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12 幕開け

 お茶会の時刻が、刻一刻と近づいていた。窓の外には、春の陽射しがふわりと差し込み、サロンの白いカーテンを柔らかく揺らしている。

 エラは、その景色を背に、サロンの扉をそっと押し開いた。


「……誰もいない。よかったわ」


 声は小さく、けれど確信に満ちていた。

 爪先から歩幅まで、完璧にコントロールされた動作でサロンに入り込み、ひらりとスカートを揺らしながら、中央のテーブルへと向かう。テーブルクロスの上には既に菓子皿や花が飾られていたが、カップの配置だけはまだされていない。

 エラはその事に、薄く笑みを浮かべた。


 膝丈のスカートが揺れ、エラは卓の脇に膝を落とすと、籠に入ったティーカップたちを一つひとつ取り出し始めた。指先は丁寧に、それでいてどこか震えている。


(落ち着いて……これは、ただの準備。ただの、段取り)


 そう自分に言い聞かせながら、内側に毒を染み込ませたカップを、そっと自分の座る予定の席の前に置いた。カップの飲み口にほんの薄く染み込んだ毒は目視では判別できない。わかるはずがない。だからこそ、これは完璧な計画。


「……よし。あとは、紅茶だけ」


ほんの少し、表情が緩む。

だが、それも一瞬のことだった。


 サロンの扉を静かに閉めると、エラはまっすぐ厨房へと向かった。鍋の中で湯が優しく湧き立ち、香り高い茶葉を入れたポットに注ぐと、ふわりと立ちのぼる湯気が彼女の睫毛をくすぐった。

 深呼吸一つ。鼓動は早い。だが表情には出さない。


(落ち着いて。演技も、仕草も。すべて計画通りに……)


 慎重にポットを抱え、やや足早にサロンへ戻る。

 扉を、エラはそっと押し開けた。いつもの学園の制服に身を包み、胸元のリボンを一度確認する。布地の張り、揃ったボタン。どれも乱れていない。丁寧に整えたこの姿は、自身の慎ましさと誠実さの象徴。


(すべてが順調なはずよ……)


 ————それは、ほんの数分のことだった。ポットに湯を満たし、厨房から戻るまでのわずかな時間。それさえ完璧に段取り通りだったエラにとって、何ひとつ誤算はなかったはずだった。


 エラが静かにサロンの扉を押し開ける。


 その瞬間、空気が変わった。


 音のない衝撃が、胸の奥に広がっていく。


 エラの視界に飛び込んできたのは、窓辺の椅子に座り、朗らかに談笑しているロザリエとレアンの姿。ロザリエの後ろには、従者服に身を包んだ黒髪の青年が、飾り物のように笑みを浮かべて静かに控えていた。


 白いティーテーブル。優雅に並ぶ椅子。その中で、ひとつだけ異質なものがある。エラが座るはずだった椅子にレアンが、座っていた。


 一歩、踏み出せずに立ち尽くす。

 手にしたポットの重さが、急に現実のものとして指先に食い込んでくる。

 心臓が、どくん、と嫌な音を立てた。


(なぜ……どうして……?)


 あれほど丁寧に、あれほど慎重に準備した。ティーカップを並べたのも、自分がそこに座るためだった。ほんの僅かに毒を染み込ませた綿で拭った、自分のためのカップ。


 それが、今、レアンの手の届く場所にある。


 思考が追いつかないまま、エラはようやく、サロンの中へと足を進める。

ロザリエとレアンの視線がこちらを向いた。だが、それよりも先に声を発したのは、エラ自身だった。


「……ロザリエ様?お茶会の時間には……その、まだ、大分早いような……」


 しまった、と思ったのは、その声を発した直後だった。挨拶より先に時間を問いただす。そんな無礼をしてしまうほど、動揺していた。

 ロザリエは驚いたように瞬きをし、すぐに、ハッと口元を手で押さえた。眉を下げ、申し訳なさそうにエラとレアンを交互に見た。


「あら!そうだったかしら?ごめんなさい私ったら……時間を間違えたみたい。申し訳ございません、レアン様」


 その声音には、確かに反省の色が滲んでいた。だが、エラには、それすらも演技のように聞こえて仕方がなかった。


(間違えた?本当に?それとも……わざと?)


 訝しみながらも、すぐには問い質すこともできない。ティーポットを持つ手にじわりと汗が滲む。


「いいのですよ、ロザリエお嬢様。むしろ、貴女とこうして話せる時間が増えて……僕は嬉しいです」


 レアンの言葉が耳に響いた。いつもなら、嫉妬と羨望に震えるその台詞も、今は何も感じない。

 感じるのは、ただひとつ————焦燥。


(そこは……私の席だったのに。あのカップは、私のものだったのに……)


 紅茶の香りが、ふわりと漂う。ティーポットを持ったまま立ち尽くす自分が、ひどく滑稽に思えた。


(どうしよう……どうすればいい……!)


 温かな陽光が差し込むサロンの空間の中で、エラの身体だけが、まるで凍りついたように動かなくなっていた。手には、まだ湯気の立つティーポット。それを抱えたまま、彼女はまるで機械仕掛けの人形のように立ち尽くす。


 冷静でいなければならない。いつも通り、にこやかに微笑んで、何事もなかったようにふるまうべき。

 それが、計画を貫く鍵のはずだった。

 けれど、脳裏に焼き付いて離れないのは、レアンの姿だった。彼がよりにもよって、毒を仕込んだティーカップの前に座っているという、最悪の事実。


 ぐらり、と足元が揺れた気がした。

 錯覚だとわかっていても、視界がかすんでゆく。皮膚の内側を焦げるような汗が流れ、服の背がじっとりと張りついているのを感じた。


 頭の中で、次々と選択肢を思い描いては消していく。


(カップを交換する? でも、どんな言い訳で?この席に座りたかった? いや、それでは不自然すぎる。席を変えてくれるよう頼む? 誰に?ロザリエに? レアン様に?……それこそ、何かを隠していると勘ぐられてしまう……)


 焦燥が鼓膜の奥を熱く叩く。呼吸が浅く、息がうまく吸えない。まるで、世界の重力が自分にだけ圧し掛かってくるような感覚。


(だめ、だめ……冷静に……落ち着かなきゃ……)


 心の中で何度も唱える。けれど、震えそうになる指先は、思いのほか正直だった。ティーポットの取っ手を握る手が、じりじりと痺れていく。

 陶器のぶつかる微かな音が、かすかに空気を振るわせた。

 それはすぐさま、ロザリエの耳に届いた。


「……どうしたのですか、エラ嬢?」


 その声は穏やかで、柔らかなもので。

 何も知らないはずなのに、なぜだかエラの不安をすべて見透かしているような、妙な優しさがあった。その気配が、余計に心をかき乱す。


「いっ、いえ……その……」


 何とか声を発そうとしたが、喉が粘ついて言葉がうまく出てこない。唇が渇き、震え、ただの言い訳の音にもならなかった。

 視線を動かすことすら、恐ろしい。

 カップが見える。レアンの指が、そこへ自然と伸びていくように感じる。


(やめて、お願い……触らないで……!)


 内心、叫ぶように祈っていた。

 でも、祈りなど届くはずがなかった。


 今、彼女の目の前で起きているのは、自分が仕掛けた罠が、愛する人に牙を剥こうとしている瞬間だった。それを止める術を持たず、エラはただポットを持ったまま、恐怖と後悔と焦燥のすべてを胸に押し込め、呆然と立ち尽くしていた。


「……エラ嬢が緊張して紅茶が注げないようね」


 その声は、まるで羽根のように軽やかだった。

 ロザリエがふわりと微笑んだまま、やわらかく告げる。咎めるでもなく、非難するでもなく。まるで、エラの不器用さを優しく包みこもうとする慈愛の笑みにさえ見えた。しかしエラには、それが薄く張った氷のように、凍てついた仮面にしか思えなかった。


「デリウス、貴方が注いで差し上げて?まずは、レアン様に」


 その言葉に応じて、背後に控えていた黒衣の男、デリウスが静かに動いた。まるで糸を引かれるように、ひとつの舞を演じるかのように。無駄のない、淀みひとつない所作で一歩を踏み出す。

 エラは息を詰めた。胸の奥を急激に冷水で満たされたような感覚が、ぞわりと背筋を駆け上がる。それはまるで、世界がわずかに軋む音すら聞こえたようだった。


(だめ……だめ、だめ、だめ……!触らないで……!)


 喉が、焼けつくように痛んだ。でも声は出ない。

 言いたい言葉が、唇の裏で泡になって弾ける。その間にも、デリウスはポットへと手を伸ばしていた。


「……っ、あっ……!」


 堪えきれず、ついに漏れ出た悲鳴に近い声。

 けれど、それはまるで羽音のようにかすかで、場の空気を変えるには力不足だった。指先がかすかに震えたポットが、彼の指に触れた瞬間、すべてが決まった気がした。


 デリウスの手が、ためらいもなくエラの手元へと伸び、彼女の腕をそっと包むようにポットを取り上げた。その手の動きはあまりにも洗練されていて、抗おうとしたらそれは失礼にすらなると、脳が瞬時に判断してしまうほど。まるで、何の問題もないように、何も疑念すら抱かぬように、優雅に、静かに。


(違うの、やめて、それだけは)


 エラの視線はポットに吸い寄せられたまま離れなかった。あのカップに注がれたなら、すべてが、終わる。


 しかし、デリウスの手は止まらない。

その指先は、冷たくも礼儀正しく、整った所作で、彼女の動揺など一顧だにせず、ポットを優しく持ち直す。


「レアン様、失礼いたします」


 そう声をかけると、デリウスは腰を軽く折り、貴族相手への礼儀を欠かさず一礼した。その姿は控えめながらも威厳があり、いかなる場に出しても恥じぬ品を湛えている。

 ロザリエがどこからこのような男を見つけてきたのか、エラは思わずそんなことを考えてしまいそうになるほどだった。


 しかし今は、それどころではない。


 デリウスはそっとポットを傾け、レアンの前にあるティーカップへと、琥珀色の液体を静かに注いでいった。高すぎず低すぎず、絶妙な高さから落ちる紅茶の筋は、まるで細く引かれた絹糸のように美しい。

 カップの底からふわりと香りが立ちのぼり、空気に紅茶の甘い香気が満ちていく。

 エラは息をするのも忘れ、固まったままその様子を見つめていた。


(やめて……お願い、それだけはやめて)


 目の前で行われている優雅なお茶の準備が、どれほど恐ろしい意味を孕んでいるのか、レアンも、ロザリエも、きっと知る由もない。

そして、注がれているその紅茶が、自分自身の手によって仕組まれたものだという事実が、エラの内臓をきりきりと軋ませた。


 わなわなと震えていただけの唇が、ようやく言葉を発音する。


「……だ、ダメ!」


 その叫びは、絹糸のように張り詰めていた空気を、一瞬で切り裂いた。


「そのお茶を飲んではいけません!」


 サロンの扉が軋むほどの声だった。

 エラの絶叫に、部屋のすべてが止まった。


 紅茶の香りが揺蕩っていたその空間は、まるで氷の魔法でもかけられたかのように、ぴたりと沈黙に包まれる。誰もが動けず、誰もが息を詰める。ロザリエはポットの注がれたカップを見つめ、デリウスは視線ひとつ動かさず、まるで何かを見定めるように黙していた。


 そして、エラ自身は、自分の口から飛び出した言葉に、あまりの衝撃で体が動かない。


 両肩が激しく上下し、呼吸が乱れている。制服の襟元を掴むようにして、必死に空気を取り込んでも、肺は焼けるように熱かった。視界が揺れ、足元が歪みそうになる。


 そんな彼女の耳に————。


「シュトランド嬢」


 その声は、驚くほど優しかった。


 耳朶を撫でるように届いたのは、レアンの声。あまりにも柔らかく、穏やかで、まるで今この場に不穏な叫びなど存在しなかったかのような響きだった。


 恐る恐る顔を上げると、そこにいたのは、いつものレアン。

 赤い髪を柔らかく揺らし、慈しむような微笑を湛えた瞳が、まっすぐにエラを見つめていた。


「とても美味しいですよ」


 静かにそう言って、カップをそっと持ち上げる。琥珀色の紅茶が、淡い光を受けてきらめいた。


「……っ!」


 その瞬間だった。


 レアンの表情が僅かに歪んだかと思うと、彼の体が前のめりに傾く。次の瞬間、口元を抑えたレアンの唇の隙間から、鮮やかな紅の雫が、ぽたりと落ちた。


「レ、レアン様……?」


 己の声が、愛しい人の名前を呼んだ。

 刹那。


「……ごふっ」


 喉の奥から、苦しげな咳と共に————。


 レアンの口から、真っ赤な鮮血が吹き出した。


白磁のティーカップに落ちたその一滴は、あまりに鮮やかで、まるで深紅のバラのようだった。それを皮切りに、椅子からずるりと体が崩れ落ち、彼の胸元を、喉を、口元を、血が濡らしていく。


「……レアン様!?」


 ロザリエは椅子を引き倒さんばかりの勢いで立ち上がると、スカートの裾も気にせず、レアンのもとへと駆け寄った。


「レアン様!レアン様っ!」


 白い指が、鮮血に染まるシャツに伸ばされる。彼女の膝が床に触れ、震える手がレアンの肩を支えた。


「誰かっ……!早く、医者を……!」


 ロザリエの叫びは悲鳴にも似て、張り詰めた空気の中を引き裂いた。震える声で、しかし必死に。床に膝をついたまま、彼女はレアンの肩を掴み、揺さぶる。

 揺さぶる手に、力がこもる。血の気を失ったレアンの顔が、わずかに彼女の方へ傾いたが、まぶたは重く、唇は何も告げようとしなかった。


 その時。


「キャアアアアアアアアアアッ!」


 扉の向こうから、甲高い悲鳴が上がった。

 ロザリエの慌ただしい声に気づいた使用人たちが、サロンの外に集まってきていたのだ。開かれた扉の隙間から覗いた一人の侍女が、床に崩れ落ちるようにして横たわるレアンと、彼を抱えるロザリエの姿を見て、蒼白になりながら叫び声を上げた。


「い、医師を!早く!」

「血がッ……!」

「誰かタオルを持ってきて!」


 ざわめきが走る。血相を変えた使用人たちが慌てて駆け出してゆく。誰が指示を出すまでもなく、叫び、走り、転びそうになりながら、彼らは学園の医師を呼びに向かった。


「……お願い、レアン様……こんなこと……っ……目を……」

「っ……ぐッ……ろ、ロザリエ、お嬢様……あなたが無事で、……よかっ…」

「嗚呼、しゃべってはダメ……!」


 サロンの片隅、エラはまるで石像のようにその場に立ち尽くしていた。脳裏では何度も同じ映像が繰り返し再生される。

 レアンが、血を吐いて崩れ落ちる瞬間。

 紅茶の香りと血の匂いが混ざった、あの異様な空気。今も床に膝をつき、レアンの手を握りしめるロザリエの姿。


 ロザリエが、泣いている。レアンが口の端から血を流しながら、そんな彼女を愛おしそうに見つめている。

 まるで、お伽話の一節のよう。

 悲劇のヒロインと、そんな彼女を優しく見つめる王子様。


 揺れる肩。震える手。震える声。

 レアンの瞳は今も尚、ロザリエのみを映している。エラの方には目もくれず、小粒の真珠のような涙をポロポロと流すロザリエに、レアンは釘付けだった。


 

 エラの胸の奥に、何かが引き裂かれるような音がした。


 混乱、怒り、嫉妬、後悔————いくつもの感情が渦を巻き、エラの理性を焼き尽くしていく。思考はまとまらない。ただただ、胸の奥に生まれた黒い衝動だけが、エラの身体を突き動かしていた。


「……ッアンタの、せいよッ!!」


 叫ぶよりも早く、エラの足がロザリエへと向かっていた。伸ばした手の先には、レアンの手を握るロザリエ。あの女の泣き顔を引き剥がしてやりたかった。その肩を揺らして、叫んで、爪を立てて、全部、壊してやりたかった。


 けれど。


「……ッ!」


 その瞬間、世界が反転する。


 エラの身体が、強く、鋭く、後ろへ引き戻された。

 驚愕と混乱の中で振り返ると、背後から彼女の肩と腕を確かに押さえ込む黒い影。

その腕は、静かで、しかし強く、冷たかった。


「っ、離して……っ!!ロザリエが……ロザリエが、あの女がッ、悪いのよ!」


 泣き叫ぶエラの声に応える者はなかった。

 無言のままエラの動きを封じたデリウスは、彼女の耳元に何も言葉を投げかけることなく、そのまま力を込めて動きを制した。

 エラの呼吸は乱れ、視界が歪む。

 それでも彼の腕はほどけず、強く、冷たく、そして無慈悲だった。


「わたしのせいじゃない……あの女が……」


 崩れ落ちるように呟いたエラの声は、誰にも届かなかった。ただ彼女の足元で、レアンの血がゆっくりと赤く広がり続けていた。




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