冷たい空からの死
火が怖れるのは、風ではない。
それは、空から静かに降る──忘却の雨。
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「この道を通れば、最古の火へ辿り着ける」
クレナイの言葉に、ソウイとヒガタネは無言で頷いた。
その瞳の奥に、どこか不安の色が滲んでいたとしても。
三人が都市の外縁部に差しかかったそのときだった。
風が急に止み、空気が湿り始める。
そして……ぽつり、と。
冷たい雫が、ソウイの頬に落ちた。
「……雨?」
空はまるで世界の終わりを告げるかのように黒く染まり、
次の瞬間、濁った豪雨が地を叩きつけた。
「……まずい!」
ヒガタネが叫ぶより早く、クレナイの体から火花が散った。
水は彼の体に触れた瞬間、煙となり、熱を奪っていく。
「ちっ……濡れるな。火は、水に殺される」
いつものクレナイの余裕は、どこにもなかった。
全身が蒸気を上げ、灯りが小さく震える。
「こっち!」
ソウイは反射的に軒下へ駆け寄り、クレナイを庇った。
雨粒が彼女の髪を濡らし、額を流れていく。
だが──奇妙なことが起きていた。
ソウイの中の白い火だけは、雨に消されなかった。
雨が彼女の掌に触れても、白い火は消えず、むしろ淡く光を増していた。
それは炎というより、「記憶そのものの温度」だった。
そのとき、ヒガタネが低く呻く。
「この雨……ただの天気じゃない」
ビルの屋上。そこに取り付けられた奇妙な装置。
人工雲を発生させ、都市の上空に常時雨を降らせる「気象制御システム」だった。
「……“防火都市政策”だと?」
クレナイが吐き捨てるように言った。
かつて、火災を恐れた都市行政が考え出した“無炎都市構想”。
天候すら操作して、火の可能性そのものを殺す社会。
「人間は……ここまで火を憎んでいるのか」
冷えきった路面で、火たちは力を失っていく。
まるで、使い捨てられたライターのように。
その横を、人々は傘を差して歩いていく。
誰も見向きもしない。
ただ通勤時間がずれることを嫌い、機嫌を損ねるだけ。
「雨の下で死んでいく火なんて、見えない方が都合がいいんだろうね」
ソウイはそう呟き、濡れた足元のクレナイを見つめた。
彼の炎はほとんど消えかけていた。
「……おまえは、雨を怖れないのか?」
「うん。わたしの火は、思い出だから。
雨がどれだけ冷たくても……記憶は、消えない」
その言葉とともに、白い火がソウイの胸から拡がった。
炎は彼女の体を傷つけることなく、雨粒を弾き、周囲を淡く温めていく。
ヒガタネが目を見開いた。
「その火……まさか、融合体か……」
クレナイが呻くように笑った。
「なるほど……人間と火、両方の記憶を持つ存在……それが、おまえか」
そのとき、空がまた一段と暗くなった。
雨は止む気配を見せず、都市全体が“雨の沈黙”に包まれていく。
だがその中で、ただひとつ燃え続ける火があった。
ソウイの白い火──世界の“進化”を賭けた、新しい記憶の炎。
火が死にゆくこの都市で、
ひとつだけ、消えない火がある。
それは、忘れられた記憶を灯すための、
新しい「始まりの火」だった。
(つづく)