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秘書のわたし 番外編  作者: ふとん
秘書のわたしに出会うまで
4/9

利之

「あなたは本当に何もできない子ね」


 そう言われたのは、確か小学校でいじめられて帰ってきた時だった。

 いじめられた理由は単純なものだ。利之が黒髪ではなく金髪で、日本語がうまく話せないから。

 泥だらけになるまで落とし穴に落とされて、いじめっ子たちが飽きて帰ってから必死に穴から這い上がって帰った。それを見つけた母が投げた一言だ。

 母に言われると何も言い返すことができなくて、ただ俯いて「Excusez moi」と呟くと、母はますます顔をしかめた。

 だから利之は改めて言い直す必要があった。


「ごめんなさい」


 乾いた泥を落としもできないまま、ただ俯いていなければならなかった。


 生まれた国であっても、フランスで育った利之にとって日本という国は不思議な国であった。

 黒髪ではないというだけで不良と疑われ、日本語を話せなければ教師でさえ利之を忌避した。いじめられたのはほんの少しのあいだだけだったが。

 利之が落とし穴から這い上がって数日後、利之の学友は一切が入れ替わり、教師でさえ別の教師に入れ替わっていたのだ。

 そして彼らは一様に利之に同情的で優しく、従順だった。


――これが、塚谷家の世界であった。


 利之の生まれた国は日本だが、すぐにフランスに渡った。

 小学校に上がる前に両親が離婚し、母親に引き取られる形で日本へ帰ってきた。

 日本の小中高一貫校へ放り込まれるようにして入学したものの、利之は日本語をほとんど喋ることができなかった。

 フランスでの暮らしは貧乏ではなかったが、母の実家である塚谷家の本家は広大な敷地を持つ邸であった。そこには祖父を初めとする本家の一族が住み、当然のように多くの使用人が常駐していて、使用人のいる生活に慣れない利之は戸惑ったものだ。

 母は利之を連れて実家に帰ってほどなく、婿を取った。それは塚谷本家の意向でもあったし、母本人も望んだ政略結婚であった。母は、本家唯一の娘であったのだ。

 新たな父は塚谷系列会社の社長だという男で、彼は利之を疎みもしなかったが、可愛がりもしなかった。

 義父と母のあいだに愛情があったのかは分からない。だが、二人のあいだには二人の子供ができた。その二人の子供たちも、義父同様に利之とはあまりコミュニケーションを取ろうとはしなかった。 

 母と本当の父との生活が楽しかったかと言われれば、それもあまり良い思い出はない。離婚の一年前から両親の激しい口論をたびたび目にしていたし、それが教育上良くないと指導も入った。

 ただ一つの思い出は、両親と食事をした思い出だけだった。

 まだ両親の経営するレストランが小さく、父と母自らが厨房や接客に立ち、切り盛りしていた頃の話だ。店が休みの日、両親と揃ってテーブルにつくことが楽しみであった。両親の会話、父や母からの会話、質素だけれど母が作る美味しい食事。それが利之にとって楽しい思い出のすべてであった。

だがそれもレストランの規模が大きくなるにつれ、両親が忙しくなるにつれて立ち消え、やがては両親が口論する場になってしまった。

 離婚が決まり、親権の話し合いが始まったが父は母の実家の資金力に負けて、ほとんどの不利な条件を呑まされた。

 そうまでして引き取られた利之だったが、母は日々の仕事や社交に忙しく、一年のほとんどを使用人に利之を預けたまま過ごした。

 利之に与えられたのは潤沢過ぎる衣食住と学校との往復。そして膨大な習い事であった。

 初めは日本語の家庭教師だけだった習い事は日を負うごとに増えていき、気付けば日曜日以外はすべて習い事で埋まっていた。利之に拒否は許されなかった。

 それでも、利之の苦労は母の眼鏡にかなうものではなかったらしく、中学に上がる頃には母の関心は優秀な異父弟妹たちに注がれていた。

 厳しいながらも母が直々に声をかける弟と妹を見ながら、利之は理解した。


(この家には、自分の居場所は最初から無い)


 いつの頃からか、分かっていたことだ。

 母は利之を見ると嫌でも思い出してしまうのだ。離婚した夫のことを。

 父にそっくりだと言われたそのブロンドを、染めろとは言わなかったものの母は視界に入れることを嫌っているようだったから。

 母に嫌われるのも仕方のないことなのだと、利之は理解した。


 だから、薦められていた中高一貫校への受験をやめた時、母に呼び出されたことに驚いていた。母付きの側用人に母の茶室へと放り込まれ、六歳から叩き込まれた作法で薄茶をいただくと、母は受験の話を切り出した。

   

「――どうしても受験をやめると言うの?」


 久しぶりに顔を合わせた母は子供の時から変わらずしかめられていて、自分の子供を見るというより出来の悪い部下を見るような目だった。

 母の冷たい視線を浴びるのも久しぶりだと思いながら、利之は自分でも驚くほど落ち着いて相対していた。


「僕はまだ未成年ですし、学費は融通してもらいたいのですが、僕はそれほど優秀というわけでもないので近所の公立中学校へ通いたいと思います。許してもらえないなら、僕は家を出ます」


「……生意気に、私を脅しているつもり?」


 茶釜の前でこちらを睨む母にそう言われて利之は驚いた。  

 利之にしてみれば事実を言っただけであった。塚谷家の子女のほとんどは名門と呼ばれる私立学校へ進学している。公立へ通う我が子など、母が手元に置きたいなどと思うとは考えられなかったのだ。

 驚く利之を、母は珍しくじっと見つめた。

 それは利之が物心ついてから考えても類を見ないほど長い時間だった。

 母の愛情を疑いもしなかった、もっと幼い頃なら母の関心が自分に向けられたのでは、とぬか喜びしたかもしれない。

 けれど、利之はただ驚いただけだった。

 それほどに、母からの愛情はまったく感じることができなかった。


「……まぁ、いいでしょう」


 母は部下の提案を渋々受け入れる時と同じように、深く溜息をついた。


「公立校への進学は認めましょう。ただ、あなたの一人暮らしは認めません。この家から通いなさい」


 話はそれだけです、と一方的に母は話を終え、利之は茶室を追い出された。


 この日から、利之の習い事はすべて打ち切られ、利之は改めて母の関心が完全に無くなったことを知った。



 中学からの生活は、おおむね利之の自由であった。

 小学校までは入学式と卒業式ぐらいは母と義父が顔を見せていたが、中学からの式典には誰も来なかった。

 仲のいい使用人は弟妹たちの行事を優先させただけだと言ったが、何の慰めにもならなかったものの特に気にしなかった。

 それよりも塚谷の中では知りえなかった外の世界に夢中になった。

 学校で交わされる話題は豊富で、テレビ、ゲーム、流行、スポーツ、恋愛、何でもアリの世界が楽しかった。

 今まで習い事に費やされていた時間は、すべて利之の時間になったのだ。

 友達もたくさん作った。部活に買い食い、時に悪い仲間に誘われそうにもなったが、うまく誘いを断ることも覚えた。

 特に部活として入ったサッカーは、利之の心をわしづかみにした。

 母に言わせればただボールを蹴ってゴールを目指すだけのゲームがたまらなく魅力だったのだ。

 単純なゲームだけに技術や戦略は膨大にある。それを駆使してチームを築いていくことが、本当に楽しかった。

 塚谷家に帰れば「サッカーなんて」と鼻で笑われた。それでも、利之にとってサッカーは生活の中心になるほどの存在となっていった。

 

 弟妹たちがいよいよ本家の英才教育に染まろうかという頃、利之は公立高校への進学を決めた。進学校ながらもサッカーの強豪として有名な高校だ。

 これを決めたときも、母の無関心は変わらなかった。


――そのはずだった。


 利之がそれを知ったのは、部活の練習から帰った彼を妹が見咎めた時だった。

 彼女はすっかり母の真似をして、利之を冷たく見て言った。


「そんなに頑張っても、お兄様はすぐにサッカーなんてやめさせられるのに」


「……どういうこと?」


 なるべく声を荒げないように尋ねると、妹は得意げに答えてくれた。


「お母様が言ってたもの。お兄様は今、遊んでるだけだって。高校を卒業したら、サッカーをやめさせて経営をやらせるって」


 頭の中が真っ赤になるような気がした。

 邸の長い廊下を走り出すと、妹の声が利之に突き刺さってくる。


「お兄様は特別なのよ! 自由なんてないんだから!」


 何が特別なのか。

 母にとって落ちこぼれといってもいい利之には、塚谷家での価値はない。


 母の書斎に飛び込むと、母は迷惑そうな顔をしたが「どうしたの」とだけ書類を見ながら口にした。この頃になると老齢の祖父に代わって本家の娘の母が塚谷家のほとんどを運営していて、母は多忙をきわめていたから、今書斎に居ることも珍しいことだった。


「……僕に、経営なんて務まりません」


 忙しい母に婉曲な言葉はいらない。

 利之の言葉に母はようやく顔を上げる。


「務まるかどうかは私が判断するわ」


「ただし」と母は付け加える。


「サッカーは高校生でやめなさい。あなたにはすぐにでも経営学を学ばせたいけれど、あなたも未練があるでしょうから、部活だけは認めましょう」


 まるでそこまで譲歩したとでもいいたげだ。

 利之の人生は、母にとってそれだけのことなのだろう。

 ただ母にとって必要だから、不要だからとチェスの駒のようにして利之の人生を動かしていく。

 

「……失礼します」


 食ってかかって、怒鳴り出すこともできなかった。

 母にとっての自分の価値を、本当に見せつけられたようだったのだ。

 それが悲しいのか、怒り出したいのかさえ分からなかったが、利之はすぐに決めていた。


(家を出よう)


 サッカーは十中八九やめさせられる。

 扶養されている身では母の影響は避けられようがない。

 けれど、母の手を逃れることができれば。

 そうすることができれば、きっと未来が開けるような気がした。


 そう家出を決めたのは、中学三年の冬のことであった。




 家出を決めたあとも、利之は何食わぬ顔で公立高校への進学を決め、サッカー部に入った。

 中学の時から監督やスカウトからクラブハウスに入らないかと誘われもしたが、家族から反対されていると断り続けた。そうしていなければ、唯一の自由の場であった部活にも塚谷の手が伸びるように思われたからだ。

 サッカー部の練習の合間に、家庭教師やコンビニのバイトで貯金したが、塚谷家にとっては少額の小遣いをどう使うのかは誰も気にも留めなかった。

 だから、ある日サッカー部をやめたと言っても、誰も疑問にさえ思わなかっただろう。

 ただ母の方針にようやく従ったのだと、それぐらいにしか思われていなかった。


 そうやって虎視眈々と狙って得た機会を手に、利之は家を出た。


 行き先はフランス。

 一人旅に行くのだと言って、飛行機に乗った。

 もう二度と、日本に戻らないと決めて。


 高校二年の、ひどく暑い夏のことだった。




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