2話
わたしの時間が少しの間、止まったように感じた。
「それってほんと!?」
「佐久間莉緒っていうんだけど、わたしと同じ中学の同級生なんだよね。同じロードに乗ってる人がこの学校にいるとかじゃなきゃ、そうだと思う」
身を乗り出すようにしてわたしが尋ねると、瑞樹ちゃんはややたじろぎながら答えてくれた。
「佐久間……莉緒」
瑞樹ちゃんが教えてくれたその名前を、わたしは呟くように繰り返した。
それがあの子の名前。わたしをここまでロードバイクに夢中にさせてくれたひとの名前なのだ。
ロードバイクに跨り、風とひとつになってわたしを追い抜いていく彼女の姿が頭の中に浮かぶ。初めて彼女を見たあのときだ。大人っぽく見えたように感じたけれど、同級生だったことに少し驚いた。
「そっか、莉緒ちゃんっていうんだ……」
ようやく名前を知ることができた。彼女にまた一歩近づけたような感じがして、嬉しさがこみ上げてくるけれど、それを遮るように瑞樹ちゃんが口を開いた。
「でも、かなめちゃん、莉緒に関わるのはやめたほうがいいよ」
「え、どうして? 瑞樹ちゃん友達なんでしょ?」
なぜ瑞樹ちゃんはそんなことを言うのだろう。わたしが聞くと、瑞樹ちゃんは渋い顔をした。
「わたしが友達なのは、ロードに乗ってるからだけど……」
「じゃあわたしも大丈夫じゃないの? まだロードバイク持ってないけど」
これからロードバイクを買えば、瑞樹ちゃんと条件は同じだから友達になれると思うのだけど。なのに、瑞樹ちゃんは首を横に振った。
「ロードを持ってるかどうかじゃないの。とにかくあの子は変人だから」
瑞樹ちゃんが嘘を言っているようにはとても見えなかった。けれどやっぱり、彼女の言うことはわからない。
「それでも会ってみたい、かな」
会ってみないとどういう人なのかわからない。瑞樹ちゃんが勘違いしているだけで、本当は莉緒ちゃんはとてもいい子かもしれない。
瑞樹ちゃんは気が進まないという様子で、眉間にしわを寄せている。
「会いたいって言うならわたしは止めないけど……」
それなら、早いほうがいい。
「今日って大丈夫かな? 学校来てるよね」
バスの中から、制服を着た莉緒ちゃんの姿を見ている。だから会おうと思えば今日にでも会えるはずで、それこそ入学式が終わってから駐輪場で待ち構えていればいいだけの話なのだけど……。
瑞樹ちゃんがスマホの画面をちらりと見て、目を見開いた。それから、わたしにその画面を向けながら言った。
「もしかしたら、莉緒、入学式サボってるかも」
「うそ!?」
スマホの画面には「サボるからあとで連絡事項教えて」とごく簡素なメッセージが表示されていた。送り主は「りお」とだけ書かれてあって、このメッセージを送ってきたのが莉緒ちゃんだということを示していた。
「入学式を休むなんて、ほんとあの子は……」
頭を抱えながら瑞樹ちゃんが唸る。わたしだってそうだ。入学式をサボるなんて聞いたことがない。
「でもわたし、さっき制服着た莉緒ちゃん見たよ?」
そう、バスに乗りながら見ていたあの制服姿の女の子は間違いなく莉緒ちゃんだと、瑞樹ちゃんの発言によって証明された。制服を着ていたのだから学校に来る意志はあったはずだ。
でも、瑞樹ちゃんは。
「言ったでしょ、変人だって」
そう言ってから、大きなため息をついた。
入学式なんて友達作りの大事な機会を、自分から逃していくということがわたしにはとても信じられなかった。
なるほど、確かに莉緒ちゃんは変人だ。
「かなめちゃん、そういうわけだから、莉緒に会うのはまた今度ね」
「うん……」
瑞樹ちゃんに無理を言っても仕方ないので、わたしはしぶしぶ頷いた。
楽しみだったことがひとつ、潰えてしまったような気がしてなんだか少し落ち込んだ。
*****
入学式から二日が経った。
式があったのが木曜日だったため、授業もまともにないまま早速の休日になる。そんな土曜日に、わたしはうきうきしながらバスに乗っていた。
バスが駅前についたので、わたしは他の乗客と一緒に降りた。このあたりで遊ぶとなると駅前しかなく、休みの日は中高生が多く集まる。土曜日の午前中ならばそれなりに人は多く、これが昼過ぎあたりになるとさらに増える。
肩からかけたポシェットからスマホを出して「駅前に着いたよ」とメッセージを送る。返事が来たかどうかは確認せず駅前のランドマークである噴水のところに行くと、見知った姿があった。
「瑞樹ちゃん、おはよう!」
手を振りながら駆け寄っていくと、向こうもわたしに気づいたようだった。
「あ、おはよう」
ちょうどわたしからのメッセージを見ていたらしく、瑞樹ちゃんは手に持っていたスマホを履いているパンツのポケットに仕舞った。
水木ちゃんは、白いシャツの上から薄桃色のカーディガン、身体のラインが出るぴっちりとした淡い色のデニムという出で立ちだ。髪の結い方は学校のときと変わらないけど、着ている私服は、子供っぽいワンピースのわたしなんかと違ってとても大人っぽい。
「それじゃ、行きましょ」
「う、うん!」
気後れしてもいられないから、わたしは自分を奮い立たせるように大きく頷いた。
瑞樹ちゃんの先導に従って駅から西側に歩いていく。
「ほらここだよ、かなめちゃん」
人がまばらになってきたあたりで、瑞樹ちゃんが立ち止まってそばにあった建物を指差した。
「わあ……」
思わず、わたしの口から喜び混じりの声がもれ出た。
駅の正面からはすこし離れたところだから、地元に住んでいるわたしが知らなかったのも無理はない。小規模なものだと思っていたけど二階建てで、自転車屋さんにしてはかなり大きいお店だ。大きく『ツガモトサイクル』と書かれた看板が掛けられていて、軒先にはたくさんのシティサイクルが並べられている。それだけだと普通の自転車屋さんだけど、ガラス張りになった一階部分にロードバイクがいくつも置いてあるのが見えた。
本当はわたしひとりで来ればよかったのだが、やっぱり心細かったので無理を言って瑞樹ちゃんに付き合ってもらったのだ。
「なに見とれてるの。ほら、入るよ」
「あ、うん!」
ドアを開けて先に店の中に入っていく水木ちゃんを追いかけてわたしも敷居をまたいだ。ドアに付いたベルがちりんちりんと音を鳴らす。
店内に入った途端、全身を喜びが駆け巡った。
シティサイクルが置いてあるのは店の前と入り口近辺だけで、あとは全部スポーツタイプの自転車だ。どこを見てもロードバイク、ロードバイク、ロードバイク。そのひとつひとつが違う色をしていて、こんな夢のような空間が存在するなんて夢にも思っていなかった。
そんなわたしの様子を見て、瑞樹ちゃんが微笑を浮かべる。
「どう? こんなにいっぱいロードがあるとちょっとびっくりするでしょ」
「それどころじゃないよ! 感動だよ!」
わたしは飛び跳ねたいのを堪えながら店内を進んでいく。夢中になって通路の両側に並ぶロードバイクを眺める。それぞれの車体には値札が貼ってあって、安いもので十万円から、高いと五十万円以上もしている。とてもいまのわたしじゃ手が出せる値段じゃないけれど、見ているだけで楽しい。堪えようとしてもにやにやしてしまう。
「いらっしゃい」
「わっ!」
唐突に声を掛けられ、驚いたわたしは思わず背筋をぴんと伸ばした。
正面から歩いてきたのは男の人だ。
「なにか探してますか?」
短髪に刈りこんだ髪型のせいか、顔にはしわが多いにも関わらず見た目はまだ三十歳手前に見える。背はあまり高くなくて、わたしの同級生にもこれくらいなら何人かいる。たぶん一七〇センチとちょっとだ。かなり色が落ちた、でもところどころが黒ずんだジーンズを履いて、着ているシャツも灰色だ。その上から、胸元に名札の付いた黒いエプロンをしている。その名札には『栂本』と書いてあった。
たぶん店員さんなのだろうけど、わたしはなんと答えればいいかわからず硬直してしまった。
「久しぶりです、伸也さん」
かなめの後ろから歩いてきた瑞樹ちゃんが言う。彼女の姿を見た途端、伸也さんと呼ばれた店員さんは驚いたように小さく声をあげた。
「おっ、瑞樹ちゃん! 久しぶりだねぇ。どうしたの今日は」
どうやらふたりは知り合いらしかった。というか、瑞樹ちゃんはこのお店を頻繁に利用していたみたいだから当たり前かもしれないけれど。
「この子を紹介しようと思って。わたしの友達なんですけど」
瑞樹ちゃんがわたしのほうを見たので、慌てて頭を下げた。
「早坂かなめです!」
「よろしく。俺はここの店長の栂本伸也です」
そう言って、伸也さんは名札を指差した。
「読めないでしょ、栂本って」
「はい、その漢字を初めて見ました……」
「平仮名で書けばいいのにって、いつも言ってるじゃないですか」
呆れたように瑞樹ちゃんが言うと、伸也さんは両手を上げて首を横に振った。
「平仮名だとかっこよくないだろ、わかってないなあ」
「はぁ……」
これ以上言っても仕方ないと思ったのか、瑞樹ちゃんは言い返すことはしなかった。
「それで、かなめちゃんはどんなロードをお探し?」
「えっと、そのぉ……」
にっこりと笑って尋ねてくる伸也さんだが、わたしはどう答えていいかさっぱりわからない。
「かわいくて、かっこいいの、かな……?」
「伸也さん、かなめちゃんはロードに触るのが初めてなんです」
「へえ、じゃあまるっきり初心者か!」
「そうです、そうなんです!」
わたしは頭を縦にぶんぶんと振って肯定する。
「じゃあ、まずはロードバイクの基礎から話した方がいいか。こっちおいで。椅子に座ってたほうが楽でしょ」
伸也さんが促すのに従って、わたしはお店の奥へと歩いていく。そこには床が汚れないようにシートが敷いてあって、見たこともない工具がたくさん並んでいた。それと、サドルを棒に引っ掛けたまま車輪の外されたロードバイクも。
「はい、どうぞ」
「あっ、ありがとうございます」
伸也さんの差し出してくれたパイプ椅子を引き寄せてポシェットを膝の上に腰を下ろす。
瑞樹ちゃんはこちらには付いて来ず、さっきいたところでロードバイクを眺めている。
床に直接腰を下ろして胡坐をかいた伸也さんがわたしのほうを見る。
「さて、ロードバイクだけど、どれくらい速く走れると思う?」
「ええと、四〇キロくらいですか?」
莉緒ちゃんが速度遅めのバスと併走していたのを思い出しながら、わたしは答えた。頑張って漕いでそんなものだろう。
しかし伸也さんは人差し指を立てて振った。
「ちっちっ、甘いな。ロードのプロは、レースのゴール前なら余裕で六〇キロを超えるんだぜ」
「六〇キロ!?」
それはもう、そこらを走っている車と同じかそれ以上の速度で走っていることになる。速いとは思っていたけど、人力で漕ぐ自転車がそこまでの速度を出せるとは想像もしなかった。
「一般人じゃなかなかそこまでは出せないけどね。かなめちゃんの言う四〇キロはプロの平均速度。アマチュアなら何もないところを走って平均三〇キロちょっとってとこかな。原付と同じくらい」
「そ、それでも十分速いです……」
「だろ?」
伸也さんは立ち上がって、近くに置いてあった車輪の外されたロードバイクに歩み寄った。
「それで、ロードにもいくつか種類がある。大体のロードはこの三種類に分類されるんだけど、そのうちのひとつがこのカーボンフレーム」
撫でるようにロードバイクの表面を触る伸也さん。ネットでロードバイクについて調べているときに見かけたのを思い出し、わたしは思わず口に出す。
「あっ、あとふたつはアルミフレームとクロモリフレームですか?」
「そう、正解! そのふたつは金属フレームで、カーボンよりどうしても重くなるから、レースではなかなか使われない。でもそのぶんだけ値段が安いから入門車にはおすすめかな。だいたい、カーボンが二十万からで、アルミとクロモリは十万くらいから」
「じゃあ、わたしが買えるのはアルミかクロモリかなあ……」
十万円くらいで買うことを考えていたわたしは、伸也さんの話を聞いて少しがっかりした。十万円くらい貯めて買おうと思っていたけど、そのくらいでは瑞樹ちゃんのようなロードバイクは買えないということだ。
わたしがため息をついたのを見て、伸也さんが笑った。
「ま、学生なら最初から無理してカーボンを買う必要はないよ。クロモリは扱ってるメーカーも少ないから、店員としておすすめてきるのはやっぱりアルミ」
「でも、瑞樹ちゃんの乗ってるのはカーボンなんですよね?」
聞くと、伸也さんは苦笑を浮かべた。
「あー、あの子はまたちょっと特殊で……ロードレースの大会に出るような子はカーボン一択だから」
「レース?」
「そう、レース。有名なのはツール・ド・フランスとか……国内だとジャパンカップとかかな。ロードバイクって、もともとそういうののために作られたレース用なんだよ」
ツール・ド・フランス、ジャパンカップ……どれも聞いたことのない語だ。自転車でするレースなんて、どういうものなのか全く想像がつかない。
「瑞樹ちゃんはそういうレースに出てるってことですか?」
伸也さんが頷く。
「ま、そういうこと。あの歳でレースに出る子はやっぱり少ないよ。俺もロードレースに出始めたのって高校卒業してからだし」
「そうなんですか」
「かなめちゃんもレースに出たいっていうことなら、最初からカーボン買ったほうがいいかもね」
「うーん、カーボンかぁ……」
わたしは頭を抱えて悩みこむ。
ロードバイクは欲しい。絶対に欲しい。
フレームは瑞樹ちゃんや――たぶん莉緒ちゃんも同じであろう――カーボンがいい。伸也さんの話を聞いていると、二人と一緒にレースに出てみたいという気持ちも出てきた。
でもカーボンは高いのだ。アルミやクロモリの二倍の値段を出さないといけないというだけで、学生のわたしにはとても手が出せるものではない。
「別にいま決めなくてもいいんじゃない? 今日は試乗くらいにしておいて」
いつの間にかわたしの背後に立っていた瑞樹ちゃんが言う。伸也さんも「そうだな」と言って、車輪のないロードバイクから離れる。
「よし、どれか適当なのに乗ってみるか」
「~~っ、はいっ!」
ようやくロードバイクに乗れるということで、わたしはこみ上げてくるものを必死で堪えながら立ち上がった。とりあえず値段のことは後回しだ。だって、ようやく憧れてたロードバイクに乗れるんだもの!
ちりんちりんと、ドアの開く音がした。そちらに視線を向けると、サイクルジャージを着た女の子がひとり、脇にロードバイクを持って立っていた。女の子はロードバイクを引きながらこちらに歩いてくる。
白をメインカラーに、ピンクのラインが入ったそのロードバイクには、見覚えがあった。
そしてそれを裏付けるように、伸也さんが言う。
「いらっしゃい、莉緒ちゃん」
女の子――佐久間莉緒ちゃんは、伸也さんにぺこりと頭を下げてわたしと瑞樹ちゃんを交互に見た。
「瑞樹。その子、誰?」