あなたに会いたくて
まるで夢みたいな出会いから数か月、わたしは無事に内定をもらった。
一人で私を育ててくれた母はとても喜んでくれ、二人でひっそりとお祝いした。
奮発したシャンパンを開けて、慣れないアルコールにうつらうつらしていると、小学生の頃いなくなった父のことを思い出した。
父は、何も言わずに突然いなくなったのだ。わたしと母を残して。
どうして、と身近に残った母に詰め寄ったわたしに母は何も言わなかったから、結局父の居場所は分からないまま。
それから母と二人で何とか暮らしてきた。
(これからは、お母さんに恩返しできる)
そんな期待を胸にわたしは新社会人として会社に飛び込むこととなった。
最初の一か月は、とにかく仕事を覚えることで精いっぱいだった。
総務課の事務に配属されたわたしは優しい先輩たちに囲まれて、何とか仕事を覚えていった。
「今日のランチ、どうする?」
昼休みに声をかけてくれた目の覚めるような美人は皆川雪絵。
入社式のときからの友達だ。
「今日は社食にしよ。日替わりランチが美味しそうだったから」
「さすが佳苗の食いしん坊」
「もう!」
こうやって楽しくおしゃべりできる雪絵が友達でいてくれたから、わたしはこの一か月を乗り切ったようなものだ。
二か月目にようやく仕事を覚え始めて、三か月目でようやく一息ついたところだ。
気が付けば季節はもう梅雨に入ろうとしていた。
「佳苗、今週末空いてる?」
日替わりランチのサラダを食べながら、雪絵がそんなことを切り出した。
「何かあるの?」
「今度、実家でホームパーティやるの。よかったら佳苗も来ないか思って」
「え? 雪絵のおうちの?」
雪絵の実家は、有名商社の創設者一族だ。現在、お父様が会長で、お兄様が社長。雪絵はお嬢様で、本当なら働かなくてもいいところを、実家の反対を押し切ってよその会社に就職している。当然、この会社の上層には雪絵の身分はバレているらしいけれど、同僚だけでなく課長や係長には内緒らしい。
「お父さんとの約束なの。実家のパーティには必ず顔を出すのが、ここに就職する条件の一つ」
「そういうのが嫌で一人暮らししてるのにね」と雪絵はうんざりと肩をすくめる。
「だから、お願い! 佳苗の予定が無いなら、私の付き添いとして来てくれない?」
雪絵の実家のパーティとなると、普通のわたしが行けるような場所じゃない。
話を聞いただけで気後れしているわたしに、雪絵はにっこりと微笑んだ。
「ドレスコードのことなら任せて。それは私がちゃんと面倒みてあげるから」
雪絵の説得をどうしようかと思いながら、わたしはいつの間にか財布と一緒にポーチに入れている定期入れを撫でていた。
あの日、面接の日に助けてくれた魔法使いの名刺は、定期入れにずっとしまってある。
結局あれから一度も連絡していない。当然だ。わたしは怪我もないからあの人に連絡する理由もない。
でも、先輩に怒られた日、苦手だった仕事がうまくいった日、上村さんの名刺を思い出す。
いつの間にかお守りのようになっている名刺は、あの日から定期入れからわたしを守ってくれているような気がしている。
「週末は特に予定はないんだけれど…」
「じゃあ、決まり!」
そう雪絵に押し切られる形で、わたしはパーティ行きを引き受けてしまった。
雪絵に押し切られる形だったけれど、本当は少しだけ見てみたかったのかもしれない。
わたしみたいな地味な女の子が、舞踏会に参加するような。
まるでシンデレラの物語みたいに、素敵なことが起こりそうな気がしたから。
※
週末、雪絵は宣言通り、わたしのドレスを用意してくれていた。
本当は貸衣装を用意しようとしていたけれど、雪絵がすっかり準備を整えてくれていて、わたしは彼女の実家でお手伝いさんたちにあっという間に変身させられた。
「あらあら、可愛い娘が増えたみたいだわ」
雪絵のお母さんがわたしと雪絵を見比べて、楽しそうに笑った。
「やっぱり私の見立て通りね。佳苗は色が白いし肌がきれいだから、ドレスが映えるわ」
そう言う雪絵はスリットの入ったシックなドレスで、お嬢様というより妖艶だ。
それに引き換え、わたしはふんわりとした淡いピンクのドレスのおかげで、今にもふわふわと飛んで行ってしまいそうだ。
「佳苗は私の付き添いってことになってるけど、適当に楽しんでくれたらいいから」
雪絵に手を引かれて、わたしはそのままおとぎ話のような世界へ招かれていった。
(ど、どうしよう)
広い庭いっぱいの会場はガーデンパーティの様相で、まるでアリスの不思議な世界にでも迷いこんだような気分になる。
立食テーブルのあちこちでドレスやスーツを着た大人たちが談笑していて、わたしもやっと大人になったはずが、まるで小さな子供になったように思うように動けない。
「お腹が空いたら好きに食べて。それと」
雪絵はわたしの鼻先で人差し指を立てる。
「飲み過ぎはダメよ。悪い男に引っかからないように」
そう言って、挨拶回りをしてくると雪絵はわたしを残して行ってしまった。
「お飲み物はいかがですか」
あちこちでサーブしているボーイから細い脚のグラスをもらうけれど、たちまち居場所をなくしてわたしはそそくさと会場の隅に引っ込んだ。
(……場違いだなぁ、わたし)
会場のどこを見回しても紳士淑女の輪が広がって、恰好だけ整えたわたしはひどく場違いだった。素敵な会話もできなければ、誰もが振り返るような魅力もない。
ますますいたたまれなくなって、もらった飲み物をぺろりと舐めてみる。お酒だ。わたしには少し辛い。舌が少ししびれてくる。シャンパンをグラス一杯飲んだだけで眠ってしまうほど、お酒はあんまり強くない。
(定期入れ、今は持ってないな)
ぼんやりと定期入れのお守りのことを思い出す。
名刺をお守りしているなんて話したら、きっと笑われてしまうだろうけれど。
(上村さん、元気かな)
あの素敵な人に、今日のわたしを少しだけ褒めてもらえたら。
きっとそれだけで元気になれる。
そんな気が、ずっとしている。
「――そんな日陰でうつむいたら、そのまましおれてしまうよ」
くすくすと笑う男の人の声がする。
聞き覚えがあって顔を上げると、そのまま絵に収まってしまいそうなほどきれいに整った顔立ちの男性が、わたしを見つめて立っていた。
「……上村さん…?」
「覚えていてくれたようで嬉しいよ。三澤佳苗さん」
魔法使いだったはずの上村さんは、まるで物語の王子様みたいに微笑んだ。