レオ
(どこも似たような場所があるんだな)
日本から十二時間、空港からまた長い時間をかけて、利之はフランスの田舎町の片隅で空を見上げていた。
家出先として決めたフランス行きだったが、行く宛があるわけではなかった。
使用人たちの噂話から、どうやら本当の父も再婚しているようだと聞いていたのだ。
でもまったく目的地が無いわけにはいかないと、メモを片手にやってきた。
幼い頃、自分が暮らした家があったという場所に。
この住所は、母の書斎から見つけた。母の書斎の片隅に一通だけフランス語の手紙があったのだ。
おぼろげなフランス語の記憶を頼りに何とか読み取ったその手紙には、思い出の店を処分するという旨と売却の報告書のようなものが入っていた。その報告書から住所を写し取ったのだ。
そのメモを頼りに田舎町にやってきた。
人に尋ねながらようやく辿り着いた住所の建物は確かにあった。
けれどもう人も住んでおらず、裏口の戸は壊れていた。
そこから家に入り込んでみると、荒れた庭の一面を蔦バラが覆いつくしていた。
利之が住んでいた頃はもう少し手入れされていただろう、その庭には見覚えはなかったが、塚谷の本宅の庭の隅にこんなバラ園があるのは知っている。
夕暮れ近くのその庭に、柔らかな午後の日差しがバラに溶けるように差し込むと、この荒れた庭とどこか同じような雰囲気になる。
それを不思議に思いながらも、利之はなぜかその庭から動けなくなって庭から空を見上げていた。
もうほとんど思い出のない家と空が、どうしてこんなに心地いいのかも分からない。
それほどに、利之は思い出から離れていた。
ぼんやりと庭で過ごしていた利之だったが、夕暮れに夜の気配が濃くなるとさすがに重い腰を上げた。そろそろ宿を決めなくては、庭で野宿することになる。
利之の荷物はバックパッカーよりも少ないほどだ。リュックにある貴重品といえば財布とパスポートぐらいで、他は空港で買った水とチョコレートぐらいしか持っていない。まさか慰み程度に持っている手帳にボールペンでホテルを描いたらそれが出てくるわけもない。
ジーンズのポケットに突っ込んでいた地図を広げて見ていると、ぎぃと裏口がわずかに開かれた。
(まずい)
いくら以前の住人だからといっても、この庭はもはや利之の家ではない。
それに利之がフランスで育ったのは六歳までだ。
誰かに見咎められても、そう流暢に話せるわけでもないフランス語で弁解は難しい。
身構えた利之を見つけたのか、裏口は大きく開かれる。
庭に入ってきたのは、長身の男だった。
すらりとした体にシャツにスラックスという軽装で、年はよく分からない。一見三十代ほどにも見えるし、それでいて老成したような眼差しでそれより上にも見える。少し長めに揃えた髪は、夕暮れにも映えるブロンド。そして利之を驚いたように見つめたその瞳は、夜の訪れを思わせるような深い濃紺だった。
「あの」
思わず声を掛けてしまってから、利之は少し後悔する。
ここは日本じゃない。
いつの間にか日本が身に染みついていたのだと思うと、六歳の頃の自分から睨まれているような心地になる。
けれどそんな利之に男は大股で近付いてきたかと思えば、その大きな手で利之の顔をがっと掴んだ。
高校生にしては長身だった利之が、自分よりも大きな手に掴まれることは少ない。だから余計に驚いて身を引こうとしたが、力強く上向かされる。この男は利之よりももう少し長身なのだ。
何を言われるのかと覚悟した利之をじっと見つめた男は、綻ぶように笑った。
「利之」
見知らぬ外国人のはずの男から漏れたのは、利之の名前だった。
「すっかり大きくなった。本当に」
ぐりぐりと大きな手で撫でられ、利之もじっと男を見つめ返す。
そう、いつだっただろうか。
こうやって撫でてもらったことがある。
もっと小さな子供の頃に。
その人は自分の瞳の色に近い、濃紺の瞳だった。
「……父さん?」
利之が呟くと、目の前の濃紺の瞳は嬉しそうに笑った。
「ああ、そうだ。そうだよ、利之」
そう言って笑う男に見覚えはなかった。けれど、こうやって子供のように笑う人だったと、何よりこの人が父なのだと、どういうわけだか利之は思った。
「本当に大きくなった。母さんの若い頃にそっくりだったから、本当に驚いたよ」
「え、母さんに…?」
言外に女顔だと言われたことより、あの冷徹な母に似ていると言われたことのショックが大きくて利之は思わず顔を歪めた。日本では、そのブロンドが父譲りだと言われ続けていたのだ。
大きな手で利之の頭を遠慮なく撫でながら、父は苦笑する。
「その真っ黒な瞳と雰囲気がそっくりだ。……お前は、本当に怜子似だなぁ」
母の名前を口にする父は少し苦い顔をした。
父もあの母が苦手なのだと知れると、少しだけ気が楽になる。日本での母はまるで殿上人だ。塚谷家では母に従わない者はおらず、母が絶対の正義だったのだ。
「そういえば、父さんはどうしてここに?」
利之はここ以外の住所を知らなかったが、父はすでに手放したはずの家に訪れる理由などない。父は利之に苦笑した。
「連絡をもらったんだよ。お前がここに来るだろうって」
「誰に?」
「母さんに」
利之は思わず顔をしかめた。
家出はバレていたのだ。
周到に進めてきたというのに、結局母の手の内だったということだろうか。
「利之」
父は利之を見つめて言った。
「お前はどうしたい?」
今まで、そんなことを訊かれたことはない。
利之の人生は今まですべて母が決めてきた。
家出をしたものの、利之に何かプランがあるわけではなかった。
けれど、それでも、一つだけ決めていることがある。
「――俺は、もう日本に帰らない」
自分に居場所がないなら、自分の居場所は自分で作る。
中学で学んだことだ。
誰かに許された上での自由でも、小学生の頃のように母が利之の居場所を作ってくれるわけではない。
興味も失敗も、自分で得ていくのだ。
それが少しでも分かったから、たった一人で旅に出た。
父は利之を見つめて、眩しげに目を細めた。
「いいよ。そうしなさい」
父の方が迷いもしないで言った。
「お前が自分で決めたことなら、それが一番正しいんだから」
そう言われて、利之は人生で初めて笑えた気がした。
父の乗ってきたという車に乗せられて、その日、利之は父と長い時間話をした。
父が今住んでいる町までは車で何時間もかかるというのに、父は休憩を挟みながらも自分一人で運転して、利之を連れて帰った。
その道中、父は利之の話を聞きたがった。
何が好きで、どんな風に過ごしてきたか。
何が悲しかったか。
利之がサッカー好きだと知ると、途端にその話題で盛り上がった。リーグ・アンからプレミアリーグの話にまで及ぶと、父はいささか運転が心配になるような様子で笑った。
「私も利之ぐらいの頃は寝ても覚めてもサッカーに夢中でね。両親に呆れられていたよ」
「だったら、サッカー好きは遺伝かな」
利之の言葉に父はにやりと笑って、
「遺伝だな。これはもう仕方ない」
すっかり夜も更けると道路を行き交う車は少なく、車窓には中天を目指す星が遠く見えた。
日本の塚谷の邸からでも見えた星が、暗い夜道ではきらきらと輝いて見える。
それが不思議でおかしくて、利之は父との会話に没頭した。
星が中天を過ぎる頃に辿り着いたのは、豪邸だった。
町中にあるからタウンハウス、と呼ぶのだろうが、古いノッカーのついた重々しいドアを開けたのは家族ではなく背の高い使用人。
「……父さん」
使用人に言づけながら車のキーを預けた父に、利之は思わず呼びかけた。塚谷の本宅も大きな邸だったが、この父の家も負けず劣らず広い邸だ。
玄関ホールだけでも高い天井でシャンデリアに煌々と照らされている。
「利之。……いや、レオ」
「レオ?」
訊ね返す利之に、父は頷く。
「お前のミドルネームとして用意していた名前だよ」
ミドルネームと言われても日本で育った利之には馴染みがない。けれど、父はもう一度「レオ」と呼ぶ。
「母さんがお前を日本に連れ帰ってから、何度もお前に会おうとしたけれど会わせてもらえなかった。だから、ずっとこの名前で呼びたかったんだ」
父はシャンデリアを背に言う。
「日本に帰らないなら、しばらくここで暮らすといい。ここではお前のことを誰も知らない。新しい自分として、レオとして暮らしてみなさい。そのための手助けは惜しまないから」
日本の思い出は全部置いてきた。
日本の利之を形作っていたものは、もうないのだ。
散々日本人らしくないと言われてきた。いっそのこと日本名でなければどうだろう。
今ここで新しい自分になることに、ためらいはない。
「レオ」
父の呼びかけに、利之――レオは大きく頷く。
「はい。しばらくお世話になります。父さん」
利之がレオとなったその日、父を経由して母から伝言が届いた。
高校は中退の手続きをとるということと、ビザなどの手続きは母の側用人にさせること。そして最後に一言だけ添えられていた。
”好きになさい。”
世界で一番自由になったと思えた、そんな瞬間だった。
2022/2/9 少し修正しました。