外出
それは、ずっと隠して抑えつけていた気持ちだった。
それを涙とともに流し出せば、少し楽になった。
殿下に対する気持ちは戻らない。
好きだったと思う。愛していたと思う。けれど、それは過去だった。通り過ぎていった、遠い過去のようだった。もしかしたら、幻なのかもしれなかった。
好きと想い、殿下も私のことを想ってくださっていると。でも、それはどれほど本当だったのだろう。私があると思い込んだだけの、私ひとりが思い描いただけの幻のような気がした。
今の私には、過去より幻より重要なことがあった。これから私は、どうしたらいいのだろう。
死にたくはなくとも、どう生きていけばいいのかわからなかった。どれほど過去のことを考えても、これからどうしたいのかはわからなかった。
胸の底に残った苦さと、それでも少し軽くなった気持ちだけがある。
夜、宿の一階で食事をしながら、セルジュが言った。
「リアの体調もかなり良くなったので、明日の午前中、家を見に行きませんか。」
最近セルジュが外出していたのは、それが目的だったのかと思った。
「王国の状況がはっきりしないので、しばらくこちらで暮らすことになります。宿の暮らしは便利ですが、落ち着かない。特に神殿の暮らしに慣れているあなたは、夜に周りが騒がしいのが気になるのでは。なので家を借りるのはどうかと。リアはどう思いますか?」
どうも何も、私にはよくわからなかった。つまるところ、セルジュが一緒ならどこでも良かった。
「セルジュが良いと思った所なら、見てみたいです。」
「ほかに希望は?」
その時、思いついた。何だか突然、そうしたくなった。
「髪を切り揃えに行きたいのですが。」
翌朝、私は大きな鏡の前に座っていた。後ろには花びらを模した服がおしゃれな妖精族が立っている。宿のカウンターでおすすめの所を聞いてきたからと、セルジュがここに連れて来てくれた。
妖精の華奢な指が、洗われたばかりの灰色の髪を滑る。
「おねーさん、どうする?
気分を変えたいなら、ベリーショートなんて楽しいわよ?
色を変えてもいいけど、それはもったいないかな。
こんなにさらっとまっすぐな髪だから、伸ばしたい?
それも素敵よ。でも伸ばすまでも楽しみましょ。
毛先を整えるだけなら、肩ぐらいの長さになるわ。それを、もう少しだけ短くしてみる?
肩より少しだけ上、こんな感じ。軽やかでしょう?うん、似合ってるわ。」
……。ただ髪を切り揃えて欲しいだけだった。でも、軽やかという言葉に惹かれた。胸のなかにある重いものを軽くしたい気分だった。
「ええと、それでお願いします。」
妖精がにっこりと笑った。
妖精の鋏が、魔法のように髪をすべる。さらさらと髪が落ちていくたび、少しずつ何かが軽くなっていく気がした。
「おねーさんはここに来たばかり?しばらくはここで暮らす感じ?
それなら、妖精印のお店の話はもう聞いた?
石鹸とか、ハンドクリームとか、とってもおすすめ。肌がしっとりすべすべになるわ。
もちろん、シャンプーにトリートメント、化粧水やフェイスクリームもあるわよ。
女の子なら必需品でしょ。あとでお店のカードを渡すわね。
服も買い足したほうが良いかも。くつろぐ時間って大切よ。部屋着とか、寝間着はある?
それなら、向かいのお店に行ってみて。妖精がデザインをしているの。肌触りのいい布が使われているから、その点もおすすめ。ぜひ見てほしいわ。」
そんな妖精のおしゃべりと情報を聞きながら、座り続けることしばらく。
鋏を収めた妖精が、かけていた白い布をはずした。
「どう?」
ただ毛先を整え短くしただけ、とは思えないほど軽かった。鏡に映った見た目も、心も。
「ありがとうございます。とても、良いと思います。」
微笑んだ妖精が、少し首をかしげた。
「ちょっとだけいい?
おねーさんの髪、もっと綺麗なはずなのよ。疲れているっていうか、魔力もね?」
私の髪は灰色で綺麗になりようもないと思ったけれど、ひとまずこう答えた。
「ここ三週間ほど、体調が悪かったからかも。」
「ちょっと待って、治ってこれなの?
おねーさん、せっかくカランシアの街に来たんだから、ストレスの少ない生活をしてみるのもいいと思うわ、絶対。」
断言されたので、アドバイスは受け取っておくことにした。王国にいたころの私の生活はあれが当たり前で、ストレスが多いとか少ないとか考えたこともなかったけれど。
「とりあえず今日は、妖精の魔法を軽くかけておくわね。」
「ええと、そこまでは。」
言いかけたところで、からんと音がした。入ってきたのはセルジュだった。驚いたように私を見つめる視線に、落ち着かない気分になった。
「ちょうど良かったわ、恋人のおにーさん。
おねーさんの髪が痛んでいるから、また連れてきて欲しいの。
とっておきの魔法をかけるから。一か月後くらいがいいわ、ね?」
「わかった。」
即答したセルジュの手が一度、私の髪をすくうように触れる。
そうだった。セルジュはずっと私の髪を切ったことを気にしていた。その安堵した表情に、私は反対できなくなってしまった。




