しくて、困っている生徒がいれば真っ先に手を差し伸べていた、あの彼女が、こんな目をするなんて。


(私の知っているカリナ様じゃない……!)


 いや、違う。


 今、目の前にいる彼女こそが、本物のカリナなのだ。


 優しさも、気遣いも、聖女のような微笑も、すべては、仮面。作られたもの。誰よりも丁寧に、自分を完璧に演出するための道具。

 その仮面の奥にある本性が、こんなにも冷たく、こんなにも計算高く、そして、家族すら〝切り札〟として扱う思考だと————。


(私は……この方の事を何も知らなかった……)


 エラの唇が、震える。言葉が出ない。ただ、目の前の令嬢がにこやかに「切り札」と言ってのけるのを、呆然と見つめるしかなかった。


 その時、エラは知った。


 優しさに見えたものの裏に、

 他人すら信じず、すべてを手駒として割り切る冷徹な意志があることを。


 目の前の彼女は皆が讃える〝聖女〟などではなかった。


 カリナ・オーディット。その真の姿に、エラは初めて触れてしまった。


 そして、その瞬間、背筋の奥底まで凍りつくような、純然たる恐怖が染み込んだ。


「どこに隠したのか、言えるわよね?」


 カリナの声が、ふわりと柔らかく空気に乗った。けれど、その響きはまるで絹に包まれた刃物のようで、心を撫でると同時に、鋭く突き刺さる。


「だって、貴方がやったんだから」


 その一言が、まるで断罪だった。声は低くも高くもなかった。ただ真っ直ぐに、何も飾らず、淡々と事実を語るような口調で。


 なのに、それが最も恐ろしかった。


「私を、これ以上怒らせたいの?」


 小さく、カリナが首を傾げる。その表情は変わらない。美しく整った顔立ちは、どこまでも冷静で、どこまでも優雅で。


 だがその瞳の奥では、薄氷のような怒気がぴしり、と軋んでいる。


 エラの心臓が、痛いほど打ち鳴った。


 ……怒らせたら、どうなるのか。


 想像が、できない。でも、ひとつだけはっきりとわかっていることがあった。


 この令嬢は、本気で、誰かを〝消す〟覚悟がある。

 それが自分であっても、カリナはたぶん、何一つ表情を変えずにそれを実行するだろう。

そして、それを後悔もしないだろう。

 恐怖が、喉を締めつけた。口の中が乾いて、息が熱くて、全身がひどく冷えているのに、顔だけ火がついたように熱い。


 エラの目が泳いだ。


(カリナ様のアクセサリーの箱……小瓶は、そこに……手紙は……私の懐の中に……!)


 言ってしまえば、楽になる。


 そう思った瞬間、喉元まで、言葉がこぼれ落ちそうになった。


 その時だった。


 ————コン、コン。


 小さく、けれどはっきりと、部屋の扉が叩かれた。

 エラの肩が、びくりと跳ねた。まるで、落ちる直前に掴まれたような感覚だった。


 時間が、一瞬だけ止まったように感じた。


 張り詰めていた空気が、僅かに揺らいだ。

刃のような静寂が、音を許したことで、わずかに弛緩する。

 カリナの瞳が、扉の方へとゆっくりと流れる。そして、その視線に釣られるように、エラもそちらを見る。


 そして次の瞬間、カリナはふわりと口元に笑みを浮かべた。まるで、春の日差しのように柔らかく、温かく、誰もが安堵するような、いつもの優しい微笑み。


「どなた?」


 鈴を転がすような、澄んだ愛らしい声が、木扉越しに響いた。その声音に、エラは一瞬、先ほどまでの緊張が幻だったのではと思うほどに感じた。だが、自分のこめかみをつたう汗が、現実をはっきりと教えてくれる。


 扉の向こうから返ってきたのは、低く抑えられた男の声だった。


「調査局の者です。部屋の確認を行いたいのですが」


 その言葉に、カリナの眉が、ごくわずかに動いた。けれど、即座に表情を整え、小さく息を吐いたような仕草を見せる。


「まぁ……また調査の件なのですね」


 落ち着いた所作で立ち上がると、カリナは扉へと歩み寄った。ドアノブに白く整った指先をかけて、回す。


 そして扉が静かに開かれた、その瞬間。


「……っ」


 カリナの身体が、ごく一瞬だけ、固まった。


 そこに立っていたのは、数人の調査官に囲まれながら、静かに微笑むロザリエ・ジークベルトだった。その後ろには、黒髪の男が一人。

どこか胡散臭い、得体の知れない笑みを浮かべながら、ロザリエの傍にぴたりと寄り添っている。


 デリウス————カリナはその名を知らない。けれど、あの女に従う忠犬だとすぐにその姿を思い出した。


 心がひやりと冷えるのを、カリナは自覚した。だがそれを一切表に出さず、むしろさらに柔らかい笑みを浮かべる。


「まあ、ロザリエ様。どうしてこちらに?」


 その声音は、完璧だった。

 丁寧で、優しく、驚きと喜びとをほんの少しだけ混ぜた、貴族令嬢の正しい問いかけ。


「調査官の方々が困っていると、少し耳にしまして」


 ロザリエは、変わらぬ優雅な笑みを口元に湛えながら、ふわりと一歩、部屋へ足を踏み入れた。白磁のように滑らかな頬に、柔らかな笑み。その表情は、いかなる敵意も感じさせない。


「カリナ嬢……貴方が、捜査に非協力的だとか」


 にこり、と微笑を深める。その瞳に揺れるのは静かな光。それは、優しさではなかった。微笑んでいるのに、そこに宿るのは冷えた探究心。そして、嗤いにも似た薄氷の意思。


「カリナ嬢は私の〝お友達〟ですから。捜査に協力するよう説得する役を名乗り出たのです」


 カリナは、ぴくりと眉を動かした。


 ほんのわずか。まばたきにも満たない、微細な動き。ロザリエの言葉に苛ついたのが見て取れる。


 だが、カリナは即座に笑みを繕った。


「非協力的だなんて……そんな、心外ですわ」


 声色はやわらかく、湿り気すら含んだものだった。誰が聞いても心を痛め、共感したくなるような、気丈な妹の演技。


「ただ少し……時間が欲しいだけなのです」


 カリナは、言葉の端にかすかな震えを混ぜる。わざとらしさすら感じさせない絶妙な塩梅で、感情を織り込む。


「お兄様が……殺されかけたのですから」


 声が細くなり、瞳を伏せる。


「心が……まだ落ち着かなくて……」


 伏せた睫毛が影を作る。手の甲がそっと胸元を押さえる。見事な演技だった。傷ついた妹の役柄を、隙なく演じ切っている。


「……そう……明日まで待っていただければ、きっと落ち着いて、お話できると思いますから」


 その一言の裏に、確かな〝計算〟があった。


 カリナはちらりと、部屋の奥で怯えたように椅子に腰掛けているエラに視線を送る。

 ほんの一瞬、あまりにも自然な仕草。だが、そこに宿るものは確かだった。


《明日までに必ず聞き出す》


 毒の小瓶と、手紙のありか。

 エラがまだ自発的にそれを明かしていないのなら、今日中に吐かせればいい。徹底的に追い詰めて、逃げ場をなくしてしまえば。


 そのための時間稼ぎ。カリナの瞳に、ちらりと、戦略の色が灯る。


 ロザリエの問いかけに対する、完璧な受け答え。調査官たちの同情をも引き寄せかねない悲しみの演技。すべてが計算のうちだった。


 しかし。


「……まぁ、それはお気の毒ですわね」


 ロザリエは、相変わらず微笑を絶やさずに、す、と一歩前へ出た。


「ですがカリナ嬢、心を痛めているお立場であることと、部屋の調査に応じるかどうかは、まったく別の話ではなくて?」


 静かに放たれた言葉に、部屋の空気が僅かに変わった。

 ロザリエは、両手を前に重ねたまま、優雅に首を傾げて続ける。


「お兄様を愛するお気持ちは分かります。でもだからこそ、貴女のお部屋から〝何も出てこない〟ことを、今すぐ証明するのが最善ではなくて?」


 一拍の沈黙。


「……ええ、もちろん私も、貴女を疑っているわけではありませんのよ?」


 そう言い添えるロザリエの微笑は、どこまでも柔らかかった。だがその視線はまるで、心の奥底をえぐる探針のように鋭かった。


「けれど、これ以上〝協力を拒む姿勢〟が広まってしまえば……たとえ貴女にやましいことがなかったとしても、世間は、どう思うかしら?〝疑われたくない〟というお気持ちが、かえって〝疑われる理由〟になってしまう。とても、悲しいことですわよね?」


 ロザリエはわずかに目を伏せ、そして再び、真っすぐにカリナを見た。その瞳に、憐れみも、同情も、怒りもなかった。

 ただ、静かに、〝詰み〟を告げる者の眼差しだけが宿っていた。


「ご自身を守りたいのなら、今この場で部屋を調べてもらうことが、むしろ一番貴女のためになると、私はそう思いますの」


 カリナは、微笑を崩さないまま、喉の奥で何かを飲み下すように、ほんの僅かに眉を寄せた。

 それは、誰も気づかないような、ごくごく小さな歪みだった。


 けれどロザリエは見逃さなかった。


 先程カリナの瞳が、一瞬だけ部屋の奥、エラの方を見やったのを。


(そう……やはり、今でなければ、意味がないようね)


 ロザリエはゆっくりと首を傾けて、ふんわりと微笑む。


「……ご無理を言ってごめんなさい。ですが、私たち皆、〝貴女を守るために〟動いているのですもの。ですから、どうか……」


 言葉は穏やか。

 けれどその声の調子は、まるで〝拒絶は許されない〟という真実だけを乗せて、空気を支配していた。


 数秒の沈黙。


 カリナの指が、ドアノブの金属に触れたまま、かすかに震えた。

 しかし彼女は、再び完璧な微笑を取り戻すと、扉の脇に身を引いた。


「……ええ、分かりました。お好きなように、どうぞ」


 その声には、わずかに力がこもっていた。


 ロザリエはその様子を静かに見届けながら、唇の端を、ほんの僅かだけ、引き上げた。





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