誓い/「一人で逃げたとして、死なない自信がありますか」
「暗くて分かりにくいですが、街道です。ここからは見えませんが、その先に村がある。遠くはありません。今日はそこに泊まります。」
セルジュが指さす。私は戸惑った。追われかねない状況ではなかっただろうか。それとも、いくらかは安全なのだろうか。仕方なく聞くことにした。
「良いのですか?」
「人目に付きたくありませんが、野宿ではあなたの体がもたない。携帯食もありますが、あなたには別のほうがいい。
それに先を急いでも、隣街の門は朝にならないと開かないんで。」
彼に何か考えがあるようだったので、それ以上は問わなかった。すると、目の前に古びた布を差し出された。
「これを着てください。これしか準備できず申し訳ないのですが、俺は後ろを向いていますから。」
彼がそれ以上何も言わず森の外の方を向いたので、私はそれとは反対の大きな木の後ろ側に回った。外で着替えるなどとんでもなかった。聖女としても子爵令嬢としても、そんなことはしたことがない。けれど、どれほどとんでもなくとも、着替える必要があるのは理解できた。私が着ているのは、聖女のための特別仕様の修道女服だったから。さすがに人目に付きすぎる。
渡されたものを広げる。清潔ではあったが古着だった。いや、それより今まで着たことのないものだった。市井の少年の服に見えた。マントを羽織ったまま、ごそごそと服を脱ぎ、何とかそれを着た。セルジュが急かすことなく待ってくれるのが、有難かった。
服は大きかった。ズボンのすそを折り返し、手がすっぽり隠れてしまう袖口も折り返し、これ以上はどうにもできないとあきらめて、木の後ろから出た。
彼もまた服を着替えていた。街で見かける冒険者のようだった。
「すみません。やはり靴が必要でした。」
私を見るなり彼はそう言った。確かに、この服に女性用の靴では合わない。
手に持ったままの聖女の服を、彼が取り上げた。
「すみません。ですが、こうさせてもらいます。」
何をするのかと思ったら、彼は地面にそれを放り投げた。ぼっとそれが炎に包まれる。魔法を使ったようだった。
もう私は、聖女ではない。その現実がそこにあった。
悲しかった。それ以上に、ひどく疲れた気がした。体の芯から疲れている気がした。
同時に、やはり駄目だという気持ちにかられた。この状態は駄目だと。私は言わなければならない。きちんと伝えなければと。
燃やしたものを確認していた彼がこちらを向いた。
「聖女様。安全な場所に着いたら、上質な服を用意します。髪も切り揃えられるよう手配します。
とりあえずこれを、髪を隠します。」
彼が少年用の帽子を深く私の頭にかぶせる。その時、彼の手が私の不揃いになった髪に当たった。なぜか、彼が唇をかみしめた。
「すみません、あなたの銀の髪を。」
銀、ではない。ただの灰色。
違う。私が気にしているのはそれではない。髪でもなく、服でもなく。
セルジュは私が死ねば後を追うと、そう言った。
死にたい気持ちはもう、なかった。けれど生きたいかと言われれば、分からなかった。
けれど、こんな私に付き合うのは、王家に用済みと判断され殺されかけた私に関わるのは、いくら護衛騎士だとしても危険すぎる。
「騎士セルジュ・アダン。」
呼びかければ、彼がひどく驚いた顔をした。
「あなたはすでに、十分な危険を冒してくれました。そうまでして私を助けてくれたこと、本当に感謝しています。もう十分すぎることをしてくれました、ですから。」
続けようとした言葉は遮られた。
セルジュが私を睨む。口を開く。苛立ちと真摯さが入り混じった声だった。
「心配しなくていい。あなたが生きることを望むなら、俺はいくらでも逃がしてやる。」
この人はまだ私にそれを望むのかと、そう思った。
死にたいわけではない。けれど、生きる気力が自分にあるのかどうか、分からなかった。
今はただ、疲れを感じた。何もしたくないほどに。本当に何も、したくない……。
私は頭をふる。ともかくセルジュに伝えなくては。
見上げれば、極めて不機嫌そうな顔に見下ろされた。そして彼は淡々とした声で告げた。
「それとも、あなたにはこう言ったほうがいいですか。
あなたが一人で逃げたとして、死なない自信がありますか。
もしあなたが死んだら、俺も後を追います。」
その言葉を理解するのに、少し時間がかかった。
そして私は、大きくため息をつくしかなくなった。
「死なない自信はありません。ですが私は、何よりあなたに死んでほしくない。」
「なら、俺と一緒に来てください。」
彼が私に手を差し出す。どちらか選べと。選ばないことは許さないと。その刺し貫くような視線が要求する。
なぜ。分からなかった。
それでも、彼の手を取るのはためらった。
「私は、あなたが傷つくのは嫌です。」
せめてそう言えば。
「なら、生きてください。」
彼の答えは簡潔だった。
ああ、そうかと気づいた。
彼は選ばせようとする。私に選ばせようとする。そのために何度も、何度も、問いかける。
私に生きるほうを向かせるために。
なぜ。どうして。そこまでして。
わからない。
わからなくとも、彼が手をこちらに差し出したまま、じっと待っているのだけは確かだった。
私は死にたいわけではない。
けれど、生きたいのかどうか、わからない。どれほど私のなかを探してみても、それが見つからない。
ただ疲れ果て、残っているのは虚ろな、空っぽだけだった。
それなのに……!
胸の奥で何かが動いた。突如、荒れ狂うような気持ちがあふれた。
そうだった、私のなかに確かにあったはずの。大切な、大切にしてきたはずの。
好きだった。
それでも、それでも、あの人のことが好きだった。愛していた。
無理でも、駄目でも、先の見えない努力せずにはいられないほど。
そう、好きだった。けれど両手にためてきたその気持ちは、そのはずの何かは、こぼれ落ちてしまった。
ぽろぽろと、ぽろぽろと、手のひらからすり抜けて、こぼれ落ちてしまった。
だから、何もない。
この手にあったと思ったものは何もなく。それが悲しかった。
空っぽだった。私の中には何もなかった。
けれど、どれほど空っぽでも、何もなくとも。
それでも私は、死にたいと望んでいるわけではなかった。それがわかった。
彼はひたすら手をこちらに差し出したまま、じっと待っている。
それは彼が私に向けてくれる真摯さだった。同時に、熱すぎる火傷しそうなほどの何かだった。
何度も、何度も、彼はそれを差し出してくれた。それを、私に与えてくれた。
気づけば、頬を涙が伝っていた。涙は熱かった。
差し出された彼の手にゆっくりと私の手を乗せる。大きな彼の手をつかむ。
ただ、こう伝えたかった。
「セルジュ、ありがとう。」
途端に、魔の森にあっても冷静だった騎士がひどく狼狽えた。不思議に思う間もなく、私は彼の腕に抱きこまれていた。私の背に回された両腕が震えていた。
「セルジュ?」
彼の腕がきつく私の背を抱き寄せる。彼に捕らわれているような錯覚におちいり、私は混乱する。
「セルジュ?」
私の肩に彼が顔を伏せた。刻み付けるように言葉を発する。
「俺はあなたに忠誠を誓った騎士だ。俺はあなたを守り抜く。必ず、逃がします。」
それは真剣な言葉だった。騎士の誓いと言っていいくらいの言葉だった。
ただ、騎士だというならばこの行動は変だった。
主に対し騎士がこんなふうに振舞うことはない。
騎士が主を抱きしめるなどということはない。
それは、ない。
そのちぐはぐさに、私はひどく混乱してしまった。