10 レニと〈Honeycomb〉
エンデュミオンはその日の内に、レニが〈Langue de chat〉の扶養となる商業ギルドのギルドカードと、ハイエルンの教会で発行された聖別メダルを貰ってきた。
「傀儡師ギルドはないからなあ。傀儡がきちんと使えるようになったら、魔法使いギルドでもいいかもしれんが。フィーに頼もう」
そうぼやきながら、裏書の保証人に〈Langue de chat〉とエンデュミオン、ヴェスパの名前の刻印がある魔銀製のギルドカードと、聖別メダルを置いていった。ギルドカードとメダルを通す鎖も置いていってくれる辺りが、気配り屋なエンデュミオンだ。
レニの熱は翌日には下がったが、大事をとってもう一日休憩所に留まる事にした。しとしと降る雨も止まず、南街道よりも不人気な北街道だからなのか、他の旅人も休憩所に来ない。
「イー、気持ちいい?」
「イー、可愛いなあ」
「ウィウィ」
アメリと一緒に、レニが森驢馬のイーにブラシを掛けている。彼らの上では熊蜂の編みぐるみがゆっくりと旋回している。レニは熊蜂の編みぐるみに、ツィロと名前を付けた。男の子らしい。
「アメリ、ヴェスパは図書室の掃除をしてくる」
「うん、解った」
「わう? 図書室?」
レニがぴょこんと立ち上がった。体調も少し回復し、知らない場所と聞いて、好奇心が刺激されたようだ。
「レニにはまだ見せていなかったな。この扉だよ」
居間から図書室兼貸本屋へと続くドアは、存在を知っていて、意識しないと目に入らない魔法陣が付与してある。
微かな音を立てて、エンシェントトレント材で作られたドアを開ければ、扉付きの物入れに正面と右側を囲まれた場所に出る。貸本屋からは見えないこの区画は、売っている本の在庫が数冊ずつあったり、掃除道具が置いてあったりする。
物入れのない左側から出れば、貸本屋のキッチン付きカウンターの裏側に入れる。
「わあー」
レニが目を輝かせてその場でクルリと回った。頭上に居るツィロもくるりと回る。
「本が沢山!」
カウンターの背後には、販売している本の見本がずらりと並んでいる。
「レニは文字が読めるのか?」
「ううん。レニ、まだ読めない」
「じゃあ、文字を教えよう。でも、ここの本は文字が読めなくても、読めるんだけどな」
「わう?」
「あとで教えてあげるよ。まずは簡単に棚の埃を払おう」
カウンターの内側はカウンターの外側よりも高くなっている。スロープを下りて、ヴェスパはレニをつれて図書室の真ん中まで行った。その間中、レニはぱかっと口を開けたままだった。これだけの本を見た事がなかったのだろう。そもそも箱馬車の中とは思えないほど広い。
「よいしょ」
ヴェスパは踏み台に乗って、窓を細く開けた。まだ雨が降っているので、大きく開けるのは晴れてからだ。とはいえ、空調管理がされているので、換気や掃除の時以外、実は窓を開けなくても平気だったりする。読書には大きな音は邪魔になるので、いつも開店中は窓を閉めている。
「風の精霊、埃を集めて窓から出して」
ひゅるるる、と風の精霊が弱い風を起こして埃を巻き上げて集め、開けた窓の隙間から追い出してくれた。前回開店した後に掃除をしているので、床も汚れていない。窓を拭くのは、雨が上がってからだ。
「有難う」
窓を閉め、掃除をしてくれた風の精霊に、砂糖菓子を上げる。お礼をすれば、精霊は張り切って手伝ってくれる。
「レニ、初めて文字を覚えるなら、この〈蜂蜜色の本〉のシリーズが良いよ」
蜂の巣状の本棚の下の方にある、蜂蜜色をした装丁の本をヴェスパは示した。
「わあ、綺麗! 蜂蜜の色だ!」
「ここの本は全部、リグハーヴスの〈Langue de chat〉っていうルリユールで作られた本だよ。あ、説話集と聖書も置いてあるけど、表紙はイシュカが装丁しているよ」
「イシュカ?」
「〈Langue de chat〉の親方だよ。孝宏もそうだけど、その内に会えるよ」
「わう。……おいしょ」
レニは頷きながら、蜂蜜色をした本を一冊棚から抜いた。
「〈蜂蜜色の本〉は文字の勉強の本だよ。短いお話も載ってる。その本を持っておいで」
本を抱えたレニと共に、ヴェスパはカウンターの内側に戻った。
「まずは、レニのカードを作らないとね」
登録者名簿の〈L〉ノートを開き、〈Leni〉と記入する。在籍地や種族を記入してから、カードを作る魔道具に活字を並べて、半透明のカードを置いてレバーを倒す。カコンと軽い音を立ててレバーを戻せば、カードに〈Leni〉という文字が打ち込まれていた。
「ここは貸本屋なんだ。これがレニのカード。本を貸出す時に必要になる。客が本を借りている間は、裏表紙のポケットの中にカードを入れておかないと、本が開けないんだ。本を借りに来る時も、このカードを持って来てもらう」
箱馬車の住人になっているレニの場合は、カードは関係なく本が読めるのだが、貸し出しの流れを教える為に、カードを裏表紙のポケットに差し込む。
「ここの本は銅貨三枚で二週間貸し出している。移動貸本屋だから、貸出期間が過ぎたら、自動的に本はここに戻って来るようになっているよ」
「へえー、凄い!」
「お客さんにはお茶とクッキーを出すんだけど、元気になったらレニにも手伝ってもらおうかな」
「レニやる!」
ふんす、とレニが前肢を握る。
「あとね、ここの缶は焼き菓子が入っていて、これも売っているんだ。小さい缶が半銀貨二枚で大きいのが半銀貨四枚」
カウンターの下は硝子張りの商品置き場になっていた。銀色の四角いお菓子缶や筆記具などが置かれている。
小さい缶の倍の量が大きい缶には入っている。缶の代金が入っているので、少々お高めだ。〈Langue de chat〉だと日替わりで袋売りなので安いのだが。〈Langue de chat〉の隣の図書館には、これと同じ缶入りが売っているが、お使い物として扱われているようだ。それか食べ終わった缶を小物入れに使う人もいるらしい。
このお菓子缶に比べると、子供向けの本は安く感じるが、子供の識字率を上げるために価格を低く設定しているのだ。
「ちなみにこの焼き菓子は、うちではおやつに出るから。レニのお腹の調子見て食べさせてあげるからね」
「わう!」
数日は様子を見てねと、シュネーバルに言いつけられているのである。
「あとね、こっち側は文房具……文字を書いたりする道具が売っているんだけど、この栞が魔道具になっているんだ」
ヴェスパは並んでいる栞から一枚取って、開いた本のページにあった、林檎の絵の横に書かれた文字の上に重ねた。「Apfel!」と元気な声が聞こえた。ルッツの声の栞だ。
「栞の上の部分にある刻印ごとに、声が違うんだ。文字が読めなくても声で読み上げてくれるから、解りやすいだろ?」
「わう~」
ヴェスパは栞をそのまま本に挟んで、レニに渡した。
「書く練習もいるよね。ええと、ノートとまずは鉛筆かな」
在庫の入っているカウンター背後にある抽斗を開ける。
「レニ、何色の表紙がいい?」
ノートの表紙も色んな色や柄がある。紙製のものから革製のものまでより取り見取りだ。ヴェスパは紙製の表紙のノートを色違いで取り出した。赤、青、水色、黄緑、緑、黄色、橙色、紫色、茶色、黒、白と複数の色がある。
「レニ、水色がいい」
「レニの目の色だね」
「レニ、こんな色?」
「鏡見た事ない?」
「ない」
森の奥のコボルトの家に、鏡はなかったらしい。
「バスルームに鏡があるよ。あとで見てごらん」
「わう」
鉛筆と鉛筆で書いた文字を消せる樹脂を固めたものも、水色のノートの上に乗せる。ついでに十二色の色鉛筆も。
「これに入れるか」
大きい方のお菓子缶の空き缶があったので、それにノート類をいれる。カード用の鉱石に〈レニのお道具箱〉と刻印を打って、缶の模様のない部分に埋め込む。
「はい。レニのだよ」
「有難う!」
文字を教えるヴェスパはレニの師匠のようなものなので、お金は取らない。エンデュミオンがそうだからだ。ただし、貴族や王族からの依頼ではしっかりと報酬を貰っていた。長年の宮仕えで唸る程の小金持ちだった筈なのだが、「それはそれ、これはこれ」らしい。
「お店、開けてないの、レニが居るから?」
「いや、そうじゃない。ここは北街道の休憩所なんだが、ヴェスパ達の他に旅人が泊まっていないんだ。旅人が居れば開けても良かったんだけどな」
人気のない北街道で雨天ともなれば、誰も通り掛からない。村までも距離がある。
「まあ、旅を始めてそんなに経っていないから、客も殆どいないんだが」
「貸本屋さんって、レニ初めて聞いた」
「村か街に行けば大きさに差があれど、書店があるからなあ。でも書店に行けない人も多いし、〈Langue de chat〉の本は殆ど流通していないからね」
〈Langue de chat〉はルリユールだから。ほぼ孝宏の趣味とイシュカとカチヤの装丁の習作、識字率向上の為だけの本なのだ。
「そのうち〈Honeycomb〉も知られるようになると思うよ」
「はにかむ?」
「移動貸本屋〈Honeycomb〉。この店の名前だよ」
ツィロ……熊蜂の編みぐるみ。レニの傀儡。基本的にレニの側にいる。
砂糖菓子……精霊に頼みごとをする時には欠かせないお礼。甘いものなら何でも喜ぶ。実は精霊にお礼をするのは一般的ではなく、強い魔法使い程ちゃんと精霊にお礼をしている。〈Langue de chat〉にいくと美味しいものを貰えると、精霊界隈では有名。エンデュミオンが孝宏の護身用に風の精霊を募集した時は、倍率が高かったらしい。
イシュカ・ヴァイツェア……ヴァイツェア公爵の第二位継承者だが孤児として育ちルリユールとなった、結構苦労症な人。現在が幸せなので特に何とも思っていない。イシュカに何かあったら、ヴァルブルガが怖い事をする。
〈Langue de chat〉のお菓子缶……〈Langue de chat〉の図書館か移動図書館でのみ買えるクッキー缶。数種類のクッキーが入っている。リグハーヴス公爵もお使い物に使ったりしているらしい。
移動貸本屋〈Honeycomb〉……ヴェスパとアメリの移動貸本屋兼書店。ハルドモンド銅貨三枚で二週間貸し出しは〈Langue de chat〉と同じ。孝宏の本が買えるのは〈Honeycomb〉だけかも。




