国境
「見てのとおり、川を渡った向こうが隣国。
あれがゲート。早朝から出国待ちしてたのが渡った後だから、少し空いてる。
商人に冒険者、あの馬を引いてるのも冒険者。あとは旅行者かな。
今は隣国との関係も安定してるから、通行税さえ払えば身分証の確認も形式的でね。盗賊や凶悪犯がどうのという大きな事件もない。だから皆のんびりしてる。
出るのはまず大丈夫だから、何も考えずそれを運んで。落とさないようにね。」
親切に副ギルド長が説明してくれる。エドガールさんは人に警戒心を起こさせない雰囲気を持った方だった。
私はといえば、大変高価だという魔力回復用薬液のガラス瓶を持たされていた。長さと重さのあるそれをしっかり抱え直す。
ちらりと周りを見てみれば、私の見た目は場になじんでいるようだった。エドガールさんは時おり冒険者らしき人に声をかけられていたけれど、わざわざ私に目をとめる人はいなかった。
服装は、エドガールさんが用意してくれた町娘ふうな古着のワンピース。髪はスカーフで覆い、不揃いな毛先も目立たない。
「何にも話さないっていうのも不自然だからね。ちょっと、しゃべってますって感じにしておこう。」
「はい。」
先生に対するように答えれば、エドガールさんに笑われてしまった。
「今、気分は悪くない?」
「ええ、たぶん、ええと、緊張しています。」
「緊張はいいよ。見習がお使いの練習をしてるところだからね。
ただ、まずいなあ。朝はかなり体調が悪そうに見えたよ。
だからアダン君はできる限り先を急いでいる。聖女さんが倒れたら、詰むからねえ。その前に、安全な所へ連れていきたいんだろうね。」
よくわからなかった。
「あの、私は体調が悪そうに見えるのでしょうか?」
「気づいてないのが余計悪いねえ。」
出国のゲートに向かう人波はだんだんと一列になった。エドガールさんの後について私も歩く。
警備の兵士が数人、立っているのが見えた。私はぎゅっと瓶を抱きかかえる。
もう周りを見る余裕はなくなっていた。瓶を抱え、エドガールさんの背中を追いかける。
「ちゃんと持ってる?落とさないようにね。」
振り返ったエドガールさんが声をかけてくれる。ついでにちらりと後ろの様子をうかがったようだった。
「大丈夫だよ。さ、行こう。」
エドガールさんが小声で付け加える。とりあえず、うなずくことにした。
そうしているうちに、もうゲートだった。
「今日も薬師さんのとこですか?」
「そうなんだよ。」
「おや、見習いですか?」
「お使いの練習にね。」
声をかけられたエドガールさんが役人に手を上げて歩いていく。私もそのままついていく。持たされた瓶のことだけを考えながら。後ろで、
「そこの商人、荷の確認を。」
そんな声が聞こえてきた。
ゲートから出ると、川を渡るための橋が架かっていた。
ぞろぞろと列になって渡っていく。一歩一歩、橋を渡る。
良い天気だった。川の水面がきらきらと輝いていた。
ふと、私は何をしているのだろうと思った。
いつもなら、祈りの時間のあと、朝食を取り、それから今日は中央神殿で王都の結界を。
明るい陽射し、並び歩く人々、そのざわめきも光も遠く切り離されたように、足元がふわふわした。
なぜここにいるのだろう。私は何をしているのだろう……。
「大丈夫?」
エドガールさんがまた振り向いた。
「ちゃんと持って。落とさないようにね。」
「……はい。」
瓶を抱え直し、小さく息をつく。
大丈夫とは思えなかった。けれど、これだけは確かだった。私はこの道を選んだ。
セルジュと逃げる道を、選んだ。
入国ゲートが近くなる。
私のスカートのポケットにはギルドカードが入っている。未登録のそれは見る人が見ればすぐに分かるそうなので、ちらりと見せる用だと渡された。
警備の兵士が配置されている。前に並んだ人が一人、また一人と役人に通行税を渡していく。
「あれ、副ギルド長またですか。」
「そうなんだよ。はい通行税、この娘と二人分ね。ギルドカードっと。」
「あれ、見ない顔ですね。」
「見習い。お使いの練習にね。ほらカード出して。」
私は瓶を片方の腕に抱え、慌ててスカートのポケットを探る。
役人が窓から身を乗り出してこちらを見る。
「ああ、それ超高価なヤツだ。落とさないよう気を付けて。」
その時、
「早くしてくれ!」
後ろからかかった声に瓶が手から滑った。落としそうになったところをしゃがんで受けとめ、両手でぎゅっと抱え直す。全身が震えた。
役人が後ろに向かって言う。
「通行税!身分証を見せろ。ギルドカード、冒険者か。行っていい!」
後ろからマント姿が速足で横を通り過ぎて行った。
「こっちも急いでるんだがね。」
後ろからさらに声がした。
「順番に待て!」
役人がエドガールさんに小声で言った。
「ああ、副ギルド長、行っていいですよ。」
「すまないね。これ、お礼に。ほら立って、行くよ。」
私は慌てて立ち上がると、頭を下げ速足でエドガールさんを追いかけた。
ゲートを出たところで、橋の向こうがざわめいているのが聞こえてきた。それは波のように、こちらにも押し寄せた。
「騎士だ。」
「騎士が来たぞ。」
「王国の騎士らしいぞ。」
「王国の?」
「手配中がどうとか。」
「いや、探し人らしい。」
「なんで聖女が。」
「神官?」
「いや騎士だってさ。」
そんな声が次々、耳に届いた。
背が固まる。足が止まりそうになるのを、何とか動かした。
王国の騎士が来た。単に私を探しに来たのか、捕らえに来たのか、それとも殺しに来たのか。
それとも、目的は神殿騎士なのか。
思わず先ほどのマント姿の冒険者を探した。けれど、もうどこにも見えなかった。あれは、セルジュの声に聞こえた。
エドガールさんが私の隣に並ぶ。
「大丈夫、アダン君は先に行ったよ。いや、行ったふりして見守ってるかもしれないけどね。」
私は聞かずにはいられなかった。
「セルジュは、先に行ったのでは?」
「それが最善だよ。だけど、彼にとって最善ではなかった。
列に並んでる間、ずっと後ろにいたからねえ。」
エドガールさんが苦笑している。
「ま、おかげで、その薬液を無駄にしなくてすんだよ。僕の予定ではそれを落とさせて、身分証の確認をうやむやにする予定だったからね。さ、行こう。」
エドガールさんにうながされ、足を速める。
少しずつ、後ろのざわめきが遠ざかっていった。




