誰の記憶を、消しますか?
俗に、人は二度死ぬと言われる。
一度目は、その人物の心臓が停止し、生命活動が終わった時。
二度目は、その人物のことを、誰もが忘れてしまった時。
一度目の死を、強制的に与える者たちは、既にこの現実に存在している。
いわゆる、「殺し屋」と呼ばれる者たちだ。
対照的に───二度目の死を与える者たちは、この世界では生憎確認されていない。
二度目の死を与える、つまり、特定の人物に関する記憶を、世界から抹消してしまう行為。
それが出来る人間は、今のところ居ないらしい。
もしこのことが可能な存在が居ると言うのであれば、その人物は、一種の殺人者と呼べるだろう。
上記の定義に従えば、この世の全ての人間から忘れ去られてしまった人間は、もはや生きているとは言えないのだから。
そして。
一度目の死を与えることに長けていて、それを生業とする人間が、「殺し屋」と呼ばれるように。
二度目の死を与えることに長けていて、それを生業とする人間もまた、「殺し屋」と呼ばれるべきだろう。
そんな殺し屋がいるとしたら。
その人物は、どんな「殺し」をするのだろうか?
Who’s the original?
数えるのも馬鹿らしくなるほどの穴が開いた障子。
食べるのに勇気が必要なほど、古い駄菓子。
風雨に晒され続けたせいか、傾くどころか完全に朽ちている看板。
百人が見れば、百人とも廃屋と答えるだろう。
「殺し屋」との待ち合わせ場所として言い渡された駄菓子屋は、そんな場所だった。
渡大吾は、メモ用紙と眼前の駄菓子屋、さらに周囲の光景を何度か見比べる。
だが、自分のミスが発覚することはない。
何度確かめても、この場所こそが約束の場所───駄菓子屋「勿忘草」。
「ほんとにあってんのか……?」
一度、疑念を口に出してしまう。
だが、怪しいと分かっていながら、ここまで来たのは、間違いなく自分だ。
そういった意識が、疑念を打ち消す。
仮に騙されていたとしても、それはそれで仕方がない。
そう考えながら、大吾は駄菓子屋の中に入っていった。
中に入った時、意外にも、悪臭の類はしなかった。
ただ、遠目で見た以上に、この建物は古くなっていた。
置いてある駄菓子には全てうっすらと埃が積もり、床には雨漏りの跡が点々としている。
奥に目をやれば、母屋の入口と思しき障子があったが、これもまた穴だらけになっている。
とても、人が住んでいるようには思えない。
経営に苦しみ、店主が商品を置いたまま夜逃げした、駄菓子屋の残骸。
大吾の「勿忘草」に対する第一印象は、そんなところだった。
大吾は一瞬、このまま帰ろうか、と思考する。
どう考えても、ここに人がいるとは思えない。
やはりあれは、新手のいたずら電話だったのだろう。
「殺し屋」のことはすっぱりと忘れて、また音楽の生活に戻った方が、はるかに健康的だ。
だが、ここに来るまでに、大吾はそれなりの覚悟を決めてきている。
友人知人の間を歩き回り、「殺し屋」が言うところの金額だって集めた。
ここまで来て、何もせずに帰ってしまっては、大きな後悔に襲われる気もする。
そういった意地が、大吾に帰らせることを躊躇わせていた。
「すいませーん……」
一応、と言った感じで、母屋の方向に向かって呼びかける。
もっと大声でもいいとは思うのだが、自分がここに来た目的を考えれば、やはり大きな声を出すことはできなかった。
結果、中途半端な音量で、穴だらけの障子に声をかける。
期待と同じくらい、諦めの念も強い呼びかけだったのだが──。
大吾の眼前でガラリと障子が開け放たれるまで、一秒もかからなかった。
「渡大吾さんですね?」
甲高い、少年のような声で。
「殺し屋」は、大吾を招き入れた。
促されるままに、大吾は茶の間で正座をする。
それを見届けてから、「殺し屋」も大吾の真向かいで正座をした。
ようやく注視できた彼の姿を見て、しばし大吾は奇妙な感覚を覚える。
顔には、安っぽいキツネのお面。
服装は、紺色の作務衣。
体つきからして男性のようだが、ひどく小柄だ。
─昭和のドラマに出てくる子役みたいだな……。夏祭りとかの場面の。
実際には、昭和のドラマを見たことなどないのだが、なぜかそのような感想が浮かんできた。
「殺し屋」はそのくらいに──現代では忘れ去られたようなものばかり身に着けていた。
ふと、大吾は首を回し、茶の間の様子を観察する。
部屋の隅には、ブラウン管のテレビが転がり。
大吾の眼前には、卓袱台が置いてある。
部屋全体が、五十年くらい前からタイムスリップでもしてきたかのような様子だった。
「では、自己紹介でもしましょうか……」
不意に、「殺し屋」が口を開いた。
相変わらず、甲高い声で。
その声に気を取られているうちに、彼はどこからともなく一枚の紙を取り出す。
「僕は、こういうものです」
そのまま、営業中のサラリーマンのように、深々とお辞儀して名刺を差し出す。
大吾は呆気にとられたが、反射的にそれを受け取って眺めてみる。
「……世界保健機構?」
内容をそのまま口に出すと、「殺し屋」はタハハ、と笑った。
「一種の洒落ですよ……。ほら、世界保健機構って、略称がWHOでしょ?」
WHO……すなわち、「Who?(誰だろう?)」。
確かに、自己紹介としてこれを持ち出すのは、ある種のジョークだ。
「名前は、教えてくれな、いえ、教えてくだされないんですか?」
一瞬、敬語を使うべきか否か迷ったが、結局敬語で問いかける。
噂が本当なら、この人物は自分の運命を変えるかもしれない人物だ。
できるだけ、機嫌は取っておきたい。
「まあ、僕は既に名前が忘れ去られているので……」
「あなたの、能力で、ですか?」
「はい」
何でもないことのように、「殺し屋」は軽く頷く。
その様子を見て、大吾は静かに興奮した。
やはり、この人物は噂通り──。
「そういうわけで、僕が名前を言っても、あなたは記憶できません。ですから、名刺通り、WHOとでも呼んでください」
大吾の反応を無視して、「殺し屋」、否、WHOはさらりと告げた。
そしてそのまま、大吾に電話口で尋ねたことを、もう一度口に出した。
「それで、誰の記憶を、誰から消しますか?」
この時にはもう、大吾の中からは、何故だか、WHOへの疑心は消えていた。
騙されているのではないか、という懸念も。
だから、つばを飲み込みながらも、大吾はその言葉を告げた。
「木場真一……。彼に関する記憶を、世界中の人間から消してください」
現代の日本で、木場真一というミュージシャンを知らない者はいない。
特に音楽に興味が無くても、だ。
彼の出す新曲は、まず間違いなくオリコンのトップ。
十年ほど前に出したデビュー曲は、数々の賞を獲得し、海外でもファンが多い。
動画サイトにMVをアップすれば、閲覧数が多すぎて回線が壊れる。
最近では、オリンピックの開会式にメイン格で参加した。
元々は路上ライブをやっていた人物だということもあって、彼に影響され、ストリートミュージシャンが一気に増えたほどだ。
大吾も、彼に影響されたものの一人だ。
初めて彼の音楽を聴いた時の衝撃は、言葉では言い表せられない。
高校の帰りに、ふと訪れたCDショップ。
そこでBGMとしてかかっていた、彼のデビュー曲を聞いた次の瞬間には、店員に曲名を聞いていた。
自分の本能が、この曲を聞きたい、と叫んだのだ。
それまで、大吾は音楽に興味がある人間ではなかった。
流行っているなら、ちょっと動画サイトで聞いてみるか、と思う程度である。
だが、木場真一の音楽は、大吾の価値観を一気に崩壊させた。
家に帰ってから、彼の曲を何度も聞いた。
母親が夕食に呼ぶまで、時間の感覚を忘れるほどに。
その音楽に夢中になった。
すぐに、ネットで名前を調べた。
まだメジャーデビューしたばかりの新人だと知って、衝撃を覚えた。
こんなに素晴らしい音楽が、まだ世間で評価を受けていないのか、と。
間違っている、とすら思った。
だが、ネットで木場真一を調べると、幾つか個人のブログが見つかった。
内容は全て、路上ライブの感想。
たまたま、木場真一が路上で演奏しているのを見かけた人物が、その感動をブログに綴ったのだ。
どのブログも、腕前をプロ並み、いやそれ以上だと評価していた。
それを見て、まるで自分が褒められたかのような気持ちになったことは、よく覚えている。
大吾が木場真一の追っかけを始めるのに、時間はかからなかった。
彼のSNSを逐一チェックし、出待ちやファンレターは当たり前。
勝手にファンサイトまで立ち上げた。
同時に──他の音楽も、この頃に聞き始めた。
どれも、木場真一には劣っているように感じられたが、それでも良い曲は多かった。
もう、音楽に興味がない時期の自分とは決別していた。
音楽って、こんなにも楽しいのか。
そう思えるようになっていた。
だから。
大吾自身が音楽を始めた時期もまた、早かった。
初めて木場真一の音楽を聴いてから、半年も経っていなかったと思う。
自分で言うのもなんだが、決して渡大吾という人間は、音楽の才能がない人間、というわけではなかったのだと思う。
むしろ、世間一般の人間と比べれば、才能がある方だったのかもしれない。
本屋で買ってきたギターに関する本と、図書館にあった作曲の本。
そして、友人から借りたギター。
これらで自主練を繰り返すだけで、友人たちの間でも、「結構うまい」と言われるレベルになったのだから。
最初は、木場真一の曲を弾いて。
次第に、自分でも曲を作り出す。
買うだけの金はなかったので、音楽系の本が充実している図書館を探し、せっせと通っていた。
大変ではあったが、何もかもが楽しかった。
それから、もう少し時間を経て。
学校の文化祭でギターを披露し、周囲に絶賛された時。
大吾は調子に乗った。
若き日の木場真一の真似をして、路上で弾き語りを始めたのだ。
このころから、本気でプロになりたい、と考え始めたのだと思う。
自分の音楽で認められて、木場真一の隣に立ちたい。
ただのファンではなく、彼と並びたてるようなミュージシャンになりたい。
傲慢にも、そう感じ始めたのだ。
だが、他にも大勢いる、木場真一に感化された者たちに混ざって、弾き語りをした結果は、芳しいものではなかった。
自分が下手だった、というわけではない。
むしろ、この中でも、自分はやっていける、と自信を持ったほどだ。
立ち止まって聞いてくれた観客たちも、だいたいは大吾のことを褒めてくれた。
だが、同時に。
大吾の曲を聞いてくれた人たちは、口を揃えてこう言葉を続けた。
「木場真一みたいな感じで、聞きやすいですね」
その時から、何度も大吾に投げかけられる言葉だった。
勇気を出して参加した、一般参加のコンクールでも、審査員に言われた。
「木場真一のコピーだな。腕はいいけど、もろパクリでは、ね」
路上で弾いているうちにできた、数少ないファンにも言われた。
「私、木場真一の曲が好きだから、大吾さんの曲も好きなんです!」
何よりも、多少はミュージシャンとして成長するたびに、自分自身がそう感じていた。
俺の曲って、木場真一の劣化品じゃん、と。
盗作をしているわけではない。
意図的に似せているわけでもない。
ただ、自然に似てしまうのだ。
大吾のオリジナル曲が、木場真一の曲調に、似てしまう。
ある意味で、これは当然のことだった。
何しろ、どんなミュージシャンの曲を聞いても、木場真一の方が優れている、と思うほどに、大吾は彼にのめりこんでいたのだ。
当然、大吾が弾きたいと思う、素晴らしいと思える音楽は、木場真一のそれに非常に近くなる。
どれほど、違う曲を作ろうと思っても。
どれほど、曲調を変えてみても。
結局は小手先の変化で終わり、出来上がるのは木場真一のコピー曲ばかり。
そのコピー曲を、木場真一の新曲と聞き比べてみれば。
やはり、偽物の悲しさか、木場真一の方が素晴らしいと、すぐにわかってしまう。
自分のオリジナル曲に対して、当然強い思いを持っている、大吾本人がそう思うのだから、世間の反応など、推して知るべしだろう。
むしろ、木場真一の曲調から離れようとするたびに、大吾の評価は下がって。
開き直って彼の曲の真似をした時の方が、評価が上がるくらいだった。
ここまでくれば、認めざるを得なかった。
ミュージシャンの渡大吾は、木場真一の劣化品なのだ。
自分がどれだけ頑張っても、きっと、逃れられない。
気が付けば、音楽を始めてからも続けていた、木場真一の追っかけをやることはなくなっていた。
彼がテレビに出ているのを見ると、すぐに画面を消した。
持っていた彼のCDは、すべて売った。
何とか、自分の中から、彼の存在を消したかった。
そうでもしないと、本当の意味でのオリジナル曲が作れないことを、わかっていたのだ。
だが、それでも、大吾の中から、木場真一の音楽は消えなかった。
大吾の中では、もう、木場真一のファンとしての気持ちは失せ、自分の音楽で売れたい、という気持ちの方が強くなっていた。
ある意味で、それほどにまで、大吾は音楽を好きになっていたともいえる。
だが、木場真一がいる限り、大吾のやることは全て、彼の猿真似に過ぎない。
だから──。
大吾の長々とした説明を、WHOはふんふんと、頷きながら聞いていた。
そして、一つ質問をした。
「記憶を消す相手は、世界中の人間、ということでいいんですね?高くなりますよ?」
「……はい」
「あなたの頭の中から、木場真一に関する記憶だけを消すことも、可能ですが?」
「いえ、それでは意味がないんです」
我知らず、語調が強くなっていた。
だが、大吾としては、これは譲れないことだった。
悔しいことだが、大吾が音楽を始めたきっかけは、間違いなく木場真一だ。
彼の音楽を聴かなければ、大吾は音楽に対して無関心なままだっただろう。
故に、仮に大吾の記憶から木場真一を消してしまえば、おそらく大吾は、ミュージシャンになる夢を捨ててしまう。
もはや、なる理由が存在しないからだ。
それでは、自分の望みは叶わない。
「俺は……俺の曲を、本当の意味でオリジナルにしたいんです」
いつの間にか、大吾は再び口を開いていた。
「噂で聞きました……あなたは、お金さえ払えば、世界中の人物から記憶を消せると」
「そうですね」
「……記憶を消されると、どういう状態になるんですか?」
「どういう状態も何も、世界中の人間がその人のことを忘れるんだから、この世界は『その人物が存在しなかった世界』に変化します。戸籍の類も、保管することを忘れ去られますからね。社会的に死ぬ、と言ってもいいでしょう」
中々に恐ろしい内容を、WHOは朗読でもするかのような勢いで語っていく。
その姿に少し気圧されながらも、歯を食いしばって、大吾は質問を続ける。
「……その人物が残した業績も、忘れ去られますか?」
「はい。ですので、あなたの場合は、木場真一が一曲も発表しなかったってことになりますね」
「……記憶消去から、俺だけを除くっていうのも、できますか?」
「もちろん」
WHOの言葉を受けて、大吾はグッと拳を握り締める。
この言葉が聞きたかったのだ。
「では、世界中の人間から木場真一の記憶を消して、俺だけ記憶を消さなかった場合……世界で俺だけが、木場真一の音楽や曲調を知っている人間になるってことですね?」
「そうですね。木場真一本人からも、自分自身に関する記憶が消え、記憶喪失者になりますし」
「つまり、その世界で木場真一の音楽を、俺が発表した場合……」
「あなたの新曲、ということになりますね。誰も知らない曲なんですから」
WHOからは、次々と大吾の望む回答が返ってくる。
それだけでも、大吾は興奮で気が狂いそうになるほどだった。
ついに。
ついに、なれるのだ。
自分こそが、オリジナルに。
木場真一に関する記憶が失われた世界で、彼の曲を発表しても、盗作だと言われることはない。
誰も、木場真一のことを知らないのだから。
そしてまた、大吾自身が作ったオリジナル曲もまた、木場真一に似ている、などとは言われない。
周りの人間からすれば、大吾自身が、少し雰囲気を変えた曲を作ったな、と思われるだけだ。
WHOの噂を聞いた時から、考えていたことだった。
それが、いま、叶えられそうになっている。
後の問題は、支払いだけだが──。
「それで、その、料金は、本当に……」
「はい、三百万円です」
数日前、電話で伝えられたのと同額の値を、WHOが告げた。
三百万。
高いような、安いような、奇妙な金額だった。
大吾にとっては、三百万は大金だ。
実際、友人から借りるのにはかなり苦労した。
それでも足りずに、二十万円分は消費者金融の手を借りている。
だが、三百万という金額は、それこそ、木場真一からすれば月収にも満たない金額だろう。
彼の存在を世界中から消し去ろう、という話だというのに、安すぎる気もする。
「意外と安いって顔してますね」
まさに考えていたことを、WHOが鋭く突いた。
恐る恐る、大吾は頷いてしまう。
「これでも、結構高い方ですよ。木場真一は、結構な人間がその存在を知っていますからね」
「じゃあ、普通の人間は、もっと安いんですか?」
「言っちゃ悪いんですけど、ほとんどタダみたいな人もいるんですよ。あんまり他人に記憶されていない人間ほど、安くなります。この料金、消す方の手間で値段が変わるんで。……人間の記憶の値段なんて、そんなもんです」
へえ、と大吾は意外な心境になりながら相槌を打つ。
特に根拠があるわけでもないのだが、世界中の人の記憶を奪い、人一人を消そうというのだから、もっと大金が必要なのだと思い込んでいた。
だが、例えば、自分自身について考えてみるのならば。
この渡大吾という人間を、記憶に留めるほどにまで知っている人間が、いったいどれほどいるだろう?
音楽の道を志して以来、勘当されている両親。
その親戚。
少ない友人や、知人。
同様に少ないファン。
そして多分、目の前にいるWHO。
よく考えてみると、コンビニの店員だとか、学生時代の友人だとかいった、自分が消えても、自分のことを思い返しそうもない人間を除外すれば。
自分を知っている人間、というのは、本当に少ない。
総勢、五十人くらいか。
その五十人の記憶を奪うだけで、渡大吾という存在は、ほぼ世界から消え去った状態になるのだ。
そこまで思い至ったからこそ、大吾は、ある質問を口に出さずに飲み込んだ。
「仮に、俺に関する記憶を世界中から消すのだとしたら、いくらになりますか?」という質問を。
タダどころか、哀れんで金を恵んでくるかもしれない。
「さて、もういいですか?」
WHOが、会話を切り上げてくる。
大吾としても、聞きたいことは聞けたため、断る理由はない。
「よろしくお願いします」
そう言って、ここに来る前、WHOが用意するように言ってきたものを差し出す。
かつて、追っかけをしていた頃の遺産である、木場真一の写真。
全部捨てたと思っていたのだが、引き出しの中に残っていたのだ。
「はい、確かに。……では」
そう告げると、WHOは再び、どこからともなく────拳銃を取り出した。
テレビでよく見る、リボルバー式の拳銃。
一秒前まで何も無かった右手にそれが現れたこともそうだが、このノスタルジーに肩まで浸った古風な空間に現れた拳銃の異質さに驚いて、大吾は目を丸くする。
だが、そんな大吾のことは無視して、WHOは淡々と自分の仕事をこなした。
「では、あなたを除いて、世界中の人間から、木場真一に関する全ての記憶を消し去ります」
「レーテ」
ぼそりと呟くと同時に、WHOは木場真一の写真を宙に放り投げ、流れるように引き金を引く。
酷く慣れた手つきだった。
こういう風にして、何人の記憶を消してきたのだろう。
大吾の思考をよそに、WHOの放った弾丸は、正確に写真を撃ち抜いた。
この日、木場真一は、一度目の死を迎えることなく、二度目の死を迎えた。
「……どうも、ありがとうございました」
「いえ、こちらも仕事ですので」
律儀に三百万を一枚ずつ数えているWHOを見ながら、大吾はお礼を言う。
既に、自身のスマートフォンを見て、その効果は確認していた。
まずは、インターネットで「木場真一」と検索。
出てきたのは、姓名判断のサイトと、たまたま同姓同名だったと思われる人物のSNS、あるいはブログ。
続いて、動画サイトに「木場真一」と打ち込む。
普段なら、再生数が十億を超えるMVがすぐに出てくるのだが、表示されたのは十件程度。
ほとんどが、たまたま名前の一部が被った、動画配信者の物だった。
間違いない。
木場真一のことを、誰もが忘れている。
「一応言っておきますけど、歴史が変わったんじゃなくて、あくまで彼のことを皆が忘れただけです。インターネットや動画サイトの方は、登録されてない─コンピュータの方が登録されたことを忘れているので─人物が動画をアップしているということで、運営が消したんでしょう。どこかで木場真一の記録がひょっこり出てくることは有り得なくもないので、注意しておいてくださいね」
「いえ、十分です。これで、俺はやっと、オリジナル曲を歌えます」
感無量、と言った形で、大吾は声を震わせた。
これからの自分について考えるだけで、笑みが抑えられない。
「ところで、一つ聞いてもいいですか?」
お札を数え終わったWHOが、何気ない様子で疑問の声をあげる。
大吾は、いぶかしく思いながらもこれに応じた。
「何ですか?」
「うちへの連絡先を。誰に聞いたんですか?」
「あー、音楽仲間ですけど」
大吾と同様に、木場真一に憧れて弾き語りを始めた、と言っていた人物の一人だ。
当然と言うべきか、大吾とは、曲調も、音楽に対する考え方も似ていた。
その人物と飲んでいた時、酔っぱらったまま連絡先を教えてくれたのだ。
「殺し屋」の噂と共に。
今思えば、あの人物は大吾の恩人だ。
できれば、また会ってお礼がしたい。
尤も、木場真一が消えた今、彼が音楽を志しているかどうかは分からず、もう一度会えるかは怪しいが……。
「へえ、音楽仲間……。もしかしてですけど、木場真一のファンですか?」
「そうでしたけど、何か?」
「いえ。ですが、面白いな、と」
大吾は、その言葉が意味することは、よく分からなかった。
ただ、なぜか、その言葉を聞いた瞬間。
WHOが身に着けているキツネのお面が、確かに笑ったように思われた。
「勿忘草」からの帰り道。
心臓を高鳴らしつつ、大吾はいつもの広場に行く。
普段から、大吾のような、ミュージシャンに憧れる者たちが弾き語りをしている場所だ。
本来なら条例違反らしいが、もはや警察も取り締まりを諦めている。
久しぶり、ということもあったが、そこは人通りが少ない気がした。
いや、実際に人通りは少ないのだろう。
ストリートミュージシャンの数が増えていたのは、木場真一の影響力があったからこそ。
木場真一が忘れ去られたこの世界では、流行していないのだ。
大吾にとっては、好都合だ。
自分のオンリーワン性を、効率よく示せる。
数名の、木場真一に関係なく音楽を好きになったのだと思われるストリートミュージシャンたちに会釈をし、大吾はギターを取り出す。
最初に引く曲は、少し迷った。
だが、大吾とてできれば早く売れたい。
結局は、多くの人に受け入れられることが、既に分かっている曲を選択した。
だから、大吾は一気呵成に────木場真一のデビュー曲を弾き始めた。
一度は、親の仇のように憎んだこの曲。
だが、ギターを手に入れてから初めて弾いた曲ということもあり、指が覚えている。
通行人たちが一斉に振り返ったのが、目をつぶっていても分かった。
それから、十年。
「あ、来ました!大吾さんです」
リムジンの扉を通しても尚響いてくる喧騒を受けて、大吾は煩わしそうに目を開いた。
窓越しに目的地付近の光景を流し見し、ついでに運転手をじろりと睨む。
老齢の運転手は、怯えた様子で言い訳を述べた。
「すいません、どうもマスコミにスケジュールがばれてしまったようで……」
その言葉を聞き終わる前に、大吾はこれ見よがしに舌打ちをした。
二か月前に事務所が寄越した運転手だが、どうも気が利かない。
次にマネージャーに会ったら、変えるように言い含めておこう。
予想通りというべきか、大吾を乗せたリムジンは、マスコミたちが立ち込める、レコード会社の入口に辿り着いてしまった。
リムジンのドアからレコード会社の入口まで、直線距離で二十メートルもない。
だが、そのわずかな距離に百人を超えるマスコミの人間が敷き詰められていた。
全員、大吾のことを追いかけまわしている、芸能部の記者だろう。
運転手はまだ言い訳を並べていたが、ここまで来て遠回りするのも馬鹿らしい。
大吾は一つため息をつくと、ギターケースとカバンを抱え、扉を開いた。
途端に、冬にもかかわらず、異様な熱気が大吾を襲った。
集まったマスコミたちの体温が、周囲の空気を温めているらしい。
「大吾さん、一言コメントを!」
「大吾さんが楽曲を提供した映画について、何か!」
「今度、ハリウッドでミュージカルをやるというのは本当ですか?」
「女優の茜ミサとの熱愛報道は?」
「先日、かつて付き合っていたという、グラビアアイドルが談話を発表しましたが……」
「ファンの女性と関係を持ったという話もありますが、どうですか?」
「このたび、マンションをご購入なさったようですね。これで何軒目ですか?」
「今度出したCDについてコメントを!」
「ドキュメンタリー映画を作成するという話は、事実なのでしょうか?」
「先日出版なされた自伝、ゴーストライターによるものとの話がありますが……」
大吾が聞き取れただけでも、これだけが。
音に圧倒され、聞き取れなかったものまで含めたら、相当な数の質問がなされたのだろう。
だが、大吾が言える言葉は、一つだけだ。
大吾は、一つ鼻を鳴らして、それを告げた。
「ノーコメント!」
そのまま、マスコミの集団をかき分け、入り口まで走る。
路地を覆いつくしていたマスコミだが、大吾の動きを止めることはなかった。
三年前、大吾の腕を強く引っ張り、捻挫させた記者がいた。
二日もすれば治る怪我だったが、その記者は次の日、暴漢に襲われた。
犯人は、大吾の狂信的なファン。
まず間違いなく、大吾がSNSでその人物に怪我を負わされた、と発信したことが原因だった。
結局、その記者が所属していた出版社は潰れてしまった。
それ以来、記者たちは、大吾に付きまといはしても、触りはしない。
大吾としては、最高の気分だった。
自分が歩くたびに、マスコミが二つの塊に分けられていく。
まるでモーゼの逸話を再現しているかのようだ。
全て、十年前にWHOに頼んだおかげだ。
あの日から、大吾はオリジナルになれた。
いつもの広場で、木場真一のデビュー曲を弾いてから。
大吾がプロデビューをするまでは、そんなに長くかからなかった。
誰もが、大吾の音楽は独創的だ、前例がない、と言って褒め称えた。
なぜ今まで、大吾が評価されなかったのか分からない、とも。
思うところが、無いわけでもない。
だが、売れたいという気持ちの方が強かった。
だから、大吾は記憶に残っている限りの、木場真一の曲を復元し、発表した。
木場真一の曲が持つ力は、凄まじいものがあった。
たった数回のライブで、とんでもない数のファンができていく。
動画サイトに遊びで曲をアップしたところ、コメントが爆発的に増えすぎて規制されたほどだ。
大吾自身の真のオリジナル曲もまた、すんなりと受け入れられた。
疑問を呈する声すら上がらなかった。
ネームバリューもあってか、木場真一の曲よりも売れたシングルだってある。
日本を代表するアーティスト。
期待の新星。
百年に一人の逸材。
大吾を称える表現は、これでも足りなかった。
資産も、びっくりするほどの勢いで増えていった。
もはや、欲しいものはいくらでも手に入る。
WHOに依頼するときにした借金など、三倍にして返した。
ただ、大吾は一つだけ懸念があった。
WHOのことだ。
年末に行われた歌合戦でトリを務めた際、大吾は上機嫌になって、WHOに連絡を取った。
まだ、連絡先を覚えていたのだ。
思えば、自分の人生は、全て彼の不思議な力のおかげだ。
あの時は三百万しか払えなかったが、いまならその十倍でも十分払える。
ささやかにお礼と行こうじゃないか──。
そんな思いでかけた電話だったが、なぜか繋がらなかった。
いや、正確に言えば、繋がることは繋がるのだが、何時も話し中なのだ。
何度、やり直しても。
これに付随して、大吾は一つ妙な現象に直面した。
WHOへの連絡先に関する記憶が、どうしても消えないのだ。
印象的な出来事であったとはいえ、なぜか、何年たっても、連絡先をすらすらと暗唱できる。
あの「勿忘草」とか言う、駄菓子屋の住所もそうだ。
メモ用紙も捨ててしまったというのに、それらは不自然に強く、記憶に残った。
仮に大吾が記憶喪失になっても、これだけは忘れないだろう──そう断言できるほどにまで、定着していた。
不思議ではあったが、やがて大吾は諦めた。
もしかすると、依頼人とは一度しか会わない主義なのかもしれない。
第一、元々理屈で説明できない物の塊のような存在だ。合理性を求めるべきではないだろう。
記憶の定着とて、不思議ではあるが、実害はない。
ただ────。
大吾は、かつて自分に連絡先を教えてくれた人物のような、WHOへの連絡先を他人に教えるような真似は、決してしなかった。
自分の成功に嫉妬した馬鹿に、自分に関する記憶を消されてはたまらない。
十年前のことを思い出しながら、適当に打ち合わせを終わらせる。
そのまま、レコード会社の裏口から、大吾は外に出た。
「お疲れ様です、大吾さん!」
聞きなれた声が耳朶を打つ。
顔を上げてみると、見慣れた出待ちのファンたちが裏口の前に控えていた。
どうやら、入り口でのマスコミ関係者の動きから、動きの速いファンたちが待機していたらしい。
その先頭にいる人物は、大吾としてもよく知る人物だった。
大吾がプロデビューしてすぐの頃から追っかけをしている、古参の女性ファンである。
ファンレターも、腐るほど渡された。確か、名前は……。
「ありがとう、桐生朱里さん?」
うろ覚えの名前だったが、合っていたらしく、彼女の頬が一気に紅潮した。
「覚えてくださったんですか!ありがとうございます!」
そのまま、また手紙が入っているのであろう、プレゼントを渡してくる。
彼女の後ろに控えた、別のファンたちがそれに続く。
どのプレゼントも、今の大吾からすれば、使い道のないゴミばかりだったが、一応笑顔で受け取っておく。
このような立場にまで上り詰めても、やはり炎上は怖い。
そこで、ふと、大吾は桐生朱里がギターケースを背負っていることに気が付いた。
もしかすると、彼女もまた、大吾に憧れて音楽を始めたのかもしれない。
かつて、大吾が木場真一に憧れて音楽の道に進んだのと同様に、最近、そういう若者が増えている。
大吾が通っていたあの広場に至っては、ストリートミュージシャンの聖地になっているらしい。
その光景を見るたびに、大吾は得も言われぬ満足感を覚える。
かつて、自分は木場真一の劣化品だった。
だが、今は違う。
今は、他のストリートミュージシャンたちこそが、自分の劣化品なのだ。
隠しきれぬ笑みを浮かべたまま、大吾は待機させてある車へと向かった。
その声が聞こえたのは、大吾がマンションの入り口に入ろうとした時だ。
「何か、くれませんか……」
年配の男性を思わせる嗄れ声と、プン、と漂う悪臭。
顔をしかめて振り返れば、普段このマンションでは見かけないような光景があった。
端的に言えば、ホームレスが手を突き出しているのである。
見かけは汚れすぎていてよく分からないが、五十代くらいだろうか。
垢のついた服と、伸ばし放題の髭が、大吾に生理的な嫌悪感を抱かせる。
普段、マンションの敷地内にこのような人物は見られない。
管理人の隙をついて、中に入り込んだのだろうか。
以前の世界ならいざ知らず、現在では、大吾が絶対に関わることのないタイプの人間だ。
自然、口がとがる。
「あのねえ、警察呼びますよ。さっさと帰ってください」
「そう言わずに……」
諦め悪く、ホームレスが近寄って来る。
恐らく、大吾のことは知らないが、金持ちそうな服装につられたのだろう。
強く怒鳴ろうと思って、息を吸い込んだ時。
大吾は、ふとホームレスの目を見た。
そして、声を漏らす。
「…………木場真一?」
「へ?」
ホームレスが、否、かつて木場真一と呼ばれていた男性が、間抜けそうな声を漏らした。
大吾の反応は速かった。
即座に胸ポケットから財布を取り出し、三万円ほど掴んで地面に投げる。
途端に木場真一は笑顔になり、ペコペコしながら一万円札を拾い始めた。
だが、大吾にそれを見ている余裕はない。
大吾はすぐに踵を返して、マンションのエレベーターへと全力疾走する。
木場真一が何か言っていた気もしたが、よく聞こえなかった。
エレベーターの箱に入り、大吾はようやくゼイゼイと喉を鳴らして、呼吸を再開した。
若い頃ならいざ知らず、四十に手が届きそうな現在では、急な運動も辛い。
図らずも、自分の老いが自覚される形となった。
だが、今の大吾にとって、そんなことはどうでもよかった。
重要なのは……。
「木場真一、だよな。間違いなく……」
家がタワーマンションの最上階にあるため、エレベーターの動く時間も長くつく。
その時間を利用して、大吾は気持ちを整理させた。
自分の脳内を、一度総ざらいする。
だが、かつてファンだっただけあって、すぐに記憶が推測に正解を告げる。
あのホームレスは。間違いなく木場真一だと。
確か、彼は十年前の時点で──大吾が彼の存在を消した時点で、三十五歳。
現在は四十五歳ということになる。
それにしてはやけに老けて見えたが、路上生活の苦労も考えれば、あんなものだろう。
「まさか、ホームレスになってるとは……」
WHOに依頼した瞬間から、予期していたことではあった。
すべての記憶を奪われた木場真一は、碌な生活は送れないだろう、と。
何しろ、周りの人間は誰も自分のことを知らず、本人も、自分が誰なのか思い出せないのだ。
周囲からすれば、なぜか金目の物を多く身に着けている不審者、ということになる。
かなりの資産があったはずだが、暗証番号すらいえないのだから、引き出せるはずもない。
家だって追い出されたはずだ。大家からすれば、契約もせずに住み着いている人物にしか見えない上、本人もなぜその場所に住めているのか分からない。
それでも、警察にでも保護されているだろう、と考えていたのだが。
「まさか、オリンピックの開会式までやっていた人が、ホームレスとはな……」
知らず、口からその言葉はこぼれていた。
心の中で、大吾の良心とでもいうべきものが、じわじわと大吾を攻撃する。
お前のせいだ。
お前が彼の全てを奪ったんだ。
彼は本当なら、もっと幸せになれる人間だったんだ。
お前が彼の音楽に魅せられて音楽を始めたように、多くの人間に影響を与えられる、そんな存在だったんだ。
それが、今ああなっているのは、お前の──。
「違う!」
エレベーターの中で、大吾は吼える。
「彼が居たら、俺はいつまでも、オリジナルにはなれなかった!いつまでたっても、彼の影を追いかけているだけの、偽物だったんだ!だから……、だから、仕方ないじゃないか!」
しかし、大吾の中にいるもう一人の大吾は、その言葉をせせら笑う。
仕方ない?人の存在を消しておいて?
それも、下らない嫉妬が発端だぞ?
お前は俺だ。本当は、気づいているんだろう?
例えばお前は、WHOへの連絡先を、誰にも教えていないな?
ほら、お前にも分かっているんじゃないか。自分のやったことが、許されがたいことだと。
自分に関する記憶が誰かに消されたくないと思っているからこそ、誰にも連絡先を教えていないんだ。
あんなに、くっきり残っている記憶なのにな。
自分のしたことが、仕方のないことだと思っているのなら、そんなにびくびくしなくてもいいはずだ。
認めろよ。
お前の行動自体が、お前が悪事を働いたと証明しているんだよ。
「だけど……だったら、どうすればよかったんだよ。俺が、音楽の道に進んで、幸せになるには、あれしか無かっただろ!?俺みたいな、他人の音楽に憧れる人間は、幸せになっちゃいけないって言うのかよ?」
逆に聞くぞ。今お前は幸せか?
売れるたびに、夜なんか寝苦しくなっているよな?
盗作だと分かっているからだ。
突然元の世界に戻ってしまう夢を見て、飛び起きたことだって、一度や二度じゃないはずだ。
まだあるぞ。
大きな仕事を受けるたびに、内心では泣きそうなほど怖がっているよな?
自分のメッキが剥がれないか、常に心配しているんだ。
所詮、お前は借り物の力で有名になった人間だからな。
もっと言えば、お前は著作権関係にやたら厳しいな?
盗作の類には特に敏感だ。
ネットにアップされた音源を、一つずつ訴えているよな?
恐れているんだろう?
木場真一の音源が見つかることを。
こっちの弾き方の方が優れている、と言われることを。
WHOがやってくれたことは、あくまで記憶消去。
歴史改変じゃない。
すべての人間が木場真一のことを忘れても、彼が出したCDや、ネットに残したデータは、残ってしまう。
まあ、ほとんどが意味のないデータとして削除されるか、お前のCDの海賊版だと思われて、捨てられているらしいがな。
しかし、皮肉だよな。
盗作で有名なミュージシャンになったお前が、盗作に人一倍厳しいミュージシャンになるなんてな!
「おれは、俺は、好きな音楽ができて、幸せだ!これの何が悪い?」
例えどれほど時間がかかっても、音楽で幸せになりたいんだったら、もっと努力するべきだった。
必死に練習して、木場真一の影響を排除するもよし。
腕はあるんだから、作曲の方は諦めて、音楽に対して別の関わり方を探すのもよし。
あるいは開き直って、木場真一のフォロワーだと言い張って、売り込みをかけていく、なんて道もある。
成功するかどうかは知らないが、それらは真っ当な努力だ。
お前は、それをしなかった。
分かってるんだろ?
お前、多分世界で一番不幸なミュージシャンだぞ?
どんなミュージシャンも、自分の音楽に悩みながらも、それでも自分の感性を信じて、前に進む。
お前、それすら持ってないだろ。
やってることは、猿真似以下の大道芸。
ただの歩く録音機だもんなあ?
「うるさい、うるさい!」
ちょうど、そこでエレベーターが扉を開けた。
転がり込むようにして外に出て、大吾は家へと駆けだす。
内なる声から逃れるように。
震える手で鍵を開け、玄関にまで来ると、ようやく少しは落ち着いた。
手間取りながらも鍵を閉め、大きく息を吐く。
そして、鍵を玄関わきに置いてある台に置こうとして──。
小さな紙が落ちてあることに気が付いた。
「世界保健機構……」
WHO、という名前が出るには、少しかかった。
あの時、木場真一の記憶を消し去る時、受け取った名刺だ。
それが何故か、玄関にある。
あれから、何度も引っ越して、いつの間にか失くしていたというのに。
反射的に、それを拾い上げていた。
表に世界保健機構だと書かれてあるだけの、小さな名刺。
何気なく、裏返す。
刹那、大吾はその動きを凍りつかせた。
十年前には気が付かなかったが────。
名刺には、続きがあった。
裏面に、殴り書きがしてあったのだ。
「Who’s the original?」
「オリジナルは、誰だろう……?」
一度、口に出してみて。
大吾はすぐに、その真意に気が付いた。
WHOは、気が付いていたのだ。
木場真一の記憶を消してから、大吾の身に起こることについて。
大吾に待ち受ける、未来について。
だからこそ、このようないたずら書きを残した。
我慢はできなかった。
力を込めて、名刺を引きちぎる。
意外にも、すんなりと破くことが出来た。
それから、精一杯声を張り上げて。
高らかに、言い放つ。
「オリジナルは、俺だ……」
大吾としては、大声のつもりだったが。
どうしても、泣き声になってしまった。
そして、少し時間が経って。
「勿忘草」で、WHOは新しい依頼人と顔を合わせていた。
「それで……渡大吾の記憶を、世界中の人間から消す、ということでよろしいですね?」
WHOが眼前の女性に静かに問いかけると、彼女はしっかりと頷いた。
「そうしてください。確かに、私はあの人のファンでした。ですが、あの人がいる限り、私は彼の音楽の影響から逃れられない……オリジナルになれないんです」
その女性──桐生朱里は、覚悟を決めた表情で、依頼を口にする。
その背中には、ギターケースが存在していた。
「ちなみに、うちの連絡先はどこで聞いたんですか?」
遊び半分に、そんなことを聞いてみる。
意外そうな顔はしたが、桐生朱里はすぐに返答した。
「たまたま路上ライブに来ていたホームレスのおじいさんが、言ってたんです。どんな記憶も消してくれる人がいるって……」
「ふーん……」
恐らく、木場真一だろう。
何となくだが、WHOはそう考えた。
その後の話を聞きながらも、WHOは密かに、またか、と思う。
確か、彼女で丁度十人目だ。
九人目が、渡大吾。
八人目が、確か木場真一。
それ以前は忘れてしまった。
─しかし結局、この曲のオリジナルは誰だったんだろう?
レーテにアクセスしながら、WHOはそんなことを考えた。