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10 舞台へのいざない


 昼下がりの中庭。薄曇りの空の下、涼やかな風が草花の香りを運びながら、ページをめくる音だけが静かに響く。


 ロザリエ・ジークベルトとエラ・シュトランドは、いつものように並んで腰掛けて本を読んでいた。だが、エラは文字を目で追いながらも、心ここにあらずだった。レアンとロザリエのやり取り、彼女がレアンからレペグリアの花束を贈られたというくだらない一言、そしてその花をしおりにしているという言動の数々が、胸の奥に冷たく澱のように沈んでいた。


 エラの心中など露知らず、「そうだわ」とロザリエが何気なく言葉を落とした。


「今度のお休みに、お茶会を開こうと思っているの。ご一緒にいかがかしら?」

「……え? お茶会、ですか?」


 思わず聞き返したエラの表情に、わずかに疑念がにじんだ。だがロザリエは、そんな彼女の警戒など気付いていないふりで、にこやかに微笑んだ。



「レアン様から、お誘いをいただいたの。せっかくだから、貴女もご一緒にと思って」


 その瞬間、エラの中で何かが、ギリリ、と音を立てて軋んだ。


(また、レアン様の話……)


 白々しいほどに自然な口調。まるで善意と無垢でできた聖女のように微笑むその姿が、エラには目障りで仕方なかった。


(わざわざ私を誘うなんて……何様のつもり?)


 思わず唇を噛みそうになるのを、エラは必死に抑えた。感情を押し殺しながらも、心の奥では黒い感情が、渦を巻くように広がっていた。


(どうして……どうして貴女があの方の傍にいるの?私が好きなのに。私の方が……ずっと、ずっとずっと先にッ……!)


 エラの視線がロザリエの横顔を静かに射抜く。その瞳は、穏やかで何も知らないように見える。

 だがその時、エラの脳裏に、ふとある〝記憶〟がよぎった。夜。カリナが不在のあの夜、偶然見つけた隠し棚の中。濃い紫の液体が入った小瓶。オーディット家の家紋の封蝋で封じられた手紙。そこに記されていた毒の生成法。


 レペグリア。

 煮出せば毒になる、あの花。


(……そうだわ)


 ぴたりと心の奥に灯が点る。

 毒。

 それを使えば。


 エラは一度だけ瞬きをし、感情を押し殺すように深く息を吸った。そして、ふわりと花がほころぶような笑みを浮かべる。


「……ええ、ぜひ参加させてください。ロザリエ様とレアン様とのお茶会、楽しみにしておりますわ」


 ロザリエはにこやかに微笑み返す。


「嬉しいわ。午後三時半からで大丈夫かしら?」

「ええ、三時半。忘れませんわ」


 そう微笑んでみせた瞬間、自分の唇がひくりとわずかに引き攣ったのを、エラは自覚していた。けれど、ロザリエはそれに気づいた様子も見せず、ただ静かに微笑み返すだけ。

 午後三時半からのお茶会。それは、もう決まった未来。けれどエラの中では、今この瞬間から、それを〝結末〟へと導くための計画が静かに形を取り始めていた。


 ───まず、毒。


 思考は冷静だった。感情が煮え立つ裏側で、頭のどこか別の層が、淡々と工程を並べ始めていく。


(あの時見つけた、隠し棚の奥の小瓶。濃紫の液体。そして手紙。あれは————レペグリアを煮出したもの)


 毒の性質。致死量。発作までの時間。すべて、封蝋の手紙に書いてあった。くれぐれも、他人に見つからないように。そう、書いてあった。


(……私が使うティーカップ。その飲み口に、毒を塗ればいい)


 レペグリアの抽出毒は、経口摂取で効果を発揮する。それも微量であれば、胃に刺すような痛みと軽い痙攣、嘔吐を引き起こすのみ。

 死には至らず、だが誰がどう見ても〝毒を盛られた〟と分かる、絶妙な症状を。


(そうすれば、私は〝被害者〟。紅茶に毒を盛った疑いがかかるのは……もちろん、ロザリエ)


 自分が準備を申し出た理由。お茶の時間を提案した主導者。状況証拠は彼女に不利になるよう、きちんと整える。


「そうだわ、ロザリエ様」


 ぽつりと呟くように、けれど、はっきりとした声音で口を開いたエラに、ロザリエはページから顔を上げる。


「お茶の準備は私に任せてくださいませんか?」

「まあ、いいの?」


 ロザリエは、少し意外そうに目を瞬かせてから、ふわりと微笑んだ。


「学園の迎賓棟のサロンを使わせていただけるよう、申請してみます。お茶菓子も、厨房にお願いしてみます」

「あらあら。ふふ、とても頼もしいわね」


 エラはにこやかに微笑みながら穏やかに続ける。


「……茶葉は私の持ち込みでいいですか?少し珍しいブレンドがあって……ロザリエ様とレアン様にも、ぜひ味わっていただきたくて」

「ええ。楽しみにしているわ」


 ロザリエは微笑んだまま頷いたが、その紫の瞳はどこまでも澄んでいた。




♦︎





 石造りの壁に掛けられたランプが、静かな灯を揺らしている。


 エラは寝台の横に置かれた椅子に腰かけ、革装丁の書物を膝の上で静かに開いていた。視線は活字を追っているが、内容はほとんど頭に入っていない。

 その隣で、カリナがゆったりとした手つきで髪を梳きながら言った。


「今日は少し長めに湯をいただくわ。明日はお兄様もいらっしゃるもの。肌の調子を整えておかないと」

「……ごゆっくり」


 ページをめくる手を止めぬまま、エラは答えた。

 湯浴みの準備に着替えを手に取ったカリナが部屋を出ていく。その扉が静かに閉まった瞬間、エラの眼差しがぴたりと鋭く変わった。

 彼女は本を閉じ、ゆっくりと椅子から立ち上がる。絹の寝間着が柔らかく揺れ、足音を立てぬよう注意深く棚へと歩を進めた。


 目指すは、手入れの行き届いた白木の棚。その奥。


 エラは指先で、棚の側板をそっと撫でた。確か、この辺りだった。以前偶然にも発見した、小さな隙間。指先に力を込め、わずかに押し込むと、コツリと軽やかな音が鳴った。


 ————動いた。


 板がわずかにずれ、奥に秘密の空間が現れる。

 その暗がりの中、薄布に包まれた小瓶がひとつ。澄んだガラスの中で、深い紫が蠢いているように見えた。

 そして、すぐ隣に、一通の手紙。レペグリアの花を使用した毒の生成方法。そして、効能。


『————摂取量がごく微量であれば、命に別状はない。ただし、量を誤れば……』


 エラは喉を鳴らし、唇を結んだ。

 ————本物の毒。

 それはただの脅し文句でも比喩でもない。ゲラルド・オーディット伯爵が書いたその言葉には、恐ろしく冷たい現実味があった。


(わかってる。分かってるわよ。ほんの一滴、ほんの一滴だけ。そうすれば、私が死ぬことはない)


 自分に言い聞かせるように何度も頭の中で繰り返す。毒を入れるのは、自分のカップだけ。たった一口でいい。倒れれば騒ぎにはなるだろう。紅茶を調べれば、毒が入っていたと証明される。だが、自分のカップに入っていたという事実よりもその場に居合わせたロザリエが怪しまれるのは、時間の問題だ。なんと言っても、彼女は悪女なのだから。

 ただの芝居。予定通りなら、ロザリエの罪を暴く劇の一部。

 自分は苦しみながら倒れ、レアンの前で哀れな〝被害者〟になればいい。


 しかし、エラの指先はわずかに震えていた。

 想像よりも、毒は〝本物〟だった。下手をすれば、痛みを感じる暇もなく意識を失うかもしれない。


(でも……)


 それでも彼女は、もう一度手紙を胸に当てた。


(これが成功すれば、私はロザリエを完全に終わらせられる。余裕ぶったあの顔を、苦悶に歪ませてやれる)


 怖い。だが、その恐怖の下にある欲望の方が遥かに強かった。これまで積み重ねてきた嫉妬も、惨めな想いも、そしてロザリエとレアンが並ぶ姿を見せつけられたあの日々も、すべてをひっくり返すチャンスだ。


(あの女が、レアン様に軽蔑の目を向けられるその瞬間を)


 エラはふっと口元を緩める。

 その笑みは、不安と緊張と、冷たい高揚に満ちていた。


(うまくいけば、私が〝選ばれる〟。ロザリエの代わりに。今度こそ————)


 そのまま布団の中で丸くなり、彼女は手紙と小瓶をそっと枕元に仕舞い込んだ。

 閉じた瞼の裏では、ロザリエが悲鳴をあげ、レアンが自分に手を差し伸べる夢が、ゆっくりと再生されていた。

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