食事/「俺の……、許嫁なんだ」
階下のざわめきが聞こえるなか、どれくらい待っただろう。
急にドアが開いた。私はさらにぎゅっと体を丸める。
「聖女様?」
小さな声が聞こえた。それは間違いなく、セルジュの声だった。
ほっとした。本当にほっとして、自分の不安の馬鹿馬鹿しさに気づいた。けれどそれが現実に起こり得ることにも、気づいてしまった。
「聖女様?」
体を起こせば、セルジュがこちらを見ていた。
「すみません、そばを離れたくはありませんでしたが、あれで行かないのはさすがに不自然だったので。何か、ありましたか?」
私の不安まで、セルジュに背負わせるわけにはいかないと思った。
「何でもありません。疲れたので、ぼんやりとしていました。」
セルジュは不審そうな顔をしたものの、ベッドにスープの深皿とパンを持ってきた。
「食べられそうですか?」
「ええ、たぶん。ありがとうございます。」
お腹が空いているとは感じなかった。でも、温かなスープは美味しそうに見えた。
手を組んで短い祈りの言葉を唱える。それからスープをすくって口に入れた。その温かさが体に沁みるようだった。
向かいでは、セルジュが部屋にあった椅子を二つ引っ張ってきて、一方に座り、もう一方にグリルされた肉やじゃがいもや、そのほかいろいろが乗った皿を置いて、すごい勢いで食べていた。本当に、すごい。
思わず見ていたら、彼が顔を上げた。
「口に合いませんか?」
私は慌てて首を振った。
「違います。美味しいです。」
「聖女様には、胃に負担のかからないものが良いかと思ったんですが。俺の皿のほうも食べてみますか?」
私はもう一度首をふった。
「そちらも美味しそうですけれど、たぶん、食べられそうにありません。」
納得したらしいセルジュが食事を再開する。私もスプーンを持ち直す。
その時だった。突然、ノックの音が部屋に響いた。
私はスプーンを持つ手を止めたまま、すべき行動が何も思い浮かばなかった。
そしてセルジュが動く前に、ドアが開いた。
「靴を持ってきたんだよ。うちの息子のお古だがね。って。」
宿の女主人が私をじっと見た。弟に見えているとは、とても思えない視線だった。
女主人がじろりとセルジュを見やった。
「兄さん。どういうことだい?具合が悪いのは本当だとして、女の子にしか見えないよ。」
セルジュは立ち上がると、苦渋の決断をするように女主人に詰め寄った。
「頼む、口外しないでくれ。俺の……、許嫁なんだ。」
私の手からスプーンがすべり落ち、からんと皿にあたった。
苦渋に満ちた表情でセルジュが続ける。
「働きに行った先の、領主の馬鹿息子に目を付けられた。
だから、無理矢理連れ戻した。街に戻ったらすぐ神殿に行く。」
女主人がじっと私を見た。次にセルジュを見てこう言った。
「いいかい、あたしは何も聞かなかった。いいね、何も聞かなかった。
聞かなかったなら、何を尋ねられようと答えようもないからね。」
セルジュが頭を下げる。
「本当に助かります。」
「いいかい。礼をしたいんだったら、ほとぼりがさめた頃、二人でうちの食堂に来て、食べていっておくれ。」
女主人は呆然としたままの私のそばにくると、ぽんと肩をたたいた。
「人生、ちょっとばかり嫌なことはあるものさ。でも、こうやって迎えに来てくれる許嫁で良かったじゃないか。さっさと神殿にいって、式を挙げて、幸せになっちまいな。」
私は呆然としたまま、とりあえず頭を下げた。そして小さな声で付け加えた。
「ありがとうございます。」
「いい子じゃないか。兄さん、大切にしてやりな。
明日はどうするんだい?馬に乗れるなら、二軒隣の爺さんが馬を貸してくれるよ。」
「ありがとう、行ってみる。」
セルジュが答えると、女主人は満足そうに部屋を出て行った。
「あの、セルジュ?」
思わず首をかしげれば、セルジュがこともなげに言った。
「申し訳ありません。ドアを開けられたのは俺のミスです。
ですが、安心してください。不審に思われた時の言い訳はあと五、六個、頭の中に持ってるんで。」
私が聞きたいのはそれではなかった。けれど何を聞きたかったのか、わからなくなってしまった。
あれは迫真の演技だった。嘘だと知っている私ですら惑わされたほどに。
こんな許嫁がいたらいいと、そんな埒もないことが思い浮かんだほどに。
そして、女主人の好意がただ有難かった。あの幸せを願ってくれる言葉も。
私とセルジュは許嫁でもなんでも、ないけれど。