街の広場/「俺の妻に、何か?」
どれほど泣いただろう。
ドアの開く音がした。慌てて毛布をかぶった。泣いた後の顔は見られたくなかった。
「遅くなって申し訳ありません、情報を集めていました。」
セルジュの声だった。何となく本当のことを話していないと感じた。
「聖女様、食事です。ここに置いて置きます。俺は気になることがあるんで、もう一度、下に行ってきます。ゆっくり食べてください。」
「ありがとう。」
「いえ。」
ドアが閉まる音がした。
やはりセルジュは、私を一人にしてくれたのかもしれなかった。私が泣いていたことに気づいていたのかもしれなかった。もしかしたら、私が泣けるよう一人にしてくれたのかもしれなかった。
なぜだろう。もう、泣きたいほどの何かは感じられなかった。涙と一緒に流れていったのかもしれなかった。
私は空っぽだった。けれど洗い流されたような清々しさも、残った。
「午前と午後の馬車で国境の街まで行きます。小さい街ですが、レジェでエルフの国との窓口がある唯一の場所です。」
切符を買ってきたセルジュがそう言った。
馬車の出発までの待ち時間、セルジュと並んで大階段に座ったところで気になった。
「あれは、何ですか?」
広場の向こうで売られている赤い色が目をひいた。
「この辺りの特産の、フレージエのジュースですよ。飲んでみますか?」
透きとおる赤い色が美味しそうに見えた。セルジュが立ち上がる。
「待っていてください。」
広場を横切ってセルジュが歩いていく。
その時、ようやく気づいた。なぜ、今まで気づかなかったのだろうと思った。
ちらちらと女の子たちが見ている。振り返ってみている。セルジュは人目を引く。
何がそんなに目を引いてしまうのだろう。
確かに長身で、きりっとした顔立ち、細身に見えるけれど鍛えられた体躯。
でも、それだけではない。しなやかな動き、余裕のある仕草。
違う、それだけでもない。これを何と言い表せばいいのか。
戦う人が持つ野性の獣のような雰囲気を持ちながら、同時に神殿騎士として培われた礼儀正しさがあって。
そっけない表情から一転、店員に丁寧な対応を見せるかと思えば、人を寄せ付けない雰囲気をまとう。
冷静な視線がこちらを向く。私を見つけて、小さな笑みが浮かぶ。
そこで気づいた。私もまた、セルジュから目が離せなかったことに。
「どうぞ。」
「ありがとうございます。
あ、美味しい。甘酸っぱくて美味しいです。そちらは何ですか?」
セルジュが手にしているのは白っぽいジュースだった。
「バナヌ、南方の特産ですよ。飲んでみますか?」
差し出されたので、一口飲ませてもらった。
「あ、甘い。こちらも美味しいです。セルジュは甘いのが好きですか?」
ごく普通の質問をしたつもりだった。けれど、セルジュが返答に詰まっていた。
珍しい。瞬きして見返せば、セルジュが少し顔をそむけた。
「甘いものが好きだってのは、ちょっと、カッコワルイんで。あなたには知られたくなかった、というか。」
何が格好悪いのか、私にはよくわからなかった。
「私も甘いものは好きですよ。でも神殿にいては、あまり食べる機会もなかったので。
セルジュのおすすめがあったら、教えてください。」
頼めば、護衛の横顔が動揺していた。話題を変えるようにセルジュが話し出す。
「ところで、俺を見ていましたか?」
今度は私が答えに詰まった。何と言い訳しようかと迷えば、その前にセルジュが言った。
「買い方の練習がしたかったなら、一緒に行けばよかった。今度は買ってみますか?」
「ええ、お願いします。」
そういうことにしておいて欲しいと思った。
長距離馬車で次の街に進む。お昼の時間なので、クレープの買い方を教えてもらうことにした。
「その前に、馬車の切符を買っておきたいんで。」
とセルジュに連れられて売り場に行けば。
「参りました。列が長い。買うのに時間がかかりそうだ。あなたを立たせっぱなしには、したくないんですが。」
「大丈夫です。」
まだ疲れてはいなかった。けれど、セルジュの心配そうな眼差しに見下ろされた。
「昨日の状態からして、とても大丈夫とは思えないんで。
こちらのベンチに座っていてください。ここなら並んだ俺からも見える。」
大きな街だった。出発待ちの馬車も多く、中央広場も大きく、店も多く、人も多く、人波も途切れることなく。
しばらく座っていた。じっと鞄を抱えて座っていた。
待っているだけなのに、不安だった。独りで生きていけるようにならなければと思うのに、心細かった。
エルフの国に行けるといいと思う。セルジュの選んでくれた場所に、行けたらいいとそう思う。
でも、先のことはよくわからなかった。自分はどうしたらいいのか、わからなかった。
今までなら迷わなかった。聖女の生活には、殿下の近くにいるためには、すべきことも、しなくてはならないこともたくさんあった。けれど今は、どんなふうに毎日を生きていったらいいのか、わからなかった。
座った場所からセルジュの並んだ列を目で追う。その姿も、人波で見失いそうだった。
その時、唐突に腕をつかまれた。ゾワリとした。
振り払おうとしたけれど、きつくつかまれただけだった。
「見つけた。」
ねっとりとした声がした。
「お嬢さんさ、見てると分かるんだよ。」
ビクリとしてしまった。私が元聖女だと知られて……。
「ああ、やっぱりそうだ。見つかりたくないよね、探されてるよね。」
体を離そうとしても、痛いほど腕をつかまれていた。見知らぬ男のねっとりとした視線に見下ろされる。
「でもさ、泊まるところはある?お金は?今日はよくても、明日はどうする?
一人で何とかなると思ってる?」
聞いた途端、良かったと思った。この人は私が一人だと思っている、セルジュのことは気づいてない。それなら。
男がさらに言った。
「お嬢さん、バレないと思った?慣れてないってのはすぐわかるよ。今後のこと不安でしょ?
連れて行ってあげるよ。心配しなくていいところ。いい仕事があるんだよ。
家出してきたのも、隠してあげるから。」
……。確かに出てきたには違いない。家ではなく、国だけど。
不意に腕の痛みがなくなった。温かな手に抱き寄せられ、見知らぬ男はうめき声と共に地面に転がっていた。
ほっとして見上げれば、鬼の形相のセルジュだった。
「俺の妻に、何か?」
地獄の底から響いてくるような声色だった。
何事かと立ち止まった通行人たちは、男が走り去っていくと、もとのように歩き出した。
「申し訳ありません、リア。」
そう言いつつも、セルジュはまだ怒りがおさまらないようだった。仕方なく聞いてみた。
「あれは、何の仕事の勧誘だったのですか?」
「あなたは知らなくていいことです。これは俺の失態です。あなたをこのような目に合わせてしまうとは。」
セルジュの声が荒い。眉間のしわが取れない。
「本当に申し訳ありません。」
セルジュが真剣に私を見て言ってくれる。
けれど、どんな目で、何の勧誘だったのだろう?けれど、それを聞きだすのは無理そうだった。
「失礼、何かお困りかな?」
セルジュと二人、その声に振り向けば。その姿に、予想外の姿に、息が止まりそうになった。
その人は神官服だった。しかも高位の神官服だった。
震えが来た。神殿経由で私が探されている、そんな推測が一瞬で成り立った。
思わず後ずさろうとして、それをセルジュの腕に阻まれた。その腕にぐいと引き寄せられ、気づけば、セルジュの胸に押し付けられるように抱きしめられていた。
体が震える。それでも落ち着かなくてはと思った。神官に何と言われても、セルジュの指示通り動けるように。ぎゅっとセルジュの服を握れば、温かな声がした。
「リア、大丈夫です。神殿には渡さない、絶対に。」
次に聞こえたセルジュの声は、聞いたことがないほど冷ややかだった。
「わざわざすみません。だが、必要ない。」
「ですが、お連れのお嬢さんはだいぶ怯えておいでのようだ。
神殿で休息と旅の無事を祈っていかれては。」
「必要ない。リアは……!」
セルジュが口調を荒げた。
「借金の形に、望まない男と無理矢理結婚させられそうになった。信じないだろうが、神官もグルだった。」
……。あまりに突拍子もない話に思わず、体の震えが止まってしまった。
「それは。」
神官の苦悩に満ちた声がした。
「何ということを。よろしければ、どの神殿か教えていただけまいか。」
「パストゥールでの話だ。あんたの管轄外だろう。」
神官の慈愛にあふれた声が聞こえた。
「先ほどから、少々気になって見ておりましてな。
そちらのお嬢さんが、迷子と言っては失礼だが、途方に暮れておいでのようだったので。
旅の方でも、神殿にお寄りください。ぜひ祝福をさせていただけませんかな。旅の無事でも、お二人の婚姻でも。」
「考えておく。」
セルジュが私の肩を抱くようにして歩き出す。私は顔を伏せつつ、神官に小さく頭を下げた。
しばらく歩き、長距離馬車の出発を待つ列に並んだ。
「あの、セルジュ?」
首をかしげれば、セルジュが小声で言った。
「俺も少々予想外でした。神殿のほうから、あなたが捜索されているのかと。まあ、そうでなくて良かった。」
確かにそれも気になったけれど、私が聞きたいのはそこではなかった。でも何と聞き返したらいいのか、わからなくなった。
とりあえず、クレープを買う時間が無くなったことが残念だった。馬車の乗客相手に、売り子がパンを持ってきたので、それを買って馬車に乗り込んだ。
ふんわりと甘いパンを食べながら、私は先ほどの神官の言葉を思い返していた。
途方に暮れているのは確かだった。今はまだ、逃げるというすることがある。エルフの国に行くというすることがある。
でも、それが終わったら。終わった後、私は何をしたらいいんだろう。
「雨が降りそうです。ひどくはならないようですが。」
馬車が街を出たところで、セルジュがそう言った。他の乗客たちも口々にそんな話をしている。
窓からの風が冷たくなった。開けられていた窓が次々に閉められる。
ぽつぽつと、雨粒が窓に当たり始めた。
霧のような雨が、どこまでも続く丘に降っている。
緑の丘が、雨にかすむ。時おり白い花の群生が、現れては過ぎていった。
おしゃべりしている乗客たちには見慣れたもののようだった。
けれど私には、夢のように幻想的な光景だった。
さりげなくセルジュに引き寄せられた。
「寄りかかってください。体調は?」
「まだ、大丈夫です。」
「リア?」
「雨の日も美しい、そう思って。」
一瞬、忘れた。逃げていることも、追われていることも、聖女だったことも、王国でのことも、これから先のことも。何もかも忘れて、窓からの眺めに見惚れた。
そんな私のそばに、セルジュがいてくれることが嬉しかった。




