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14 仮面

 翌朝の学園は、いつになく静まり返っていた。

 薄曇りの空から差し込む灰色の光が、部屋のレースカーテンを淡く照らしている。普段は賑やかな中庭にも生徒の姿はなく、吹き抜ける風が木々の葉を揺らす音だけが耳に届いていた。

 ロザリエは、窓辺の椅子に腰掛け、指先でゆるやかにカップを回していた。冷めかけた紅茶の香りがほのかに立ち上る。


 ふと、外に目をやると、何人かの調査官たちが校舎前で立ち話をしているのが見えた。彼らの顔には困惑と疲労が浮かび、何度も腕を組み替えたり、額に手を当てて小さく首を振ったりしている。


(……何かあったのかしら?)


 そんな風にぼんやりと眺めていると、扉が控えめにノックされた。


「……入って」


 キィ、と音を立てて開いた扉から、漆黒の制服をまとった青年が入ってくる。朝の光の中でも変わらず整った姿で、彼は一礼して、穏やかに口を開いた。


「おはようございます、ロザリエお嬢様」

「えぇ……おはよう、デリウス」


ロザリエはデリウスを一瞥し、挨拶を返すとすぐに窓の外へ視線を戻した。


「……あの人たち、少し困っているように見えるわ。エラ嬢の部屋の捜索に手間取っているのかしら?」


 呟くように言ったロザリエに、デリウスは扉を静かに閉め、彼女の傍に寄ると、声を潜めて答えた。


「実は……エラ様と同室のカリナ様が、調査への協力を拒否なさっているようです」

「……まぁ」


 驚きというより、呆れに近い声がロザリエの唇から溢れた。


「協力を拒否?こんな状況で……?」

「えぇ、そのようです」


 デリウスによると、ロザリエの部屋の捜索が終了し、エラの部屋の調査が始まろうとしていたその日の午後。同室であるカリナの衣装箪笥や書棚、彼女の生活スペースにも、規則に基づき捜査の手が入ることになった。


 ところが————。


『……お兄様が、命を落としかけたというのに……』


 静かにそう口にしたカリナは、きゅっと唇を結び、目元に薄く水を溜めていた。憂いを帯びた表情は、まるで深く哀しみに沈んだ聖女のようだ。


『疑われるのは当然だと……そう言いたいのですね……』


 彼女の声は震えてはいなかった。ただ、その声音には確かに揺らぎがあり、理不尽な運命に晒された者の静かな憤りと哀しみが、にじんでいた。


『私は……私の身に何か落ち度がございましたか……?あの日、私は別のサロンでお友達とお茶を飲んでいただけです……お兄様が参列されるお茶の席には招かれておりませんでした……』


 伏せられた睫毛の影が、涙に濡れて美しく震える。手にした薄紫のハンカチが、細い指でぎゅっと握られた。


『どうか……お部屋を荒らさないでください。兄のことで胸が張り裂けそうなこのときに……あまりに、酷いではありませんか……』


 まるで懇願するような低く澄んだ声に、調査官の一人が、目に見えて動揺を浮かべた。


『……カリナ様、我々は決してあなたを疑っているわけでは……これは、形式的な確認であり……』

『……えぇ、わかっております……それでも……』


 言葉の続きを口にせぬまま、カリナはゆっくりと椅子に腰を下ろした。まるで何かに耐えているように、小さく、深く息を吐く。


 その一連の所作に、部屋に入った数名の調査官たちは完全に気圧され、カリナの部屋の捜査はどこか曖昧なまま、中途半端に終えられようとしていた。



 ……デリウスの言葉が静かに途切れた瞬間、部屋にはわずかな沈黙が満ちた。

 重苦しいものではなかった。むしろ、それは思考のために確保された静けさ。ロザリエは椅子に腰掛けたまま、ふと目を伏せ、唇にそっと指を這わせる。

 優雅な仕草だった。だが、その内側にはひやりとした思念が渦巻いていた。


(まったく……演技が上手なお嬢様だこと)


 心の中で、皮肉めいた言葉が浮かぶ。けれど、そこに感情的な怒りはなかった。あるのは、冷めた評価と、計算を狂わされたことへの苛立ち。


(涙を流せば、何もかも許されると思っているのかしら。それとも……分かってやっているのね。人の心のほころびを、巧みに突いて)


 指先が、無意識にもう一度、唇を撫でる。まるで、その感触から雑念を振り払うかのように。


(……しかし。このままいけば)


 瞳が伏せられたまま、思考だけが淡々と続く。


(エラの部屋は調査されても、カリナは————免れる)


 形式上、同室という理由で調査対象にはなったはず。それなのに、彼女は涙と〝悲劇の妹〟という立場で、まるで無関係を装って。

 ロザリエは微かに息を吐いた。けれど、それは落胆でも嘆息でもなかった。むしろ、冷静さを取り戻すための、ごく浅い呼吸だった。


(それでは困るのよ)


 胸の奥に、小さな波紋のような苛立ちが広がっていく。


(何のために、私がここまで動いたと思ってるの)


 あの部屋にあるはずの毒を第三者に見つけさせる為だったのに。

 今すぐその髪を掴んで振り回してやりたい衝動を抑えながら、エラとニコニコ笑って談笑して。顔が引き攣りそうになるのを我慢してレアンの好意を嬉しそうに受け取って。このままではあの面倒な下積みが全てパァだ。


 視線を伏せたまま、ロザリエはほんのわずかに息を吐いた。深い溜息ではない。ただ、冷えた空気を胸の奥に取り込んで、再び均衡を整えるための、静かな呼吸。


 彼女の部屋で、あの毒を、偶然誰かが見つける。それが必要なのに。


(このままじゃ〝悪いのはシュトランド子爵令嬢だけ〟で終わってしまう……)


 しばらく思案を巡らせていたロザリエは、やがてすっと立ち上がった。動作に無駄はなく、まるで舞台の幕が上がる直前の女優のように、確信に満ちた優雅さがあった。


「……デリウス。出かける準備を」


 背を向けたまま、静かにそう告げる。


 ロザリエの言葉を受けたデリウスは、わずかに笑みを浮かべた。


「はい。お嬢様」


 いつもと変わらぬ穏やかな声音。けれど、そこに漂う空気は確かに張り詰めている。彼はロザリエの意図を多く語らずとも察していたように思う。


 ————第三者が剥がせないのなら。


 仮面の奥に潜む本性。悲劇の妹を演じる聖女の皮。誰の手にも届かないその表面を、今まで幾度となく見てきた。優雅で、楚々として、欠点の見えない〝完璧な令嬢〟。


 だが、もう十分。


(私が剥がしてあげるわ)


 ゆっくりと、内心でその言葉を反芻するたび、ロザリエの瞳は少しずつ冴えてゆく。澄んだ青紫のその瞳に、今はただ静かな光が灯っていた。


(カリナ。貴方のその、分厚い仮面をね)


 心の底から滲む声だった。声にならぬその想いは、誰にも聞こえはしない。けれど確かに、ロザリエの中に熱として在り、形を成していた。


 優しく微笑んだその顔の奥で、ロザリエ・ジークベルトの本当の戦いが、今、幕を開けようとしていた。





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