入国審査
「あまりに多い居住申請に、エルフが嫌になってこんな審査を始めたらしいですが。
ゲートを通れたら、最後は面接があります。」
そんな話をいろいろ聞かせてもらっていたら、かなり時間がたった。もう昼も過ぎている頃合いだった。
順番待ちの列も進んだ。窓からは川が見えた。その対岸は、靄がかかっているようにぼんやりとしている。セルジュが指さす。
「あれはエルフの強力な魔法による目くらましです。無理矢理入国しようとしても、たどり着けない。
そうだ。審査は書類を提出した順からいって、リアが先になります。通らなければ、こちらに戻るだけです。
万が一あなたが通らなかった場合、俺は審査自体をキャンセルするんで。」
「わかりました。」
セルジュが待っていてくれると思えば、気が楽になった。
「次。」
と、扉の向こうから可愛らしい声がした。
「行ってください。」
とセルジュにうながされて入室すれば、窓口にいた妖精族が先ほど提出した申請書を手に立っていた。
「あら、同行者がいるの。でも。」
妖精が華奢な指で用紙をめくる。
「もう一枚には書かれてないわ。次、入って。」
その声にセルジュが入室してきた。それだけで私はほっとした。
妖精が事務的に確認する。
「同行者は?」
「すまない、記入していなかったか?」
「わざと?」
問い返す妖精に、セルジュは答えなかった。
「まあ、いいわ。たいしたことじゃないし。どちらかが審査に通らなかった場合、戻りたければ向こうのエルフに言って、OK?それよりも、あなた。」
妖精がすり寄り見上げてきたのは、私だった。後ずさりしたくなるのをぐっと我慢した。もしかして、実は密かに指名手配となっている聖女だと気づかれたとか。私はぎゅっと鞄の持ち手を握り締める。
妖精が申請書をとんとんと叩く。
「あなた、本当のことを書いてないわね?」
……。確かにあれは半分以上嘘ばかり。それを指摘されたら言い訳のしようもない。
妖精族の紫の瞳が私を見上げる。魅入られそうな、ヒトを幻惑する瞳だと思った。けれど、うなずくことはできなかった。セルジュを今以上の危険に合わせたくない、その一心で答えるのを避けた。
「ふーん。ねえ、知ってる?嘘をつかなきゃならない事情、隠し事が多いほど、あのゲートには引っかかりやすいの。楽しみねえ?」
妖精の瞳が意地悪気に細められ、朱い唇が歪む。私は何とか声を出した。
「ご忠告、感謝いたします。」
妖精がふいっと机のそばに戻った。
「あなた、つまんないわ。でも、もし向こうに行けたら妖精族もけっこういるから、よろしくね。
さて、ヘンなものは携帯してないわね。審査をやめたくなったらキャンセルと言う。荷物はそこに置く。これは持つ。さ、行って。」
華奢な手がそれを指す。
確かにそれは私の背丈以上もある大きな鏡のように見えた。鏡の枠には細かい装飾と古代文字がびっしりと刻まれている。ただしそれは何も映さず、白く濁った靄が渦巻いているだけだった。
一度、振り返る。セルジュがそこにいてくれることに安心して、私は鏡をくぐった。
濃い霧の中にいるようだった。回避しようがないほどの、強力な魔法が働いているのがわかった。今は失われた古代魔術かもしれなかった。白いものに取り巻かれ、自分の手のひらすら見えない。持たされた書類をせめてぎゅっと握る。
すっと景色が変わった。
私は昏い森にいた。はらはらと灰色の欠片が舞い散り、風に流れていく。触れた瘴気はじりりとした痛みがあった。浄化で訪れる魔の森に見えた。
違う。心の奥で何かが言った。
ああそうか、と思った。あの時の森かもしれなかった。殺されそうになったときの。
私はただ立っていた。ほかにどうしたらいいのか、わからなかった。歩けばいいのか、進んだらいいのか。
けれど、どこに向かえというのだろう。途方に暮れれば、余計に動くことができなかった。
ただ瘴気が降っていた。ただ昏い森に、無数の灰色のかけらが降り注いでいた。
これが私の心のなかなら、ずいぶんと殺伐としている。
瘴気が降り積もる。少しずつ不安が増していく。無理やりそれを抑えつける。誰かが私の死を望んでいる、そんな息苦しさが増していく。
不意に、恐怖と絶望が蘇った。うずくまり動けなくなりそうなほどの、何かに襲われた。耐えられなくなり膝をつく。歯を食いしばり、じっとうずくまった。
私の中にそれがあるのかもしれなかった。あの時の怖ろしさも絶望も、まだ。呼吸が荒くなる。苦しさに囚われる。
違う、心の奥底で何かが動いた。違う。私の中にあるのは、私が本当に怖いのは、絶望しているのは、それは。
見たくない何かが見えるようだった。そこに、ずっと隠してきた悲しさが、怒りが、あるいは絶望的な何かが見えるようだった。見たくなくて目を閉じる。それでも、苦しさはおさまらなかった。苦しい、苦しい。苦しい…………!!
その時、何かを感じた。それは灯りのように私の胸にあった。
ああそうだったと、気づいた。詰めていた息が楽になる。苦しいほどの何かがゆるんでいく。
胸に温かさがあった。セルジュの差し出してくれた手、その温もりが確かにあった。
ゆっくりと立ち上がる。一歩、踏み出す――。
気付けば、見知らぬ所にいた。神殿に似ていると思った。風の魔力が取り巻く、独特の清らかさのある場所。けれど石造りの神殿と違って、木の温かみがあった。
薄明かりの森のなか、木の枝に囲まれて。かけられた布地が微風にそよぐ。ぽつぽつと浮かんだ丸い灯りがやわらかく辺りを照らしていた。
「こんにちは。」
かけられた声に振り向けば、蔦がからまったような椅子に座ったエルフがいた。間違いなくエルフだろうと思った。特徴的な耳に端正な顔立ち、涼やかな声に長衣。
「おや、これは若い人間のお嬢さんだ。あのやっかいな審査をよくする気になったね。
荷物はそこから取って。書類はこちらに、しわは気にしなくていいよ。
同行者がいるのか。彼を待つ?」
「はい、待ちます。」
答えればエルフは少し驚いたようだった。
「彼が来なかったら、どうする?」
「戻ります。」
「本当にいいの?せっかくここに来られたのに。」
一瞬、迷った。私が独りここにいれば、セルジュは安全なのではないかと。私が一緒にいなければ、もしセルジュが追われても確実に逃げられる。わかっていても、わかっているのに、それは選べそうになかった。
「戻ります。」
エルフが軽くうなずく。すっと、エルフの視線が私の後ろに向かった。
「彼は早いね。」
魔力が動いた気配がした。転移魔法陣だとようやく気付いた。ならば。
振り返れば、セルジュがいた。その姿を見ただけで、たとえようもなくほっとした。エルフの国でもほかの場所でも、セルジュと共にいられるならば私はそれだけで良いのだと、わかった。
片手で頭を押さえるようにしていたセルジュが、ぼそっと言った。
「クソッ、やっぱりエルフは偏屈で底意地が悪い。」
……。
セルジュが何を見せらたのかはわからない。けれど、エルフを目の前にしてそれを言うのはどうだろう。ゲートは通れても、最終審査の面接は落ちる気がしてきた。




