空虚
「ちょっとだけ待っていてください。」
長距離馬車を降りたところで、セルジュが言った。走り出し、角を曲がる。
行き交う人並みのなか、私は一人立っている。たったこれだけで不安になってしまった。セルジュがいないと心細い。そんな気持ちは何とかしなければと思う。いずれは独りになるのだから。逃げ切った後は独りで暮らしていくのだからと思うのに。
「すみません、お待たせました。」
新聞を手にすぐセルジュが戻ってきた。そして私の手を取る。引いて歩き出す。つないでくれる手の温かさに、ただほっとした。
こんなに心細くなるのは、疲れているからかもしれない。ぼんやりとそう考える。午後になると、また私はぐったりと体が重たくなってしまった。宿のカウンターでセルジュが鍵を手に振り返る。
「リア、部屋が取れました。」
私は何とかうなずいた。
昨日と同じように、セルジュは一階で夕食を取り情報を集めてくると部屋を出て行った。昨日と同じように、私に体を休めるよう言って。
私はベッドの上に座り込む。そして先ほど思ったことを、ぼんやりと考えた。
自分の荷物の整理はできる。長距離馬車の切符の買い方はわかった。
宿の取り方は、まだわからない。買い物の仕方も、よくわからない。どこで何を売っているのかも、私はよくわからない。
旅に必要なお金も、生活にかかるお金も、セルジュに頼っている。
今はセルジュがいてくれる。セルジュがひとつひとつ教えてくれる。セルジュが手助けしてくれる。だからこそ、ずっと頼り続けるわけにはいかない。一人で生活できるように、一人で暮らしていけるようにならければ。
私はもう、元の暮らしには戻れないのだから。
そう、神殿暮らしにも、令嬢暮らしにも戻れない。違う、戻れないのではない。
戻らないと、私が決めた。逃げると、私が決めた。
けれど、先のことを考えるのは億劫だった。
疲れていた。もう動きたくなかった。体が重くて。頭が重くて。全部が重かった。
こんなに重いのに、私のなかは空虚だった。
もしかして、私は薄情なのかもしれないと思った。あれほど好きだった、その気持ちがわからないのだから。
それでも愛していると、言うべきなのかもしれなかった。たとえ疎まれようと、愛していると。
けれど、そうやって考えていることも苦しくなってしまった。
殿下のことを考えるのは、億劫だった。全身に重石が乗っているように、疲れている気がした。
ふと思った。私はあの人のことを好きだったのだろうか。確かに愛していたのだろうか。好きと思った気持ちは、本当にあったのだろうか。
両手を見る。手のひらを見る。けれど。
わからなかった。あったはずの気持ちが、わからなかった。
それすらわからなくなった自分が、悲しかった。
そして、やはり私は空っぽだった。
翌朝は、疲れが取れている気がした。
「おはようございます。」
そう声をかけると、セルジュがほっとした顔をした。
今日も長距離馬車で移動する。午前中は大丈夫だった。午後の馬車も乗り込んだ。しかし昼を過ぎると、疲れた体がひどく重かった。
セルジュが手配してくれた宿の部屋に入れば、抱き上げられてベッドまで運ばれた。
「休んでいてください。夕食に、食べやすいものをお願いしてくるんで。」
セルジュが部屋を出ていく。ありがとうと、声をかけるひまもなかった。
私はぼうっとしたまま、ベッドに座っていた。
疲れた。体の芯から疲れている気がした。
ぼんやりと両手を見る。何もなかった。空っぽだった。
零れ落ちたものは、元には戻らなかった。元に戻らないままだった。
聖女としての生活も、神殿の暮らしも、婚約者になるため頑張ったことも、積み重ねた努力も。
あの人を好きな気持ちも、愛した気持ちも。
あの人と過ごした時間、大切だと思った何もかも、ぜんぶ。
不意に涙があふれた。何がこんなに悲しいのか、もうわからなかった。
ただ、涙があふれて、次から次へとあふれてきて、とまらなかった。
戻れないことが悲しいのだろうかと、思った。
私は戻れるなら戻りたいのだろうかと、思った。
元の生活に、聖女としての暮らしに、あの人の婚約者に戻りたいのだろうか。
違う。戻りたいほどのものはもう、何もない。何もなかった。
それが悲しかった。せめて、何かあってほしかった。何か残ってほしかった。
頑張った結果でも、努力の成果でも、それでも愛しているという気持ちでも、今まで確かに愛したという気持ちでも、何でも。
けれど、何もなかった。空っぽだった。
けれど、もっと悲しい何かがあるような気がした。ああ、そうかと思った。
望んで、望んで、叶わなかった願いが、悲しいのかもしれなかった。
あんなにも願ったことに何の意味も価値もなかったことが、悲しいのかもしれなかった。
あれほど願い、少しずつ積み上げた努力が、積み重ねたあの人への気持ちが。
大切にしたくて、あんなに、頑張って、頑張って、頑張ったのに。
苦しいほどの何かがあふれ出した。
嗚咽が抑えられなくなった。
けれど、ほかにも悲しい何かがあるような気がした。
何が悲しいのかわからなくとも、涙がとまらなかった。
嗚咽を止めようとして、止められず。
あとから、あとから、こぼれ落ちる涙も止められず。
ただ私は、そうしているしかなくなった。




