11 地獄への回廊
午後の陽射しが斜めに差し込む厨房は、静まり返っていた。
昼の喧騒が嘘のように、人の気配はなく、かすかに漂う紅茶葉の香りだけが残っている。窓をわずかに開け放つと、風がカーテンを揺らし、紅茶葉と焼きたてのパンの香りが、かすかに漂っていた。
そんな中に、エラ・シュトランドの姿があった。
制服の袖を少しまくり上げ、小さなテーブルにティーセットを並べていく。陶器のカップが触れ合って、乾いた音をたてるたび、彼女の口元には微かな笑みが浮かんだ。
「……レアン様のカップは、こちら。柄が一番上品だもの。ロザリエ様には……そうね、少し可愛らしすぎるかしら。でも、似合ってるかもしれないわね」
独り言のように、けれど楽しげに言葉を紡ぐエラ。その手元は滑らかで、まるでこれから始まるお茶会を純粋に楽しみにしている令嬢のようだった。
だが、彼女がそっとポケットから取り出した布包みが、その空気を一変させた。
小さな布の包みをほどくと、中には丸みを帯びた小瓶と、薄手の白い綿が入っていた。瓶の中の液体は光を受けてほのかに紫がかり、まるで宝石のように見えた。
だが、これは宝石ではない。レペグリア————毒花の抽出液だ。
エラはふぅ、と小さく息を吐いた。手紙の文面が脳裏に浮かぶ。
『————摂取量がごく微量であれば、命に別状はない。ただし、量を誤れば……』
己を鼓舞するように目を閉じ、再びひとつ、深呼吸をした。
(大丈夫。私は失敗しない。やるべきことを、やるだけ)
綿に毒を一滴、垂らす。
液体はすぐに広がり、綿の表面に染みこんでいく。うっすらと香る、草のような、鉄のような匂い。普通の人間なら眉をしかめるその匂いにも、エラは顔色ひとつ変えない。
慎重に、自分のカップを手に取る。陶器の縁はなめらかで冷たい。その飲み口————唇が最初に触れる部分にだけ、綿をあてがい、静かに、ゆっくりと、円を描くように毒を擦り付けていく。
陶器の上に指が滑る感覚。かすかな湿り気が残り、ほんのわずかに光る痕跡。けれど乾けば、それは消える。目には見えない。ただ、確かに、ある。
「ふふ……こんなに簡単だなんて」
微笑む唇が震えていたのは、緊張ではない。むしろ興奮に近い感情だった。
(これで、あの女は終わり。レアン様の前で、哀れに、地に堕ちる。悪女ロザリエが崩れていく瞬間……)
想像するだけで、胸が高鳴る。けれど、顔には決して出さない。いつものように、穏やかで、控えめな令嬢の仮面を被ったまま。
綿を丁寧に折り畳み、布に包み直すと、ポケットに滑り込ませる。
そして再び、紅茶缶に手を伸ばし、今度は軽やかにポットへと茶葉を落としていく。陽の光が、並べられた三つのカップを優しく照らしていた。
準備を終えたエラはティーセットの並んだ小さな卓を一瞥し、満足げに頷く。
紅茶も茶菓子も、完璧。カップは三つ、それぞれに微妙に趣の異なるものを選び、その中の一つ。自分用のものだけが、毒を受け入れていた。
そして今、エラはふと思い出したように、制服のローブのポケットをそっと服の上から撫でる。
「あぁ、忘れてたわ」
くすりと笑いながら、彼女は小さな鼻歌を口ずさむ。メロディは幼い頃、母から教わったわらべ歌。けれど今、その調べには妙な毒気が混じっていた。
指先で小瓶の丸みを確かめたあと、もう片方のポケットに触れる。そこには、毒を塗布した綿。そして折りたたまれた手紙。
「ちゃんと、元の場所に戻しておかないとね。これは……カリナ様のものなんだから」
誰に聞かせるでもなく、独りごちる声は、静かで、まるで何かを許すように優しかった。
まだ時間は充分にある。エラは軽い足取りで厨房を離れ、カリナと自分の部屋へ向かった。今日のカリナの予定は把握している。学園内のサロンで王太子のリチャードと熱い視線を交わしながらお茶を楽しんでいる事だろう。
呑気なものね。
エラは部屋に到着し、予想通りカリナの姿がないことを確かめるとゆっくりとカリナの持ち物棚の前へと足を運ぶ。棚の上段には、香水瓶や髪飾りが整然と並び、下段には色とりどりのアクセサリーが詰まった箱が収められている。
彼女はそこに、あえて。あえて、分かりやすく目に付く位置に小瓶を差し入れた。
(隠しておく必要なんてないのよ。むしろ、見つけてほしいの)
もしも何かが起きた時。エラの部屋はもちろん調査の対象になる。同室であるカリナ・オーディット————もちろん貴方も。
そして手紙は。エラの懐の中に。
毒が見つかっても尚、彼女の疑いが晴れようとしたその矢先。この手紙を突き付ければどうなる?オーディット家の紋章。伯爵であるゲラルドの筆跡。毒の生成方法が書かれたカリナ宛の手紙。言い逃れなど、出来るはずもなくなる。
エラは息を一つついて、棚をそっと閉じた。
『もし全てが上手くいった暁には……エラ嬢の〝想い〟を、叶えて差し上げます』
『私が、お兄様とエラ嬢の仲を取り持ちます。如何かしら?』
あの日、カリナがふと微笑みながら囁いた言葉を、エラは今でも忘れられない。
その時のカリナはまるで、女神のようだった。優しく微笑み、慈しむような眼差しで「あなたを救ってあげる」とでも言うように語りかけてきた。
けれど、それも最初だけだった。
エラがロザリエとの接触に失敗するたび、カリナの態度はほんの少しずつ、少しずつ、変わっていった。視線は冷たくなり、言葉には棘が混ざり、あの慈しみの仮面はいつの間にか傲慢な優越感へと姿を変えていた。
『期待していたのに。貴女なら上手くやってくれると』
そう囁かれたとき、エラの胸の奥に、黒くて重い何かがぽとりと落ちた。
カリナも————そして、ロザリエも。どちらも気に食わない。
飄々として、何も知らない無垢な少女のように笑うロザリエ。けれど彼女は何も知らないどころか、すべて知っている。レアンの心がどこにあるか、エラがどれほど思いを寄せているか、自分の存在がどれほど残酷な意味を持つか。全部全部、知っていて————。
(……私の気持ちも、レアン様の気持ちも……全部、全部、全部、全部っ……!)
胸の奥で、熱を持った声が爆ぜた。あの女は、笑っている。気付いていないふりをして、澄ました顔で、レアン様の隣にいる。この手をどれだけ伸ばしても届かなかった場所に、簡単に、まるで、生まれつきそこに立っているかのように。
(地獄へ堕ちればいいのよ、二人とも)
怒りと、妬みと、苦しみと、愛しささえも溶け合って、もはやそれは一つの名のない感情になっていた。
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