逃亡/「来てください。それとも、俺を殺したいですか?」
「準備をするんで、少し待ってください。」
……準備。ぼんやり首をかしげたら、彼から腹立たしそうな視線が返ってきた。
「逃げます。」
やはり腹立たしそうな声だった。
それでも私は、ぼんやりとしか反応できなかった。目の前をぼうっと見ていたら、彼が言った。
「ああ、そいつらは死んでませんよ。聖女様が気にするでしょうから。」
王国の騎士たちのことなど、どうでも良かったのだけど。そう答える気力はなかった。
「聖女様、髪をもらってもいいですか。」
突然彼がそう言った。私はまた、ぼんやり首をかしげる。
「あなたのその綺麗な髪をくれてやるなど業腹だが、こいつらは貴族の子弟だ。身の保身のため家のため、言い訳に使ってくれる。魔獣に襲われ聖女様を置いて逃げるしかなった、もう亡くなっているだろうとほのめかし、髪がその証拠だと。そうなれば逃げた後、安全に生活できる可能性が高くなります。」
彼の言葉を考えようとしてみた。けれど考えるのは億劫だった。とりあえず何とか少し肯いた。
彼が短剣を抜く。長くのばしていた髪がざくりと切られた感触。
彼の手の中に見えたのは灰色。昏い森のなかでは灰色の何かにしか見えなかった。
結婚式のために伸ばしていた髪、そう思えば少し胸が痛かった。けれどその痛みより、体が重かった。ただ、もう、ここに、うずくまってしまいたかった。
それなのに彼が、動き回りながら私に話しかけてくる。
「昨夜遅く、突然あなたの護衛の任務が入ると通達がありました。シフト的に俺ではない別の神殿騎士が行く予定でした。ですが侯爵とつながりのある上位神官から、王国騎士の指示に従うよう密かな命令があったと聞き、急遽入れ替わったんです。
どうも嫌な感じだったんで。万が一に備えて、逃げられるよう準備してきました。」
言葉が頭の中を通り抜けていった。意味がよくわからなかった。
考えねばと思っても、理解したくなかった。いつからそれが計画されていたのか、いつから私は殿下にうとまれていたのかなどと、考えたくなかった。
彼が何をしているのかは、よくわからなかった。私が乗せられていた馬車の馬と、王国騎士の馬が放された。彼が神殿騎士の白銀の鎧を脱ぎ捨てる。神殿騎士の剣も投げ捨てる。馬車の後方の荷台から、荷物と剣が降ろされた。
「ぎりぎりここに隠せました。こいつらの目が節穴だったのも助かりましたが。
ですが申し訳ありません。あなたのものまでは、ほとんど準備できなかった。」
彼が話し続ける。私はぼんやりとそれを聞いている。
「俺の乗ってきた馬で森を抜けます。ああ、この馬は丈夫なヤツです。二人乗りも十分できますから安心してください。他の馬は逃がしたんで、こいつらが徒歩で森を抜けるまで時間が稼げます。」
それを聞いても、私は反応できなかった。聞くのも考えるのも、億劫だった。
彼は顔をしかめると、苛立ちを抑えるように言った。
「あなたを馬に乗せます。馬車の踏み台があったんで、これに上がってください。」
声は聞こえた。意味も分かった。けれど。
私は動けなかった。
彼が私に手を差し出す。
「来てください。それとも、俺を殺したいですか?」
……。
私には、死にたいと思うほどの気力はない。同時に、生きたいと思うほどの気力もない。
ただ体が重かった、全身に重りがついているかのように。
それに引きずられる。引きずられて、このまま地面にうずくまってしまいたい。うずくまったまま、ゆるゆると朽ち果ててしまいたい。
ああ、それがいい。そうしてしまえばもう、痛くない、苦しくもない。それなのに。
なぜ放っておいてくれないのだろう、この人は。
このままうずくまってしまえば、いずれ魔獣がやってくる。雪のような灰色の欠片もちらつく。瘴気が濃くなってきたから、蝕まれるほうが先かもしれない。私はどちらの結末でもいいような気がした。
けれど私が死ねば、彼もまた死ぬのだという。
ぼんやりする頭でそれを考えてみた。
ぼんやりする頭で考えても、それは、いくら何でも馬鹿馬鹿しかった。
私にはそれほどの価値はない。私が死んだからといって彼が死ぬというのは、馬鹿馬鹿しすぎた。
彼を死なせないためには、その手を取るしかない。その手を取って、私は生きるのだと示すしかない。
けれど私の身体は、指一本動かすことも億劫だった。
連れていきたいなら、勝手に連れて行けばいい。億劫なあまりそう思った。
けれど、彼はそれを許さない。私に手を差し出したままじっと待っている。私が手を取るのを待っている。
どうして。どうして。私はここで朽ち果ててしまいたいのに……!
それでも、どれほど朽ちてしまいたくとも、価値のない私のために彼が死ぬのは、馬鹿馬鹿しかった。
体は鉛のように重い。ただ、だらんと下ろしている腕、その先にある右手を、その指を何とか動かそうとしてみる。
そうして、少しだけ指先を持ち上げれば。
すぐさま手首をつかまれた。
熱い。そう感じるほど彼の手は温かだった。
彼が持つ熱に、何かよく分からない熱意に、触れてしまったかのようだった。
ぼんやりと見上げる。彼の顔を見る。
そう、確か彼の名は、セルジュといった。