158.うっすら
三千歳草の仙界、燧乎の岩にて。
岩家守が用意してくれた桃を皮ごと丸齧りしながら、燧乎と姜芳は並んで丸岩に腰を下ろしていた。
栞太が何の挨拶もなく突如として異世界に帰ってから、一か月が経っていた。
「栞太。挨拶をしにまたこっちに姿を見せると思ったが。予想は外れたな」
「いいのではないですか?このまま姿を見せなくても。改めて別れの挨拶しに姿を見せられたら、わたくし、泣かずにいる自信はまったくありませんから。泣きながら行かないでと必死に引き留める自信しかありませんから」
「まあ、そうだな。引き留めはしないにしても、あっしも、泣いてしまうかもな」
「そうでしょう?そんな無様な仙人の姿を、栞太君にも、修行中の道士にも見せるわけにはいきませんから、これでよかったのですよ」
「姜芳。栞太をよほど気に入ったのだな」
「ええ。わたくしの癒しでした。生きていく上で欠かせない存在。ふふ、おかしいですね。栞太君とは短い、それはもうとても短い付き合いでしかないのですが、これほど心を奪われるだなんて、思いもしませんでした。けれど、絶望はしていません。不思議と。二度と会えなくても」
「姜芳。ほら。桃を食え。岩家守がたくさん用意してくれたからな。たくさん食っていけ」
燧乎は桃がたくさん積まれたお盆を乗せている平たい岩ごと持ち上げて、姜芳に近づけた。
ありがとうございます。
姜芳は礼を言って桃を一個手に取ると、果汁が零れないように少しずつ食べ続けていた。
仙界の為にと誰よりも身を削っている姜芳にもっと協力しようと思いながら、燧乎は豪快に桃を齧ると、天空を見上げて笑ったのであった。
うっすらと涙を目に張りながら。
(2024.5.9)