村の宿
「すみません、今の行動は軽率でした。以後、気を付けます。」
何事もなかったかのように私から離れ、距離を取ったセルジュがそう言った。
私も混乱しすぎたので、以後気を付けるらしいと、受け取っておくことにした。
彼にうながされ歩き出せば、意外にも村は近かった。
いったいここはどこなのかとは思った。けれど、見咎められる危険のほうが気になった。村の入口、その門はすでに閉まっている。
手前の木陰で立ち止まり、セルジュが小声で言う。
「俺は冒険者、あなたは俺の弟です。隣街に行く途中、弟の具合が悪くなった。とにかく休ませてくれないかと頼む。あなたはただ、ぐったりと俺に寄りかかっていてください。」
聖女としても子爵令嬢としても、こんな経験をしたことはなかった。上手くできるだろうか、足を引っ張らないだろうかと不安になる。
「マントをこちらに、靴は脱いでください。」
ついでに、折り返していた裾も袖口も元に戻される。
「これで足は見えない。手も見せないでください。あなたの手は令嬢の手だ、目ざとい誰かに気づかれたくない。」
私はうなずく。
「顔はふせて、目も閉じて、じっと黙っていてください。あなたは小柄だから、それだけでいい。あとは全部、俺がやります。」
私は手を胸に当て、大きく呼吸した。
「わかったと、思います。」
夕闇のなか、セルジュがふっと笑みを見せた。
「大丈夫です。俺が何とかしますから。」
私はその顔から、なぜか目が離せなくなった。
けれど次の瞬間には、なぜか抱き上げられていた。
「セルジュ!?」
慌てて呼べば、
「具合の悪い弟は黙ってください。」
と、彼の腕が帽子ごと私の顔を彼の胸に押し付けた。苦しくはないけれど、何も見えなくなった。ということは、他の人にも私の顔は見えない。
彼が走り出す。私は何時だったか熱を出した時を思い出し、身体をできるだけぐったりとさせることにした。
ドンドン、ドンドン。ドンドンドンドン。
「お願いだ、開けてくれ!」
セルジュの切羽詰まった声。
「何だ、もう門限は過ぎたぞ。」
面倒そうな男の声。
「隣街に行きたかったんだが、弟の具合が急に悪くなった。とにかく宿で休ませてやりたい。」
「そりゃ、難儀だ。念のため兄さんの顔を見せな。盗賊には見えんな。」
「俺は冒険者だ、ギルドに問い合わせてもらってもいい。」
「まあ、いいだろう。入んな。」
「助かる。」
「宿はわかるか?ああ、あっちの奥の三軒目だ。」
「ありがとう。」
セルジュが走る。周りが騒がしくなる。
ダンとドアが開く音。急に静かになった。
「部屋は空いてないか。」
「なんだい、いったい。」
貫禄のある年配の女性の声だった。
「頼む、弟の具合が悪い。部屋は開いてないか。」
「そういうことなら、すぐ聞き入れてあげたいところなんだけどねえ。あいにく今日は全部埋まってるんだよ。」
「どこでもいい、休ませてやりたいんだ。」
「そうだねえ、物置でもいいかい?とりあえず寝かせてはやれるよ。」
周りがまた騒めき始めた。料理の匂い、金属の音がする。宿屋の一階にある食堂か何か。
セルジュが歩き始める。階段を上がっているようだった。
「その子の、靴はどうしたんだい?」
「ああ、しまった!俺が慌てたせいで、どこかで落としたな。」
「食事はどうする?」
「何か食べやすいものがあれば、もらえないだろうか。」
「兄さんは?」
「俺は何でも。さっき美味そうな匂いがした。」
「うちは匂いだけじゃなく味も絶品だよ。」
「それは楽しみだ。」
「さあ、こっちだ。古いベッドがあるだろ。埃避けのシーツをはずして寝かしてやりな。ランプはこれ。毛布なんかは持ってくるから、ちょっと待ってておくれよ。」
「ありがとう、本当に助かった。」
パタンとドアが閉まる音がした。
私の体がそっと降ろされる。目を開ければベッドの上だった。セルジュが小声で言った。
「上出来です。」
私は息を吐きだした。
「疲れたでしょう。そのまま横になっていてください。念のため壁のほうを向いて。」
確かに、こうやって横になれば明らかに疲れているとわかった。固いベッドも気にならないくらい、このまま寝ていたくなった。
セルジュが体にマントをかけてくれる。ほっとした。
ほっとしたら、私は気づいてしまった。マントだけではない。セルジュがいてくれるから私は、ほっとすることができる。今、こんなにも。
大きく息をついた。急に眠気を感じて、目を閉じる。
コンコンと、ノックの音が響いた。
マントの下で体が強張る。ドアが開く音がした。
「あの子のだよ、野菜を煮込んだスープとパン。これなら食べられるさ。それから毛布。
兄さんはこの子についててやるんだろ。食事は取りに来ておくれ。おすすめを皿に盛っておいたから。」
「わかった。」
二人分の足音が出ていく。ドアがパタンと閉まる。部屋がしんと静まり返る。
急に怖くなった。
もし、もし、誰かに見つかったら。すでに誰かが私たちを探していたら。私を殺そうとそんな誰かが近くに居たら。もし、セルジュがこのまま戻って来なかったら。
両手をぎゅっと胸に押し付け、マントの下で丸くなった。
大丈夫、などとは思えなかった。とても思えなかった。