黒煙の眼
人間たちは、火を捨てた。
火事を恐れたからではない。
消防法と保険の等級が、すべてを決める時代になったからだ。
ヒガタネは、街の空気に紛れた“焦げの匂い”を感じ取っていた。
それは決して煙草や電線の匂いではない。
──生きた火の、息遣いだった。
「……近いな」
ソウイの掌にも、再び微かな熱が宿っていた。
前よりはっきりとした輪郭を持ち、彼女の体温と同調していた。
「ねぇヒガタネ。わたし、もしかして……変になってるのかな」
「“変わる”ことは、生きてる証だ。おまえは人間で、そして……火の触媒になりかけている」
その言葉が何を意味するのか、ソウイにはまだわからない。
けれど確かに、夜の街が呼んでいた。
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その夜、二人は煙突の町工場跡へ向かった。
昔、石炭を燃やし続けていた場所。
今はコンクリと防火材に封じられ、鉄の遺物となって忘れ去られた構造体。
その内部で、ヒガタネは見た。
──自分とは違う、もう一つの火種を。
「よく来たな。おれを、呼んだのはおまえか?」
声は低く、炎の弾ける音のようだった。
そこに立っていたのは、漆黒の炎を纏った少年の姿。
その瞳は、煙のように濁り、赤く焼けた涙の跡があった。
「……クレナイか」
「その名も、人間がくれたものだ。“燃えすぎた火”というラベルだ。都合が悪いものは、すぐに名前をつけて、消す準備をする」
その言葉に、ヒガタネは微かに眉をひそめた。
「おまえは、怒っているのか?」
「怒り?──そんなもの、もう焼き尽くしたさ」
「おれは、火の死体から生まれた。燃やされたゴミの山、埋められた焼却炉、誰にも感謝されずに尽きた熱……その残り火だ」
クレナイの炎がじりじりとソウイへ迫る。
「なぜ人間は、燃やしておいて『それはなかったこと』にするんだ?
エアコンをつけながら、環境に優しく、だって?
電気を使いながら、“火なんて危ない”って?」
その一言一言が、ヒガタネにも刺さった。
──人間は火を支配したと信じている。
でも本当は、ただ無視しただけだった。
ソウイが叫ぶ。
「……違う! 火は、そんなに……そんなに、無力じゃない!
あたしは、火に救われた。怖かったけど、それでも……温かかった!」
その瞬間、ソウイの胸に宿っていた熱が、彼女の全身を貫いた。
──眩い炎が、彼女の肩から吹き上がった。
「ソウイ、やめろ! 火は……!」
「ううん、いいの……これは、怖くない」
炎は赤くも青くもない。
白く、静かな輝きだった。
ヒガタネも、クレナイも、それを見て言葉を失う。
火が、燃やすことを超えていた。
火が、ただ在ることを選んだ瞬間だった。
クレナイの炎が、かすかに揺れる。
「……おまえ、ほんとうに人間なのか?」
ソウイは言った。
「たぶん、いまはもう、ちょっと違う。でも……それでいいんだと思う」
沈黙のなかで、遠くでサイレンの音が鳴る。
街でまた火災が起きた。
ニュースは「配線トラブル」と報じるだろう。
だが、ほんとうの理由は──
火が、目覚め始めたのだ。
そして、ソウイもまた。
──世界の温度が、変わり始めていた。
つづく