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うちの裏山には蚕がいます

作者: ふくろう

 始まりは父親の一言から。

「誠。今度の日曜日、裏山の山頂までちょっと行って来てくれないか」

 終わった夕食を母親が机から片づけ、父親は新聞を広げくつろいでいたところだった。二人の息子である誠は夕食の時点けたテレビで流れていたバラエティを炬燵に体をもぐらせて横になったまま見ていた。そんないつもの家族の団欒の最中の一言だった。

「まだ早いんじゃない?」

 母親が台所から顔を出し父親に「待った」を入れる。だが、

「もう小学生だし大丈夫だろ。そんな高い山でもなし。車道もないから車も来ない。熊やイノシシが出るなんて話も聞かない山なんだから」

 父親の意見は最終的に採用された。一連を聞いていた誠は『初めてのお使いみたいだな』と眠たくなってきた頭を起こして、ついでに体も起こして父親に聞いた。

「何しに行くの?」

 父親は新聞から目を離すことなく、いつもの何気ないお手伝いを頼むような調子で教えてくれた。

「うちの裏山、山頂に祠があるんだよ。一応うちに伝わるものだからほっとく訳にもいかなくてな。年に一回、登って綺麗にしてるんだ。今年もそろそろなんだが、お前行ったことなかったろ?お父さん、最近登るのしんどくてなぁ。代わりに行ってくれないか。ちゃちゃっと掃除して注連縄掛けてくるだけだから」

 それを聞いた誠の顔が少し歪んだ。明らかに嫌そうに。そして母親も、

「初めはいっしょに行った方がいいんじゃない?簡単だって言ってもわかんないわよ」

と父親を窘めている。

「要領分からないから一人は嫌だな。仮にも祠でしょ?神様に祟られたくない」

 日頃愛読している幾多のホラー本の内容を思い出す。子供向けとはいえ、それらの本には神様をないがしろに扱ったことによって祟られた話が幾つも載っていた。昔話の様な民話だけならば作り話と思えるが、『実際にあった~』だの『~恐怖体験』だのと実際の体験談として載せられている話に関しては真偽はともかく、万が一を考えてしまう。なので誠はこの年の子供にしては寺や神社への対応が慎重な子供だった。あくまでもこの年の子供にしては。

「わかった。わかった。じゃあ父さんも行きますー」

 よっぽど休みを山登りで消費するのが嫌なのか掃除が嫌なのかおそらく両方。父親も参加を宣言し、ならば自分はいいんじゃないかとも思ったが、どっちにしろ教えておかなくてはならないから、と今度の休みは山登り&祠掃除に決まった。

 そして土曜日。

父親と久しぶりのお出かけに少しわくわくしている誠はバックパックの中に弁当・水筒などを入れ、手に掃除用具を持った。注連縄は父親が背負った。準備を終えると早朝と言える時間に山を登り始めた。そして何事もなく山頂へ。それまでの薄暗かった山の中から一気に光の中へ。少し眩しかったが、ようやく山道を登らなくて良いという安堵に勝るものはなかった。

「よし、一息入れてから働くか」

 開けた山頂広場の中央には桑の木が一本生えていた。見上げなければならないような大きさで、一本に見えるが何本かより合わさって一本の木になっているようだ。根元を見れば木で作られた古い巣箱の様な物があった。あれが祠なのだろう。木の中程には枝木を利用して注連縄が引っ掛けられていた。

風が吹くたびがさがさと葉が鳴る。

感嘆の思いで見上げていた誠は父親の声でようやく荷物を降ろし、座った。敷物などはない。服は汚れること前提だ。バックパックから出した水筒からお茶を注ぐ。まだ温かいお茶はほっと体から力を抜いてくれた。再び注ぎ直してそれを父親に回すと父親からは封の空いたチョコレート菓子が回ってきた。一つ取り出し、口に放り込む。とろりととろけた甘さが口の中に広がった。それを緩やかに飲み下すと誠は風に誘われるように木を見上げた。

そして固まった。

「う、うぇ…?」

 無意識にこぼれた言葉。父親が拾って怪訝な顔をしたが、それを見る余裕は誠にはない。

 誠が見上げた木の上。そこに白い芋虫がいた。と誠は思ったが、それは蚕という絹の生産者だ。それは見上げた桑の大木に体を巻き付けて、むっしりむっしりと青々と茂る桑の葉を食べていた。しかし驚くべきはその大きさ。その蚕は、なぜ最初、木を見上げた時に気付かなかったのか不思議なくらい大きいかった。恐らく一mはあるだろう。

 変な声をあげて固まった息子に父親は焦った。何せ声を掛けても反応しないのだ。叩いたら治るかな?などと斜め上なことを考えていたが、幸い息子はそれを実行に移す前に再起動してくれた。密かにほっと息を吐く。

が、

「お父さん。この木、モスラの幼虫の類似品に取りつかれていマス」

 ぎぎぎ、と音がしそうな動きで上に向けていた顔を父親に顔を向けた。その顔は青ざめ冷や汗が流れていた。

「…は?」

 ようやく再起動したのにバグったか。父親は息子の額に己の手を当ててみた。熱は無い様だった。とはいえ父親には手を当ててもほのかに暖かい様な外気温と変わらぬ様なその体温が平熱と比べてどうなのか、さっぱり判断がつかなかったが。いわゆるパフォーマンスだ。頭大丈夫かという。

 征は父親の手を心底煩わしそうに跳ね除けた。

「嘘じゃない。見えないの?木の上に白い芋虫がいるんだって!」

 誠は必死に訴えた。正直、芋虫は得意じゃない。うねうね動く体も、がさごそ動く足も、口も。何よりどこが目なのかわからないその顔も。最悪なことにその白い芋虫は顔に目の様なラインのない真っ白な、本当に真っ白な顔だった。気持ち悪い。ぶるりと体が震える。あれが木から降りてきてこちらに向かってきたらどうしようと真剣だった。

「あー?白い芋虫?そりゃ蚕だろ?桑なんだから蚕がいてもおかしくないって」

 カラカラ笑う父親を誠は本気で殴りたくなった。出来ないが。

「蚕?って桑食べるの?それはいいとして、蚕ってモスラの幼虫並みの大きさなの?シラナカッタナァ」

 あははは、と黒い笑みを浮かべる息子。父親は、あれ?教育間違った?と場違いなことを考えた。

「モスラ並?」

「モスラの幼虫並み」

「蚕が?」

「蚕が」

「お父さん見えないけど?」

「ソレハウラヤマシイデスネ」

 誠は極力蚕の方に目を向けようとしなかった。一方、父親は桑の葉が茂る中を必死に目を凝らして蚕を探した。

「見えないなぁ」

 だがしかし、息子は顔を蒼くして震えている。嘘ではないのだろう。

「もう帰る」

 誠はがごっと水筒をバックパックに入れ、帰り支度を始めた。

「え?その蚕何してんの?」

 父親は見えないため、掃除どうしようと悩んだ。

「さっきからずっと桑食べてる」

 よほど見たくないのか、わざとらしくさっと見てさっと顔を背ける息子に父親はなんだか笑いが込み上げてきた。まあ本気で怒られるので我慢したが。

「食べてるだけか?」

「食べてるだけデス」

「じゃ、大丈夫だろ。よし、休んだし一仕事するぞ」

 持った荷物を取り上げた父親に誠は愕然とした顔を向けた。

「なんでそうなるんだよ!?」

「え、だって食べてるだけだろ?」

「そうだけど!?」

「じゃあ問題ないじゃん」

「あるよ⁉降りてきたらどうするんだよ!」

 誠は泣きそうだった。

「だーいじょうぶだって」

 父親はそんな息子を今度こそ笑いながら、箒を押し付ける。

「なんで言い切れんの!」

 しかし誠は箒を受け取らなかった。こんなところで呑気に落ち葉掃きなどやっていられない。

「だって蚕だろ?あいつら繭作り出すまでずっと食ってばっかだから。噛んだりしないし、大丈夫だって!昔育ててたお父さんを信じなさい!」

 どや顔で胸を張る父親。思わず信じそうになるその後ろに、大木の枝からだらーんと垂れ下がりこちらを見ているモスラの幼虫擬きが見えた。

「う、わああああああ!!!!」

 誠は自分が出せ得る限りの大絶叫を上げてその場から逃げ出した。


「ってわけで掃除一人でやったんだよ。ひどいと思わない?」

 ねぇ奥さん。と爆笑しながら今日見た息子だけの恐怖体験を妻に語って聞かせる。

 外はすでに夕闇に包まれ、話を聞いているはずの妻がいるキッチンからは大変良い匂いが漂っていた。今日はカレーのようだ。

「そんなの見えたら私だって逃げるわよ。むしろそんなのがいるって聞かされて、なんであなた平気でそこの掃除までして帰って来れたの?」

 笑い事じゃありませんと気味悪そうな妻は、今はキッチンから出てきてテーブルの上を整えている。

「誠―、御飯よー。早く来なさい」

 帰るなり自宅に閉じこもってしまった息子を最初は心配していた母親だったが、夕飯ができる頃には何度呼んでも出てこない息子に御飯が冷めるじゃないと怒っていた。

「いい加減にしなさいよ!いつまでもいつまでも!襲ってきたわけじゃないんでしょ!早く出てきなさい!」

 その一連の流れを見ていた父親はきっと妻は例え目の前に息子の言うモスラの幼虫擬きが現れたと言われても自分と同じく逃げることなく掃除ができるだろう、と確信した。

 そんなやり取りが茶の間でなされている間、息子である誠は自室の本をひっくり返し特にトンデモ怪奇本を漁って昼間見た化け物の正体や対処法を調べまくっていた。キレた母親に襲撃を受けるまで。


 決戦は日曜日。

 あれを受け継がなくてはならないと父親から厳命を受けた以上、また受け継ぐからには掃除がセットである以上、初日に見たあの蚕の化け物をどうにかせねばと心に決めた誠は、あの後結局ネットまで見たのに碌に資料が出てこなかった蚕の化け物を観察するべく裏山の山頂を再び訪れていた。敵を知り己を知らば…、である。まずは敵情視察!とばかりに、祠のある広場には入らず、その手前の木の陰の傾斜に身を横たえ、持参した双眼鏡で観察を始めた。

 翌週も。

 翌々週も。

 翌々週も。

出来るだけ朝早くから夜遅くまで。と言っても小学生の言う夜遅くなどたかが知れている。時に父親がいい加減にしろと拳骨を携えて迎えに来た。それでも出来うる限り観察した結果、

 ただの蚕だった。

 一日中、桑を食べ、糞をし、たまに背伸びの様な事をしたり、初日の様にぶらんとぶら下がったり。そんな中、桑の大樹を食べているはずなのに桑の大樹から葉がなくならないとか、排泄されたはずの糞が地面に触れた途端吸い込まれるように消え失せるとか、でかさとか不思議な事はあるのだが、あれは本能しかないように思えるただの蚕だった。

 次に試みたのは交流だ。意思の疎通は出来るのか。レッツコミニケーションだ。

 とりあえず、近づいてみた。

反応はなかった。

声を掛けてみた。

無反応だった

 突っついてみた。

 使った棒が蚕の体をすり抜けてしまった。もちろん反応はない。

 祠にちょっかいを出してみた。

 こちらを見ているのかすら分からなかった。

 結論、コミニケーション不可能。

 しかし、この頃になると誠もこの蚕に大分慣れてきた。何せ、実験のためとはいえ、蚕に近づき、祠にちょっかいを出せるようになっていたのだから。当初の目的、『掃除をするためになんとかしたい』はもはや達成されたと言える。けれども誠はそこで納得できなかった。慣れても怖いのだ。その存在の意義を知り、どうにかしたい。できればいなくなる方向で。あれを祭っている限り無理なのは重々承知の上で。

「あの祠のことって人に話したり見せてもいいの?」

 夕飯時、ようやく帰ってきた父親を捕まえて誠は尋ねた。

「いいんじゃないか?別に。十中八九頭おかしい奴に見られるだろうが」

 父親は母親の料理に舌鼓を打ち、ビールを呷った。

ちなみに今日のおかずは山菜を中心とした天ぷらでビールと相性ばっちりだそうだ。正直、誠にはただ苦いだけのおかずだった。その証拠にあまり箸が進んでない。少しばかりあった肉や魚肉やちくわを探して食べていた。

「ちなみにあの祠の由来って?」

「しらん。掃除しとけってことだけしか伝わってないからなぁ」

 呑気な父に傍らで聞いていた母が口を挟む

「由来が無いものをよく大事に守ってこれたわねぇ」

「仕方ないだろ?興味持つ前にお袋も親父もいなくなっちまったんだから」

「そうねぇ。私が嫁ぐ頃にはもういらっしゃらなかったものねえ」

 死人に口なしとはこういう時にも使うのだろうかと誠は思った。言わなかったが。

「いろいろ聞いとけば良かったなぁ」

 それはきっとこの件だけの話ではないのだろう。そう分かる顔で父親は呟いた。

「ま、こうして伝統は失われていくんだよ。一つ勉強になったじゃないか」

 そうかもしれない。先ほどとは違ういつもの空気で言い放った父親に、

「じゃあ、もうあの祠の掃除という伝統も無くそうよ」

 誠の提案は却下された。

「祠の神様かなんか知らんがいるんだろう?祟られたいのか?」

 誠はあれは祟るだろうかと考えたが不確定要素が多すぎて何も言えなかった。

 その後も誠は郷土史を調べたり、あの山周辺で起こった事件や伝説・言い伝えはないか近所の人に尋ねて回ったりした。それらが空振った後は、他所で似た様な事例はないか調べた。クラスメートには変わり者と笑われたが、中学、高校と長じるにつけ行動範囲が広がり、知り合いが増えて、耳に入る情報量も次第に増えた。

 気づけば誠は大学生となり、民俗学を専攻し、郷土史に深く造形のある人間の一人として地元で名が通るようになっていた。

「それでも分からないんですよ」

 大学の研究室。誠が師事していた大学教授に誠は裏山の蚕の事を話した。

「あれが何なのか、何のためにいるのか、今後どうなるのか。これだけ調べてもまだ分からない。足りないんです」

 語り始めたきっかけは、最近の学生にしては珍しいというか異常なほど、民俗学、または俗に妖怪学と言われる分野に興味を抱き研究する学生に興味を持った教授に論文提出の際尋ねられたから。最初は誤魔化してみたりしたのだが、うまく誤魔化しきれなかった。それほど誠は民俗学に執着していた。

「今でもいるのですか?」

 教授は誠の話を否定することなく、尋ねた。

「はい。実家に帰るたび登ってみますが、相変わらずです」

 なんなんでしょうね。それは誠の偽らざる本音だった。すべてはそこから始まって、誠の恐怖も思考も生活も縛り付けられたままだ。

「それは民俗学の根底ですね」

誠は教授に目線を合わせた。

「ただそこにある現象に意味を付け伝える。伝統という言葉でそれが失われそうになればまた誰かが探り、掘り出してまた意味を再構築する。それが良いか悪いかは置いたまま」

 教授の顔はいくら見つめても変わらない。いつもの生徒に講義する時の顔のままだ。

「…それが民俗学ですよね?」

「はい」

「教授は悪いことだと?」

「そうですね」

 わかりません、と教授はずっと笑っていた。けれどそれはきっと苦笑いというものだった。


 月日が流れるのは早い。

 そう思うほど、今の誠は年を重ねていた。相変わらずの蚕の尻目に。

目の前では病院のベッドで父親が横になって目を閉じている。

父親が入院したのは半年前だった。

 それまで普通に就職し、合間に蚕を研究するために実家にいた誠は時の流れを忘れていた。病院に運び込まれた父親を見た時、父親の姿が昔見た父親の姿よりもずっと老いていることに初めて気づいた。気づいて愕然とした。思い出すのは「いろいろ聞いとけば良かったなぁ」とつぶやく父親。同じだった。

 早く家に連れて帰らないと。そう思い体を動かす。ただ機械的に。今後するべきことを思い描いて。そうしないと体から力が抜けそうだった。

 初七日を過ぎ、父親が亡くなって初めて山へ登った。いつも通りの蚕が見たかった。しかし、

「なん、で…」

 いつも通りの蚕はいなかった。

 祠のある桑の木の上部は白い糸に包まれ、光に透ける白い壁の向こうでは蚕の頭が上下に左右に動いているのが分かる。ただし影が見えるだけだ。そう、蚕は繭になっていた。

 理由もきっかけもわからず、誠は山を下りた。

 次の日も、その次の日も。

 誠は初めて蚕に出会った頃の様に山に通い詰めた。

「どうしたの?子供の頃みたい」

 母親にもそう指摘され、蚕が繭になったことを告げた。

「あらぁ。そしたらすごく長い絹糸がとれるわね」

 お父さんにも聞かせたかったわ。んーでも今なら自分で見てるかしら?父親が亡くなり気落ちしていた母親が久しぶりに笑った。

「お父さんも若い頃、蚕を育ててたのよ。結婚する頃には止めちゃったんだけどね。うちはずっと蚕を育ててたんですって」

 母親の話は父親からも聞いたことがあった。

『今の蚕は蛾になっても飛べないんだぞ。狭い範囲でばたばた羽を動かして地面をくるくる回るんだ。近くににメスがいないと子作りもできずに死ぬから狭い範囲にメスオス置いとかなきゃならない。生まれた子も餌が無くても探そうともしない。お前は桑の木の上にいると言っていたけど、今の奴らは木に登ることすらできない。人の手がないと生きていけない完全に家畜化された生き物なんだ』

 お父さんは良く知ってるだろう!と裏山の蚕に怯えた誠にだから怖くなんかないんだぞと話してくれた。

 その時はそれだけだったが、今は思う。

 あの一匹の蚕はどうなるのだろう。

 近くにメスの蚕などいない。そもそもあれがメスかオスかも誠には分からない。成虫になったとして、あれは飛べるだろうか。もしかしたら、幼いころ願った、いなくなって欲しいという願いが叶うかもしれない。なにせあれは木に登って桑を探して食べていた規格外だ。空が飛べても不思議はない。

 大きな蚕蛾が広い空を飛ぶ姿を見てみたいと子供の様に思った。

 蚕が繭になってから、変わった事が一つ出来た。始まりは母親だった。

「お父さんが夢枕に立ってくれたの」

 それはありふれた話で誠は然程気にしなかった。母親も普通に喜んでいた。しかし、

「お父さんが呼んでるのよ」

 今まで一度として山の掃除に来たことのない母親がそう言って山へ登ってみようかしらと言ってきた。その顔は白かった。

「そもそも母さんはなんで今まで一度も山の祠掃除に来なかったの?」

 誠はその時初めて気にした。当たり前だったその事を。

「お父さんに止められていたのよ」

「具体的には?」

「男の仕事だからって」

 女人禁制の御山の話はよくある。だから母親はそれで納得し、従っていた。

「登ってみる?」

 誠は尋ねたが、母親は嫌そうに迷っていた。結局その日は登らなかった。

 次の日、一人でいつものように登ってみた。

繭はすでに透けることなく真っ白な楕円形でそこにあった。ただ。最初は山の音かと思っていた。でなければ近所の声が聞こえているのだろうと。けれど。

「…!?」

 下腹が急激に冷えた様になり、全身に震えが走る。

かすかに聞こえた声は、

「奥さん」

 父親の声だった。


 気づいたら家にいた。そして夜、誠もまた夢を見た。

 真っ白な空間の中にあの蚕がいた。身を縮めているのかいつもの蚕より太く短く見える。そして、よくよく見ればその白い体は半透明の袋の様になっていた。蚕の中に何かがいた。それは蛹だろう。やがて蚕の皮を破って出てくる成虫の前段階。だが、それには顔があった。口があった。蚕の成虫には口がないと昔調べた本物の蚕の生態に書いてあった。なのに口がありそれはもごもご動いていた。

「最後」

「独り」

「奥さん」


 布団を跳ね除けて飛び起きた。

 蛹の顔は父親の顔そっくりだった。


 母親は山を見ている。

 四十九日が過ぎた今でも父親は夢枕に立つそうだ。最近では痩せてしまい、元からほっそりしていた母親だったが、柳の枝の様になっていた。

 繭はいまだ孵らない。幼虫の期間の長さを考えれば、それに合わせて繭の期間も長いのだろう。

 誠は思う。本当にいろいろ聞いておけばよかったと。特に祖父母のことを。蚕のことばかり聞いていた。祖父母の死に際の様子など聞いたこともなく、ましてや死に際など。近所の人に聞こうにも、もう祖父母の話を詳しく語れる人は居らず、母親も知らなかった。

 夢を見る。

 誠は裏山の祠の前に立っていた。上を見れば巨大な繭がいつものようにあった。

繭ができてもう数年経つ。いつ出て来るかと戦々恐々としていた時期ももう過ぎた。声もいつの間にか聞こえなくなっていた。

 なんだろうとよくよく目を凝らして繭を見上げる。そして気づく。繭の底が湿っていることに。昔調べた蚕の生態の記憶を探ると出てきた答えは羽化だ。

 誠は己の胸元を掴んだ。心臓が夢だというのにバクバク音を立てている。

 何が生まれるんだろう。

 蚕蛾だと分かり切っている答えを前にそう思い恐怖に包まれる自分を笑えなかった。

 ゆっくり繭の濡れた部分を掻き分ける様に蚕蛾の頭の天辺が出てきた。そこからはゆっくりとした映像を早送りで見ているようだった。それでもなかなか蚕蛾は顔を見せない。

やがて眉毛の様な触角が完全に表に現れ、いよいよ顔が出てくる。

 息苦しさに誠は喘いでいた。早く終われと願い、べたつく掌をさらに胸元に押し付ける。

 ゆっくりゆっくりそれは現れた。

 正面ではなかったのか横を向いていたそれがこちらに顔を向ける。


「奥さん」


 大きな声で目が覚めた。

 寝汗がひどく不快に体に纏わりついていた。

「…なんだ?」

 夢の事を忘れ、上着を引っ掛け外に出る。外は新月だったのか、雲は無いのに月も見えなかった。近所の家に明かりは無く、街灯のみが見える。先ほどの声は寝ぼけて聞いた幻聴だったのかと思い始めた時、

「おおーい奥さーん」

 父親の声が、忘れかけていた記憶の底にある母親を呼ぶ父親の声が聞こえた。

「おおーい来いよー」

 それはかなり大きな声であったのに、近所の家はどこにも明かりがつかず、恐らく聞こえているのは自分くらいなものなのだろう。

 母親も出てこない。それもそのはずで、母親は、あまりにも痩せすぎてしまった母親は現在入院中だ。ここにはいない。

 誠は家に入り、耳栓を付けて布団にもぐりこんだ。

 夢は見なかった。

 出てきた蚕蛾の顔も。

 それから誠は一度山へ入った後、二度と山へは入らなくなった。

 裏山の蚕を調べることも止めた。

 昼間は仕事の時以外はイヤホンを付けているし、夜は耳栓をしている。だが母親が退院する頃にはそれも止めた。

 母親は少しふっくらして帰って来た。父親が夢枕に立たなくなったと安心したように笑って。

 

もう裏山には何もいない。


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