哲学進言:仏陀への一言
仏教僧侶を容易く語る人と言う生き物への
悲しみを込めたエゴと解釈されるであろう
文書。
昨年の収穫は東霧島の鬼さんのおかげで
大成功の南瓜の収穫であったと
思われる。それでも人と言う生き物が信頼出来ないのは
結局、一人の人にしか心と言うものがないからであろう。
多数原理の世の中じゃ、農家の作った米など仏さまは
食べぬと言う。一体幾何回と言う米が犠牲になっただろう。
それでも俺のもとに仏が来た覚えなどない。ありがたい米を
その日のうち(大安)に食べようなんて仏様は来ていない。
仏教とは何なのか…。仏に頼らねば米を作れない位
米の作り方も忘れてしまった。やはり上の者は考える
ことが違う。1人の僧侶として遺憾を隠せない。
他力本願を唱えたのも釈迦如来であろう。
俺は、釈迦如来を名乗ったが…それでも
本物の釈迦如来様は来ない。まあ、何と気の長い方だろうか。
仏教徒が束縛されて生きるのは一部の
仏教徒の間違った食の説法にある。
お釈迦様が直接教えを広めるべきである。
「僕らは命に嫌われている。」この言葉に
世の仏は理解を示さなければいけない。