回想
熱が微熱まで下がった。少しずつスープが食べられるようになり、パンも食べられるようになった。節々の痛みも軽くなり、起き上がれるようになった。ずっとついてくれていたセルジュが外出するようになり、しばらくそんな日々が続いた。
そしてようやく、平熱になり、節々の痛みもおさまり、動けるようになった。少ないけれど食事も取れるようになった。すぐ疲れるけれど、いつもの生活ができるようになった。
そんな日、昼に一度戻ったセルジュが、私の様子を確認してまた出て行った。
「夕方には戻ります。食べられそうなら、夕食は食堂で一緒に。」
と、そう言って。
開けた窓からさわやかな夏の風が入ってきた。昼の街のざわめきが風とともに届く。
たった一か月前のことなのに、王国にいた頃、聖女として浄化し、殿下と会っていた日々が、遠い昔のような気がした。あの森での出来事も。
今、私は少し冷静に考えることができるようになった。
あの時、私は冷静ではなかった、突然の婚約破棄と、修道院行きと。だから。
あの森で、王国の騎士はいった。殿下が私の死を望んでいると。
私が聞いたのはその言葉だけ。だから、それが本当かどうかは、わからない。
あの日の前日、殿下に急な視察が入り、王都を離れることになった。ここまで急なのは珍しかった。少し変だと思った。
そして翌日、陛下の側近から、婚約破棄の通告、修道院行きの命令があった。
セルジュの話では、侯爵とつながりのある上位神官から、王国の騎士に従うよう密かな指示が入ったという。
もしかしたら、殿下は知らなかったのかもしれなかった。殿下の知らないところで、全部片付けられたのかもしれなかった。
だから、殿下が私の死を望んでいるとというのは、私に言うことを聞かせるためのでまかせ、そんな可能性も考えられた。
私に確かめる術はない。本当は、どうであったかということは。
もし本当なら、殿下は私を切り捨てるほうを選んだということ。そして私は、殿下にそんな冷徹さがあるのを見抜けなかったということ。王族として国の利益のために婚約者を捨てる、殿下にそういう一面があることが私にはわからなかった。ただそんな殿下なら私がどうなったかなど、きっと気にしない。
もし、そうではないのなら、殿下が私のことで思い悩まなければいいと思った。王国で私は、予定通り修道院に行ったことにされているのかもしれない、あるいはすでに死んだものと見なされているのかもしれない。けれど、殿下には幸せでいてほしいと思った。
そう、そんな気持ちだけでいられたら良かったのに。そんな願いだけでいられたなら……!
結局私には、殿下の婚約者としての資質がなかった、そう思うのは苦しかった。にもかかわらず望んだ自分が、惨めで恥ずかしかった。
殿下はたぶん、私の素朴というか、気取った令嬢のような振る舞いがないのを気に入ってくれた。でも、そんなものは宮廷において役には立たなかった。
私には足りないものばかりだった。何がどのくらい足らなかったのか、未だわからないけれど。私にそれだけの能力がなかったのは確かだった。
一人で無理ならば、助けてくれる人を見つけるべきだった。私は味方を作ることができなかった。いや、そう考えている時点で駄目なのかもしれなかった。私を助けたい人は誰もいなかった、ということなのだから。
やはり私には殿下の妃になるだけの資質がなかった。それに気づかざるを得ないのは、苦かった。
殿下に不満があったことにも、気づいてしまった。私は疲れていると、つらいと、不安だと、気づいて欲しかった。
でも同時に、気づかれてはならなかった。そんなことを言って、婚約者にふさわしくない面倒な令嬢だと、思われたくなかった。
嫌われたくなかった。そのためには婚約者にふさわしい、ちゃんとできる令嬢であると、そんなふうに見られなくてはならなかった。
それで気づいて欲しいというのも無理な話だった。
気づいて欲しいではなく、言えばよかったのかもしれない。少し疲れたと、本当に結婚はできるのかと、もう少し会える時間が欲しいと。
けれど、言えなかった。言えるはずもなかった。
疲れているのも、結婚ができるのかと不安になるのも、会える時間を作れないのも、私が未熟なせい。
不満などと言っている場合ではない。もっと、もっと頑張らなければ。これは私が望んだこと、無理だとわかっていて望んだことなのだから。
ひとりで何とかしなければ、ひとりでできるようにならなければ、私が頑張りさえすれば。そうすれば願いは叶うはずだと。
思い返せば、そんな私は殿下の不満も聞いたことがなかった。聞くことができなかったにもかかわらず、私の不満に気づいて欲しいと望むのは、きっと身勝手。
それでも今、気づいて欲しかったと、そう思う気持ちが止められない。
なぜ、あの森で助けてくれなかったのかと。
なぜ、婚約破棄を止めてくれなかったのかと。
どうして、私の気持ちをわかってくれなかったのかと。
いつまで、私は頑張らなくてはならないのかと。
殿下を恨んでしまいそうだった。結婚まで望んだ人を恨みたくはないのに。
我慢しているつもりはなかった。自分が望んだことなのだからと。けれど、我慢していたのかもしれなかった。
こんなに気づいて欲しかったと思うくらいなら言えばよかった。でも言えなかった。
苦しいのに助けてくれないと思うくらいなら、頑張るのをやめて休めばよかった。でもできなかった。
恨みたくなるくらいなら、お願い助けてほしいと頼めばよかった。でも、できなかった。
そんなことをすれば殿下の近くにいられなくなる。殿下のそばにいられなくなる。殿下の婚約者でいられなくなる。だから、できるはずがなかった。
つまりは、こんな状況を打開するだけの能力が私にはなかった。
足りないのは私、できないのは私。殿下のそばにいるために、殿下の隣に行くために、頑張って、頑張って、頑張り続けて。
そして結局、私は疲れ果ててしまった。体も、心も。
大切にしたくて頑張って頑張って、その結果、私と殿下の関係は壊れてしまった。
大切にしていたそのはずが、自分で壊してしまったのかもしれなかった。
なぜなら、私は。
あの時、殿下を信じることができなかった。殿下が私を殺そうなど、そんなことをするはずがないと信じることができなかった。
セルジュの逃げるという提案でははく、殿下に助けを求めることもできた。それなのに、私はそれを選べなかった。
本当に愛していたならば、殿下を信じることができたはず。なのに、できなかった。
なぜできなかったのか、考えても答えは出なかった。
いっそ殿下のせいにしてしまいたかった。
けれど。けれど。殿下のせいにしたのでは答えは出ない。なぜなら。
エルフの鏡のゲート。あれが見せたものを思い出す。問題があるのは私かもしれなかった。
かもしれないではない。問題を抱えているのは私、なぜなら。
私は誰かに、私を必要としてほしかった。必要とされたかった、私を見てほしかった。
そう、私は。
神殿に行くまで、父も、母も、別に私に対して普通だった。いずれ婚約者になると紹介された少年も。ただ私たちの中心にはいつも、妹がいた。無邪気で天真爛漫な妹は、それだけで場が明るくなり心が和むような存在だった。それは私にもわかっていた。でも、それはそれとして私を見てほしかった。私も見てほしかった。
どうか少しでも“私”を……!
でも、母も、父も、視線の向かう先はいつも妹だった。婚約者になるはずの少年もまた、そうだった。私と話すより、よほど楽しそうに妹と話していた。
そんな妹は、私を姉と慕ってくれた。お姉様と呼び、一緒に本を読みましょう、一緒におやつを食べましょう、一緒に庭で遊びましょうと。たった一人の妹、ただ一人私を見てくれた妹、嬉しくないわけではなかった。けれど、複雑な気持ちは年を重ねるごとに増して。
聖女見習いとして神殿に行くことが決まったときは、むしろほっとした。婚約者になる予定の少年が、妹を好きならちょうどいいと思った。母も父も、私がいなくて困ることはない。妹がいるのだから。
私も、これ以上複雑な気持ちを抱えることはないはずだと。そうしなくてすむと、ようやく解放されると、そう思った。
でも解放などされなかった。
今ならわかる。私は変わらなかった。変われなかった。
誰かに私を必要としてほしくて。ただ必要としてほしくて。私だけを見てほしくて。
だから殿下にそれを求めた、ひたすらそれを。
頑張る代わりに、努力の代わりに、それが得られるような気がしたから。
結局それは、手に入らなかったけれど。手のひらからこぼれ落ちてしまったけれど。
それなのに求めてしまう気持ちが、まだ私の中にある。
ただひたすら求め続けてしまうものが。
こんな重くてこじらせている自分を、ゆがんだ自分を、私は認めたくなかった。
ずっと気づきたくなかった。
その裏にある、怒りを、悲しみを、絶望を。叶えられない願いを。
けれど今、私は気づいてしまった。そんな私はどこか歪だと、気づいてしまった。
殿下はそんな私に気づいていただろうか。気づいていたのかもしれなかった。だから、こんな結果になったのかもしれなかった。
なぜ私はあの時、殿下を信じることができなかったのだろう。なぜあの森で、疑問に思うことができなかったのだろう。なぜ殿下の元に戻ることができなかったのだろう。なぜ殿下に助けを求められなかったのだろう。
でも、できなかった。
どれほど考えても、あの時の私にそれはできなかった。
私は殿下を、愛したはずの人を信じ切ることができなかったと思えば、それもまた苦かった。
でも、でも、でも。
気持ちがあふれ出る、とまらない、とめられない。だって。
私は会いたかった、もっと会いたかった。もっと、そばにいてほしかった。
本当に婚約の披露目はあるのかと、結婚はできるのかと、愚痴を言いたかった。
疲れたと言いたかった、とても疲れているのだと、少し苦しいのだと、そう言いたかった。
でも頑張らなければならないと。けれどもう頑張れそうにないと。
そんな私の気持ちに気づいて欲しいと。
もう少しだけ、私を見てほしいと。
涙ともに、気持ちが流れる。
自分でも気づかなかった気持ちに、私は気づいてほしかった。
無理だとわかっても、それでも。
殿下が望むものも私にはわからないのに、私だけそれを求めるのは身勝手でも、なお。
欲しい、欲しい、欲しかった。
私だけに向けられる気持ちが、欲しかった…………。




