一滴の熱
街は冷えていた。
季節のせいではない。
人々の心が、どこか“火”を忘れていた。
ヒガタネは思った。
人間たちは、火を恐れ、火を使い、そして火を捨てた。
電子レンジ、IHコンロ、LEDライト。
火の代わりに“効率”と“清潔”を選んだ人間たちは、
焚き火のにおいも、薪の軋む音も、
──温度という記憶を手放していった。
「なぁソウイ、人間ってそんなに“冷たい”のか?」
夕暮れ、ソウイの部屋のベランダで、ヒガタネは低く呟いた。
ソウイは苦笑した。
「火を怖がってるのかも。私も、最初はそうだった。怖いものは、触れずに済むなら、それが一番って思ってたよ」
「だがそれは、忘れたということではないのか?」
ヒガタネの炎は細く、まるで風に問いかけるように揺れていた。
「忘れたフリ、だよ。ほんとはみんな、火のそばにいたことを覚えてる。なのに、遠ざける。それが人間の…ややこしさかな」
ヒガタネは黙った。
人間は、勝手だ。
欲しがるくせに、恐れ、
捨てたあとで、また“便利”に名を変えて使い直す。
火は、道具ではなかった。
火は、祈りであり、願いであり、
生きていたのだ。
その夜。
ヒガタネは町の裏通りへ出た。
ひとけのないごみ収集所。
まだ火の消えていない、吸い殻の山。
彼はそこに、共鳴を感じた。
──チリ……。
一瞬、そこに赤い“眼”が瞬いた。
ただの火ではない。
それは、彼と同じように、燃やされた記憶を持つ者。
「見つけたぞ、“おれ”ではない“おれ”──」
ソウイの部屋に戻る途中、ヒガタネは足を止めた。
なにかが、この世界の底で蠢いている。
人間の過去に火を与えられ、そして棄てられた“同胞”たちが、
いま、静かに“熱”を帯び始めている。
“それ”は怒りではなく、ただの再生ではない。
火の意志。
火そのものが、進化しようとしていた。
「……ソウイ、もしおまえが“火そのもの”になれたら、どうする?」
突然の問いに、ソウイは戸惑いながらも、まっすぐ答えた。
「……たぶん、燃やさない。
でも、“温めたい”って思う」
ヒガタネは、ゆっくり目を細めた。
まるで、知らなかった未来の光を見たように。
火は、奪うだけの力ではない。
与えることで、存在することもできるのだと。
その瞬間、ソウイの手のひらに、小さな焔が浮かんだ。
何も触れていないのに、彼女の指先から淡い熱がにじみ出る。
ヒガタネの心臓に似た核が、かすかに震えた。
──人間と火の、境界が揺らぎ始めた。
世界はまだ気づいていない。
火がふたたび、歩き出していることを。
つづく。