4話
ちょっと忙しくて書けてませんでした。
「ほら、これが瑞樹ちゃんの使ってたロードバイク」
そう言って伸也さんが店の倉庫から持ち出してきたのは空色のロードバイクだった。
いまはタイヤもハンドルも外されていてフレームだけの状態だけど、それはわたしが夢に見ていたロードバイクに違いなかった。
伸也さんはそのなにも余分なもののついていないフレームを床にそっと置いた。
「フォーカスのCAYOだ」
見ると、そのフレームには『FOCUS』の文字が刻まれていた。たぶんこれがメーカーの名前なのだろう。瑞樹ちゃんのロードバイクにも同じように文字が刻印されていた。
「素材はカーボンでもう五年くらい前のフレームだけど、十分使えるはずだ」
「カーボン!」
高いからきっと手が出せないだろうと思っていたカーボンフレームのバイクが、いまわたしの目の前にあって、それがもう間もなくわたしのものになると思うとわくわくが止まらない。
目を輝かせてフレームを見ているわたしに、伸也さんは続けて説明をする。
「とりあえずこれがフレームで、ここに変速機とかのコンポをつけて、ハンドルバーをつければ乗れるね。コンポは瑞樹ちゃんが前に使ってた105でいいんだよね?」
「はい、大丈夫です。でも、さすがにビンディングシューズはどうしようもないので、それはお願いします」
「了解」
そう言うと、伸也さんはしゃがみこんで作業に取り掛かり始めた。
「びんでぃんぐしゅーず?」
聞き慣れない単語がふたりの間で交わされて、わたしはそれに食いついた。瑞樹ちゃんがわたしのほうを向いて説明をしてくれる。
「ロードのペダルって少し特殊なの」
「特殊?」
「うん」
頷いて、瑞樹ちゃんは両手を身体の前で広げて地面に向け、左右それぞれで縦にくるくると円を描き始めた。回転にはちょうど一八〇度の違いがあって、それが自転車のペダルの回転を表現しているのだとすぐにわかった。
「普通のペダル――フラットペダルっていうんだけど、それはこういう風に、踏み込む力だけでペダルを回してるの」
瑞樹ちゃんは右の手のひらを力強く下ろす。次は左、その次は右、というように交互に、振り下ろしている。そうでないほうの手は、振り下ろす反動につれられて引き上げられているようだ。
「これは力の無駄遣いになってるの、わかる?」
ぱっと閃かなかったので、わたしも瑞樹ちゃんの真似をしてみる。そうすると、すぐに彼女の言っていることがわかった。
「あ、たしかに」
わたしが普段乗っている自転車だと、推進力を生み出せるのは踏み込む瞬間だけ、つまり一番上まで引き上げたペダルを一番下まで踏み下ろす間だけなのだ。これは円運動の半分でしかなく、あとの半分はペダルを引き上げるためにむしろ反対側の脚に負担をかけることになっている。いままでそんなこと、気にも留めなかった。
「だからロードレーサーは足をペダルに固定するの。そのための道具がビンディングシューズとビンディングペダル」
「足を、固定……」
「そう、固定」
瑞樹ちゃんが、両の手のひらをぐっと握り締める。
「こうすることで、引き上げる動作が無駄にならない――それどころか、これも推進力に変えられるの」
瑞樹ちゃんが再び手を回転させ始めた。さっきと違って今度は拳を引き上げるほうにも力が込められている。
足をペダルに固定する――そんなこと、ただ自転車に乗っているだけならば考えもしない。
マイナスにしかなっていなかった要素を、ただ足をペダルに固定するだけでプラスに変える。劇的革命だ。
ただ、ひとつ気になったことがあった。
「足を固定しちゃうと転けたとき危なくない?」
そう、足にペダルを固定してしまうと、ペダルの動く範囲でしか足を動かせない――つまり回転運動しかできなくなってしまう。だから余分な力が生まれず効率よく走れるようになるのかもしれないけれど、転けたときに咄嗟に足を地面につくことができなくなってしまう。
「まあ、そこは慣れだね」
そう言ったのは、作業をしていた伸也さんだ。手は止めないままに言葉を続ける。
「一応、足を捻れば簡単に外れるようになってるから、咄嗟にそれができるかどうか。すぐ慣れる人もいれば一ヶ月経ってやっと、みたいな人もいるから」
「瑞樹ちゃんはどれくらいで慣れたの?」
「どうだったかな、わたしは一週間かからなかったと思うけど」
「わたし、大丈夫かなあ……」
「実際乗ってみれば意外と簡単だよ。そんなに心配しなくても大丈夫だって」
「う、うん……」
瑞樹ちゃんはそう言ってくれるけど、やっぱり不安だ。
さっき試乗してみようという話になったときにはとにかくワクワクしたのに、いまはもし転けたらどうしようとか、傷をつけたらどうしようとか、心配なことばかりだ。
「というか」
すっかり忘れていたことがあった。
「瑞樹ちゃん、条件ってなに?」
このロードバイクを譲り受けるのには条件があると言ったのは瑞樹ちゃんだ。その内容がわたしに知らされないままとんとん拍子でここまできてしまったけれど、それがわからないうちにはさすがにロードバイクを貰うことはできない。
わたしが尋ねると、瑞樹ちゃんはああ、と言った。
「簡単だよ。莉緒とレースをしてもらいたいの」
「え? 莉緒ちゃんと?」
聞き返すと、瑞樹ちゃんはさも当然というように頷いた。
「そう、莉緒と」
「そのぉ……言ってる意味がよくわからないんだけど……」
だって、わたしが莉緒ちゃんとレースをする理由がない。そもそもわたしはまだロードバイクに乗ったこともない素人で、そんなのとレースをしろと言われても莉緒ちゃんはお断りだろう。
なのに瑞樹ちゃんは、どうやら冗談で言っているわけではないらしかった。
「かなめちゃん、莉緒にロードの楽しさを教えるって、そう言ったよね」
瑞樹ちゃんは真剣な声音で言う。
それは、事実だ。
「うん、言ったけど……それが莉緒ちゃんとのレースにどう関係が?」
「莉緒は勝てているから『ロードレースは苦しんでやるもの』っていう考えが正しいことだと思ってる。だったら、あなたが笑顔で莉緒をぶっちぎっちゃえばその鼻を明かせるでしょ?」
「それなら、わたしじゃなくても瑞樹ちゃんでいいんじゃない?」
「わたしは……無理ね。中途半端な人間だから、笑顔で莉緒に勝つなんて絶対に無理」
中途半端――その意味はわからなかったが、それよりも、瑞樹ちゃんは莉緒ちゃんに勝てないと断言した。
「だったら、わたしが莉緒ちゃんに勝つなんてほうが無理だよ!?」
「かなめちゃんは初心者だから、勝てなくても喰らいつきさえすれば、少しは莉緒も考え方を変えてくれるかもしれない」
「それは……」
それは、そうかもしれない。ロードを始めたばかりのわたしといい勝負をすれば莉緒ちゃんは考え直してくれるかもしれない。けれど――
「やっぱり無理だよ……」
わたしの脳裏には、初めて莉緒ちゃんを見たときの、彼女が風とひとつになってわたしを追い抜いていくあの姿が鮮明に思い出されていた。
絶対に無理だ。
いまのわたしでは、莉緒ちゃんに勝つどころか、喰らいつくことだってできるビジョンが浮かばない。
「……とにかく、ロードに乗ってみよ? かなめちゃんはまだロードに乗ってないから自信がないだけ」
「う、うん……」
わたしがしぶしぶ頷くと、瑞樹ちゃんは伸也さんのほうを向いた。
「伸也さん、貸し出し用のウェアは?」
「あ、二階」
瑞樹ちゃんの質問に、作業中の伸也さんは目もくれずに簡単な言葉で返事をする。
「わかりました、二着借りますね」
「はいはい」
「あとわたしのぶんのロードも貸し出してください」
「その辺に置いてあるぼろいの使ってくれればいいよ」
伸也さんがあとで怒らないか心配になってくるくらい、瑞樹ちゃんはたくさんの要求をして、作業に集中している伸也さんはそれに許可を出している。
「よし、かなめちゃん、いこ」
瑞樹ちゃんがわたしの手をとって階段のほうへ歩いていくので、わたしは仕方なくそれについて行く。
「大丈夫、なのかなあ……」
*****
「かわいいよ、かなめちゃん!」
「そ、そう? えへへ……」
試着室のカーテンを開けた途端、瑞樹ちゃんが手を叩いてわたしを褒めてくれる。わたしが瑞樹ちゃんから渡されたウェアは、さっきのロードバイクとよく似た空色のものだった。
この店の二階には自転車はほとんど置いていなくて、ウェアやヘルメット、あとはペダルなどのいろいろな部品が置いてあるスペースだった。
二階に上がったわたしはまず、頭に合うかたちのヘルメットを選び、それから瑞樹ちゃんにビンディングシューズというものを選んでもらった。
ビンディングシューズは靴の底がプラスチックでできているようで全く曲がらなくて歩きにくい。瑞樹ちゃんいわく、これは足の力を効率よくペダルに伝えるためなのだそうだ。
ビンディングシューズを選んだあとは、それにつける金具の位置を決めて、それからウェア選びに入った。
今回はお試しだからほとんど選択肢がなかったけれど、その中でも瑞樹ちゃんはロードバイクの色と合うものを選んでくれたのだった。
試着室から出て、今日履いてきた靴を履く。ビンディングシューズは一階まで持って降りてそれから履き替えないと床を傷つけるし、転けそうだ。
「うーん、やっぱり歩きにくいなあ」
お股のところが気になって仕方ない。瑞樹ちゃんが言うから下着まで全部脱いだし、しかもこのサイクルパンツはお股のところにシリコンのパッドのようなものがついている。
この下には何も着ていないのだと思うとなんだか恥ずかしさと開放感が混じった変な気分になる。
わたしがもごもごしながら歩いている様子を見て、瑞樹ちゃんがふき出した。
「ぷっ」
「瑞樹ちゃん!」
わたしは恥ずかしくなって大声を上げる。
「わたしも最初はそうだったけど、すぐ慣れるよ」
そんなことを言っている瑞樹ちゃんはわたしが四苦八苦しているうちにさっさと上下黒のサイクルウェアに着替えてしまっていた。歩き方もさすがに慣れている。
というか、写真では見たことあったけれど、実際に瑞樹ちゃんのサイクルウェア姿を見るのは初めてだ。
もともとすらっとした体型だとは思っていたけれど、ぴっちりしたサイクルウェアを着るとそれがよりはっきりとわかる。綺麗とかっこいいを併せもった感じだ。
「よし、とりあえず降りようか」
「うん!」
さっきまでいろいろあって不安だったけれど、こうしてサイクルウェアに身を包んでみるとロードバイクに乗るのが楽しみで、わたしは大きく返事をして先に階段を下りている瑞樹ちゃんを追った。
「伸也さーん、どうですかー?」
「あとはかなめちゃんに合わせるだけ!」
階段を降りながら瑞樹ちゃんが尋ねると伸也さんが親指を立てて返事をした。
「わたしに合わせる?」
「そう」
ととと、と瑞樹ちゃんが階段を駆け降りたので、わたしもそれについていく。
「脚をこうやって、ぴんと伸ばせるのが一番力を入れやすいから、そうなるようにサドルを合わせるの。あとは上体とか腕の長さに合わせてハンドルとかを調節する感じ」
「なるほど……」
伸也さんが作業していたところには、さっきはフレームでしかなかったロードバイクがきちんとハンドルもサドルもペダルも、ホイールまでついた状態で置かれていた。
「おお、すごい!」
「そういうわけだから、かなめちゃん、まずはこのロードに跨ってみて」
「は、はい!」
伸也さんに促され、わたしはロードバイクのサドルに跨ってみる。台に乗せられているから足が床につかなくて不安定になるのを、伸也さんが手を添えて助けてくれる。
「ハンドル持って、ちょっと漕いでみて」
「はい」
「あ、持ち方はこう」
うねっと曲がったハンドルから出っ張った部分を、伸也さんが握ったので、それを真似るようにしてわたしも握る。
ペダルは普通の、ママチャリについているようなペダルだった。ゆっくりと漕ぎ出してみると、それだけでママチャリとの違いがよくわかった。
「すごい、なにこれ!?」
滑るように、わたしの足が追いつかないくらいするするとペダルが回る。この感覚を知ってしまったらもうママチャリには戻れないんじゃないかっていうくらいペダルが軽い。
「漕いでみてどう? ちょっと持て余す感じとか、足が届いてないなとかない?」
伸也さんに言われて、わたしは脚に神経を注いでみる。
「言われてみれば、確かにちょっと持て余すような……」
「じゃあ、一度ペダルを止めて脚を伸ばしてみて」
「はい、ってブレーキはどこですか?」
伸也さんがわたしの握っているハンドルの出っ張についているレバーを指差した。
「これこれ。変速機と一緒になってるの」
左右両方のそれをぎゅっと引いてみると、一瞬でタイヤの回転が止まった。
「わ」
思わず声を出してしまったけれど、焦らず伸也さんの指示通り脚を伸ばした。ペダルを一番下まで下げたけど、やっぱり少しつっかえるような感じがする。
「ちょっとサドル低いね。調整して、あとはペダルもビンディングに付け替えるからちょっと待ってて」
「わかりました」
一度ロードバイクから降りると、伸也さんが調整を始めたので、それが終わるのを待つことにした。
なんだか、足が地面についている感じがしない。ペダルを回したときの感覚がずっと残り続けていてふわふわする。
ああ、これがロードバイクなんだ。
だからみんな、これに惹かれるんだ。
主人公、やっとロードバイクに乗る(路上は走らない)
ロードバイク宣伝小説なのでロード好きな人には退屈かつ稚拙な部分があると思いますがご容赦を。というか全面的に説明回(次回に続く)ですが。