13 罪
騒然としたサロンに、ようやく警備隊が駆けつけたのは、それから十分ほど経った頃だった。サロンの床には血の跡と、倒れた椅子、散乱したティーカップ。それら全てが、ただのお茶会だった場が事件現場へと変わってしまったことを物語っていた。幸い、すぐに応急処置をされたレアンは未だに意識不明であるものの、奇跡的に一命を取り留めたそうだ。
警備隊の到着後、ロザリエ、エラ、そしてデリウスの三人はすぐに聴取を受け、その日の夜、三人は学園寮の自室へと戻され、「王命により、部屋から出ることを禁ずる」と言い渡された。
それはまるで『逃亡の恐れがある人物』への仮の拘留であった。
翌日、王室直属の調査官たちは、たった二部屋だけを調べるために学園寮へと足を運んだ。ロザリエ・ジークベルトの部屋と、エラ・シュトランドの部屋。
それ以外の生徒たちは、ほんのわずかに不安げな顔を見せながらも、その事実にどこか安心した様子だった。
そして、最初に扉を叩かれたのはロザリエの部屋だった。
「ジークベルト公女様、王室の命により、部屋を拝見させていただきます」
低く、整った声。威圧的ではないのに、拒否を許さぬ重みがあった。ロザリエは静かに扉を開けて、完璧な所作で一礼した。
「どうぞ。ご協力いたしますわ」
表情は涼やかで、落ち着いた声音。しかし、胸の内では凍りつくような緊張が、無視できないほどの存在感を放っていた。
(わかってる。私の部屋に何もないのは……でも、それでも)
女官の姿をした調査官が二名、書類を持った記録係が一名、そしてその後ろに、灰色の制服を着た調査隊長格の男が一人。
その眼差しは静かで冷ややかで、すべてを見透かしているようだった。
「まずは書棚から」
淡々と告げられ、手袋をつけた指先がロザリエの書棚の書物を一冊一冊抜き出していく。革の背表紙、布張りの装丁。ロザリエが普段から愛読している歴史書や詩集の間を、丁寧に、確実に、確認していく。
次に衣装箪笥。中には学園の制服や私服、予備の手袋、香水瓶などが整然と並んでいる。衣服の裏地に隠しがないかまで、指先で撫でるように確認されていく様子は、潔白を疑われているという事実を無言で突きつけていた。
(こんな時まで完璧にしていてよかったわ)
そう思いながらも、胃の奥がじわりと重くなる。見られている。見透かされている。そんな錯覚が、喉の奥に冷たい手を這わせた。
次に調べられたのは化粧台とその引き出し。筆の軸や櫛の裏まで調べられ、香水瓶の栓も開けて匂いを嗅がれる。
「問題なし。では、床下収納とベッド下を」
その声に、ロザリエは一瞬、身体がこわばるのを感じた。もちろん、何も仕込んではいない。だが、何かの手違いや、偶然の不運があれば……
(……そんなはずない)
自分に言い聞かせながらも、視線はつい調査員たちの手元に向いてしまう。
ベッドの下からは何も出てこなかった。床下の点検蓋も開かれたが、そこにもただの予備の掃除道具が収まっているだけだった。
最後に身体検査が行われたが、もちろん怪しいものなど所持していないのですぐに終わった。
調査官たちが互いに視線を交わし、黙って頷く。
「以上で、ジークベルト公女様の部屋の捜査は終了といたします」
その一言に、ロザリエの身体から力が抜けるように脱けた。
「ご協力、感謝いたします」
再び一礼する調査官たちを見送りながら、ロザリエはゆっくりと呼吸を整えた。
(やはり、何も出なかった。当たり前よ。だけど……)
一歩間違えば、すべてが崩れていたかもしれない。
その緊張の残り香が、まだ部屋の空気に微かに残っている気がして、ロザリエはゆっくりと椅子に腰を下ろした。
「お疲れ様でした。ロザリエお嬢様」
軽やかなノックの音とともに、扉がそっと開かれる。入ってきたのは、黒衣に身を包んだ従者、デリウス。相変わらず無駄のない動きで、けれどどこか柔らかく、トレイの上に載せたティーカップからは、ふんわりと優しい紅茶の香りが立ち上っていた。
ロザリエは椅子に腰かけたまま、少しだけ驚いたように瞬きをした。
「……ありがとう。気が利くのね」
そう言って、差し出されたカップを両手で受け取る。白磁に浮かぶ金の縁取りが、微かに震えた指先の動きを映して揺れた。
香ばしくも優しい香りが、緊張で張り詰めていた神経をふわりと緩ませてゆく。
ロザリエはカップを唇に運ぶ前に、ふと思い出したように顔を上げた。
「……貴方の部屋も、調査されたのでしょう? 何か、問題はなかったの?」
デリウスはふっと微笑み、まるで気にする様子もなく首を縦に振った。
「えぇ。ですが僕の部屋には、ベッドしかありませんので。すぐに終わりましたよ」
「……ベッドしか?」
紅茶を口に含もうとしていたロザリエの手が、ぴたりと止まる。
「……ちょっと待って。それだけって、本当に?」
「はい。本当に。余計なものは何一つ」
あっけらかんとした笑顔。けれどその瞳の奥は、相変わらず何も映していない鏡のようだった。
ロザリエは言葉に詰まり、目を瞬いた。
(物を持たない主義、なのかしら……? でも、限度ってものが……)
本当に、彼の部屋には家具も調度もないのだろうか。想像すればするほど、無機質で寒々しい空間が脳裏に浮かんでしまう。
「……じゃあ、今度、本でもプレゼントしてあげようかしら」
思わず、ぽつりと呟いていた。自分でも意外なほど自然に出た言葉に、ロザリエは少し驚く。けれどデリウスは、笑ったまま優雅に一礼した。
「それは光栄ですね。お嬢様のお気に入りの一冊など、いただけたら……僕にとって、それは何より贅沢なものになるでしょう」
「はいはい」
なんだか、こうしてデリウスと緊張感のない会話をするのも久しぶりな気がして、ロザリエはどこか安心した。
「それにしても……何もないと分かっていても、やっぱり緊張するものね」
ロザリエはふう、と長く息を吐きながら、細く整えられた指でカップの縁をなぞった。デリウスは、その言葉にわずかに首を傾げる。
「そうでしょうか?」
問い返された言葉に、ロザリエは小さく目を見開いたあと、思わず苦笑した。
「そうよ……。貴方も、ドキドキしたでしょう? 私の部屋を調査官が歩き回っている時」
紅茶の香りに紛れて、吐息のように出たその問いには、ほんの少し冗談めいた軽さが混じっていた。だが返ってきた答えは、あまりにも即答だった。
「いいえ、ちっとも」
まるでそれが当然のことだとでも言うように、彼の声には、曇り一つない確信が宿っていた。
ロザリエは少しだけ眉を上げ、思わず彼を見つめる。
「……貴方……人を疑うことを知らないの?」
呆れたような、困惑するような、そんな感情が混ざった声色。けれどデリウスは、変わらぬ口調で、ただ一言、告げた。
「知っています」
言葉の短さに、ロザリエの目がわずかに揺れる。
「なら、どうして……」
小さく絞るように問いかけるロザリエの視線に、デリウスはそっと微笑む。だがその微笑みは飾りではなかった。
「お嬢様が無実なことは、このデリウスが一番、よく分かっておりますから」
その声音は柔らかく、そして静かに深かった。
まるで当たり前のことのように、躊躇いなく放たれたその言葉は、ロザリエの胸の奥にすとんと落ちていく。
驚き、戸惑い、そして、ほんの少しの、安心。
「……そう」
そう呟いたロザリエは、そっとカップを唇に運ぶ。
砂糖もシロップも混ぜていないはずの紅茶の味が、何故だかほんのり甘く感じられた。
思えば、回帰前のあの世界で、自分の味方など一人もいなかった。貴族たちは表では笑い、裏では剣を向ける。目を逸らせば背中を刺されるような世界で、ロザリエは誰にも頼れず、いつも孤独と隣り合わせで、自分の影さえ信じられなかった。
けれど、今は違う。
目の前のこの青年は、何も言わず、何も求めず、それでもそっと、隣にいることを選んでくれた。
(……今は、デリウスがいる)
そのことに、救われている。
そう気づいた瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなった。
このぬくもりが消えないようにと、ロザリエはそっと目を伏せた。手の中のカップが少しだけ重く感じられるのは、そこに確かな信頼が宿っているからだろうか。
♦︎
気が付けば、夕陽がの光が窓から差し込んでおりロザリエはようやく、もう夕刻かと気が付いた。
「ふう……」
長い吐息とともに、身体の奥に溜まっていた緊張がわずかに抜ける。先ほどまで部屋の周りを行き来していた王室調査官たちの足音も、今はもう遠く、気配すら残っていない。
窓の外では、風がそよぎ、木々の枝が淡く揺れていた。美しい日常の風景が、どこか遠くの世界に感じられる。
(今頃は、エラの部屋を調査中のはずよね)
ロザリエの脳裏に、静かに以前から考えていた計算が巡る。
この毒を使ったのがエラだというだけでは足りない。毒そのものが、〝どこから来たのか〟。それが明らかになってこそ、真の狙いは果たされる。
(大丈夫……今のところは、私の計画通り)
回帰を得て、ロザリエは知っていた。
カリナが裏から糸を引き、エラを操って自分に近付けたことを。彼女の笑顔が仮面に過ぎず、その裏に渦巻く執着と憎悪。そして、カリナが兄であるレアン・オーディットの存在を餌に、エラの心を巧みに操っていたことも。
そんなエラの前で、レアンが自分に好意を見せてくれたのは、計算以上の幸運だった。自分の事しか見えなくて、せっかちなエラが、どうにかして自分の存在を消そうとするのは、自然の流れだったと言える。
だからこそ、ロザリエはわざと、レアン様に対して〝満更でもない〟態度を取り続けた。時折、瞳を合わせて笑いかけ、ほんの少しだけ言葉を重ねて。エラが焦りを募らせるように。
そして決定打となるのが───お茶会の時間。
約束の時間より早く、レアンを呼んだのは、もちろん意図的。エラが先にサロンに入り、細工をする時間を削ぐため。そして、レアンに先に紅茶を飲ませることで、毒味の役割を果たしてもらう。もし何かが混入されていれば、彼が飲めば気づける。
「しかしあの子……まさか本当に毒を盛るなんてね」
指先が無意識に、ティーカップの縁をなぞる。お茶に毒を混ぜ、飲むふりをして倒れ、被害者面をしてレアンにすり寄るだろうと思っていたのに、まさかカップの飲み口に毒を塗るとは予想外。
あの席に、自分が座っていた可能性を思うと、背筋に冷たいものが這い上がるようだった。
(でも、これでいいの。貴族の毒殺未遂事件となれば、王室の調査団が動くのは当然。事が大きくなればなるほど、調査は徹底される)
紅茶の香りが、また一層強く感じられる。
(エラが毒を使えたのは……誰かがそれを既に持っていたから。学園内にそれを持ち込み、保有し、管理していた人物がいたからこそ)
そして、その〝誰か〟の輪郭は、すでに彼女の中でははっきりとしている。
(さて、誰なのかしらね……カリナ嬢?)
ゆるりと、冷たい笑みがロザリエの唇に浮かぶ。
エラが使った毒は、カリナがレペグリアから生成していた毒で間違いない。どちらかと言うと感情的に動くタイプのエラが、学園の警備を突破して毒を手に入れる作戦を早々に思い付くとは思えない。
エラはロザリエの、想像通り、いや、想像以上の働きをしてくれた。貴族の毒殺未遂事件。容疑者の部屋を調査するのは当然。
(ふふ、うっかり、貴方の罪まで明るみに出てしまうかもしれないわね)
ティーカップの中の紅茶はもうすっかり冷めきっていた。それでも、ロザリエは構わずにもう一口、優雅に口をつけた。
(毒を生成した、という〝罪〟が……ね)
ほんのわずかに、瞳を細める。
まるで、獲物が罠にかかるその瞬間を見つめる鷹のように。
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