秘書の私
これはチャンスなんだ。
出世の仕方も変わってくる。
相手は大学を卒業したばかりの可愛いお嬢さんなんだ。
守ってやらなくちゃいけないんだ。
お前なら、一人でもちゃんとやっていけるだろ。
どんなに辛くても泣かないで頑張れるんだから。
――どこをどう間違えたのか。
私は弘人の話を聞きながら、そればかり考えていた。
彼は上司の娘と結婚して、出世の道を確実にしたいと考えてる。
そのレールを私では敷いてはあげられない。
このまま関係を続けろと言われているわけではなく、ちゃんと別れを告げられているのだからまだマシなんじゃないだろうか。
彼は優しい人だから、これまで私に言い出せなかっただけなんじゃないのか。
彼は優しい人だから。
――私の痛みに鈍感であっても仕方ないのだ。
弘人の長い言い訳を聞き終えた私は、最後には何とか答えた。
「分かった。別れよう」
きっとそれが彼の一番望む言葉だと知ってしまったから。
――ああ、どうして人の言葉の機微なんて勉強しようと思ったんだろう。
勉強の成果か、私は弘人からはっきりとした誘導を感じ取っていた。彼は私に自分から「別れる」という言葉を引き出したいがためにたくさんの言い訳を並べたのだ。
私がそれをすでに知っているとは知らずに、とても滑稽に。
だから電話を切る直前に一言だけ言い添えた。
「あなたとはもう一生会わない」
せめて知って欲しかったのだ。
私の中の憎しみを。
弘人は私の心の支えだった。
幸せと平穏の象徴と言っても良かった。
私は母との喧嘩のあと弘人のおかげで生きていたと言ってもいい。
過酷な職場と母との喧嘩で疲れ切っていた私にとって、弘人は最後の救いだった。
けれど、弘人にとって私は道具ですらなかったのだ。
きっとそれなりに愛してくれていただろうけれど、それだけだった。
それだけのことだ。
それは彼にとっては風が吹いたら簡単に手放してしまえるほどの戯れでしか無かったのだろう。
私を失望の中へ突き落すとも知らないで。
泣いていたのかもしれない。
けれど私はその日のうちに固定電話を解約し、携帯電話の番号も機種ごと変えた。
絶望のうちにあったが、それでも仕事は容赦なく追いかけてくるのだ。
――その期間のことは、あまりよく憶えていない。
気が付けば秘書としてまっとうに仕事ができるようになり、社長から私が一人で同行するよう直々に言われることも増えた。
石川は相変わらず叱り飛ばしてくれるが、水田と沖島の毒舌は何となくだが鳴りを潜めた。
そんなある日のことである。
社長からこんな相談を受けた。
「井沢。女性へのプレゼントは何がいいと思う?」
よく言えば百戦錬磨、悪く言えば女なんてそこらへんで買える駄菓子と同じと思っている社長から、女性へのプレゼントの相談を受けるとは思わなかった。
珍しいこともあるもんだと思いながら、相手の女性のことを簡単に聞いて答えた。
その時は確か、高価なものではなく美味しいお菓子はどうですかなんて我ながら適当なことを言ったものだ。
――思えば、色ボケした社長のこの質問に馬鹿正直に答えたのが運の尽きであった。
この日から私は社長とその恋人、三澤佳苗のお守りに奔走することになるのである。
※
(いったいどうしてこうなった)
最近よくそんなことを考えてしまう。考えてもどうしようもないことなんて山ほどあるのだが、考えずにはいられなかった。
まさか自分が金持ちどものパーティにお供として同行するはめになるとは思いもしなかったのだ。こういう派手な役目は石川主任か水田女王さまのお役目なのだ。
ただのイケメンだった社長は変わってしまった。
十歳も年下の三澤佳苗という宝物に出会って。
なんでも運命的な出会いをした二人は知らないあいだに恋人になっていた。私が社長から「プレゼントに何を贈ればいい」などという甘酸っぱい相談を受けてからものの数日後のことである。早い。展開が早すぎる。
今や社長は年下の恋人にありとあらゆる手段を使って愛を囁いている。
その余波を私はもろに食らっているというわけである。
どういうわけか、私は社長に重宝されているのだ。
思い当たるのはただ一つ。プレゼント相談の件である。
どうしてあの日あの時、親切にプレゼントの相談など受けてしまったのか。あの時の自分に情けは自分のためにならないのだと平手打ちしてやりたい。
結局、私は色ボケした社長の思い付きに振り回されて、パーティに同行しているのである。
まだ婚約もしていないというのに社長は自分の恋人をパーティに連れ回すのが大好きだ。それに伴い、恋人さまとよく顔を合わせる私も同行を命令されるのである。恋人様が不安がらないように、という社長の気遣いである。本日のパーティは社長の私的な参加なので、私はまったくの業務外勤務をしていることになる。休日手当はつかない。被雇用者への気遣いもしてほしいものである。
私が現在押し込められているのは付き人専用のラウンジで、酒は出ないが(運転手も兼任する人が多いから)食事と飲み物がたらふく食える。
満腹にはなるのだが、胃は痛くなる。
「あの雌豚、また若い男漁ってるらしいわよ」
「社長の風俗通いがまた激しくってぇ」
「あそこの部長とあの子、デキてるらしい」
「この前、鞭握らされそうになって逃げてきたのよ」
まことしやかにあちこちで囁かれる噂話はまとも取り合うと胃もたれを起こすこと請け合いである。私は何のネタも持っていないので誰も話しかけてはこないが、見知った顔に「よっ」と手を挙げられて顔をしかめた。
「人の顔見て何て顔するんだよ。失礼な奴だな」
そう言いながらも何だか楽し気に笑ったのは、何某物産の社長秘書だという滋田という男だ。整った顔立ちながら少し垂れた目が人懐こく、微笑めば甘いマスクという伊達男である。有閑マダムに人気があるだけあって、スーツのセンスも他の秘書とは一味違っていた。今日のスーツは厭味のない紺だが、ワイシャツに細かなステッチがあってこういう細かい仕事ができる男なのだと印象付けるようだった。
「お前、今日もサービス残業か? よくやるよ」
ほら、と滋田が差し出したのはいくつかのカナッペを並べた皿だった。彩豊かに並べた軽食はたかがビュッフェから選んできただけだというのに、食べやすさと見た目の美しさをセンスよく並べている。こういう抜け目のないところが厭味だと思われないのだろうか。
私は遠慮なく滋田のカナッペを口に放り込む。サーモンとジュレのカナッペだ。塩気が絶妙でとても旨い。
「ははは、食べ物だけは断らないよな。井沢」
「食べてなくなりますからね」
食べたものを吐き出せと言われても困るというものだ。
「相変わらず地味な女がいると思ったらお前だもんな。そろそろちゃんとした服着れば?」
この待合室にいるのはパーティには参加しない付き人ばかりだが、皆一様にきちんとしたスーツを着ている。しかも誰も彼もセンスがいい。私のようなリクルートスーツから抜け出せないようなパンツスーツは一人もいなかった。
「滋田さんはお忙しい方なんですから、わざわざ地味な女に話しかけないでください」
滋田はこのセンスのいい一軍の中でも目立つほどの伊達男だ。普段は綺麗どころのお姉さんと待合室を抜け出していくのだが、思い出したように時々私に声をかけてくる。何で声を掛けてきたのかきっかけは知らないが、止めてほしいと言っても聞き届けられたことは一度もない。今もどこかしらからの視線が地味に痛い。
「だってお前いつも一人で食べてばっかりだろ。話し相手になってやってるんだから感謝しろよ」
そういう上から目線は職場だけで十分だ。しかし秘書としても優秀らしい滋田の話は時々ためになるので、ついつい追い払うことを忘れることがある。
「このカナッペ、某レストランのケータリングらしいぞ。二代目シェフになってから結構手広くやってるよなぁ」
「え、あのレストランなんですか?」
「今度、百貨店に女性をターゲットにしたスイーツ専門店を出店するらしい」
滋田の情報網は恐ろしく守備範囲が広い。前のパーティではベテランの秘書とお墓の話で盛り上がっていた。
「おい、あれ。お前の知り合いか?」
ふと滋田が不思議そうに待合室の入り口からどかどかと走り込んで来た女性を指した。なんだか物凄い形相で一直線にこちらへ向かってくる。
手には何故か瓶とライターがあった。
女性は私の前に来るや否や、その瓶をねじ開け、液体を私に向かって振りまいた。
バシャ!
滋田はうまいこと避けたようだが、私は咄嗟に顔を庇えただけった。
この液体、酒だ。
(まずい)
そう思ったときにはもう遅い。女性は私の目の前にライターを突き付けた。
「この泥棒猫! あんたみたいな地味な女がどうしてリョウくんと…!」
訳が分からない。
怪訝顔の私に女性はますます逆上したようで、顔を真っ赤にまくし立てた。
「この前、リョウくんと歩いてるの見たわよ! 秘書課で同僚だって言ってたけど、嘘だったのね!」
思い出した。
彼女はこのあいだの秘書合コンで、沖島がお持ち帰りした女の子だ。
最近合コンに誘われないから、秘書同士で話も合って付き合っているんだろうとタカをくくっていたのだが、とんだ火の粉が飛んできたものである。
「リョウくんがいるくせに、こんなところでまた男と一緒なんてこの雌犬! リョウくんの代わりに私が燃やしてやる!」
彼女自身も手に酒を浴びているから、火をつけるのは自殺行為だ。
それが分かっているのかいないのか、完全に頭に血が上ったこの女性をどうやって止めればいい。
とりあえず説得は試みよう。
「あの」
「リョウくんに謝ってよ!」
「いや、沖島先輩とは」
「リョウくん可哀想!」
話が通じないとはこのことである。
そのリョウくんとやらが可哀想なら、訳も分からず酒をかけられた私はいったい何なのだ。
「あんたを燃やして、リョウくんの目を覚まさせてやる!」
かちり、と音がして部屋中が戦慄する。
しかし火花は飛ばなかった。
私は急激に冷えていく頭で、女が持つ酒瓶を確認した。
ラベルにはでかでかと、純米吟醸酒とある。
この女、日本酒を私にぶっかけやがったらしい。
燃えるわけがない。
私としたことが気が動転していて、日本酒の豊潤な香りを見過ごしていたようだ。
逃げた滋田を横目に睨むと、今にも笑い出しそうな顔をしている。彼は初めから日本酒だと分かっていたらしい。
「え、え? あれ?」
ライターをかちかちと繰り返す阿呆な女を私は睨みつけた。こんなのが秘書だと思われたくないし、思いたくないのだが、仕方ない。
「御用はお済みでしょうか?」
にっこり笑って言ってやると、女はみるみるうちに青ざめた。
「言っておきますが、同僚の沖島のことは太陽が西から昇って地球がひっくり返っても男として見ることはございませんのでご安心ください」
沖島は一度女に刺されてしまえばいいのだ。
だが、この女にも落とし前はつけてもらおう。
「日本酒、無駄にしやがって! この馬鹿女!」
パーン、と私が女を平手打ちしたところで、ようやく警備の人たちが慌てた様子で駆け込んできた。
毎日がスリリング過ぎて失恋した痛手も治りそうにない。
日本酒女は、今日のパーティに同行していた秘書だった。
彼女は沖島との別れ話がこじれていて、その矢先、沖島と社長の仕事先に同行していた私を見かけたらしい。どうして仕事中だと思わなかったのかはまったくもって謎だが、とにかく彼女は私が沖島が別れを切り出した原因の女だとあたりをつけていた。彼女が沖島に引っ掛かった合コンに例のごとく連れていかれてたしね。
そんなとき、私をこのパーティで見つけて発作的に火傷の一つも負わせてやろうなどという、これまた短絡的かつよく分からない理由でパーティ会場から日本酒をくすね、誰かしらからライターを借りて待合室に乗り込んできたようだ。
彼女の失敗はもはやどこからどう突っ込んでいいのか分からないほどだが、パーティ会場にウォッカやスピリタスなどというものが無くて幸いだったということか。
「まぁ、フツーは危ないものなんか置かないよな。政財界のお偉いさんが来るパーティだし」
パーティには刃物や火器類を置かないのが原則だ。
滋田は物騒なことを言いながら私にバスタオルを寄越してくれる。
警備員が飛び込んで一層騒然となったが、主催への報告などを一手に引き受けたのは意外にも滋田だった。彼は持ち前の人たらし術で主催から個室を借り受け、私にシャワールームを提供させたのである。
日本酒女はとりあえず喧嘩両成敗ということで警察には突き出されずに済んだ。ただ会社での処遇はどうなるか分からない。
「お前、警備員が来るのを見計らって平手かましただろう」
滋田の呆れ顔に私は答えなかった。あまりにも馬鹿馬鹿しいことで警察のお世話になりたくなかっただけだ。これ以上の面倒事はたくさんだ。
「妙なところでお人好しだよな」
呆れながらも滋田はとても楽しそうだ。私はちっとも楽しくない。
「ま、さっさとシャワー浴びろよ。石川に連絡しといたから」
「はぁ!?」
どうしてアンタが石川の連絡先知ってるんだよ!
というか、なんであの鬼に連絡した!
「滋田さん、何で石川主任に連絡なんて…!」
「さっさと入らないと一緒に入るぞ」
滋田は意地悪く笑って、私をシャワールームに放り込んだ。私は思わずシャワールームに鍵をかける。その音を聞いたらしく、ドアの外では滋田が大笑いした。本当に性格の悪い伊達男だ。
とりあえず石川が来るなら急がなければならない。
私は酒の匂いを落とすために洗い場へ駆け込んだ。
私がものの十分ほどで慌ててシャワールームから飛び出すと、滋田は驚いた顔で私についてきた。
だが構っていられない。早くここを出なければ。社長たちのお守りの前に石川に弁解だ。
「ちょっと待てって。まだ髪が濡れてるぞ」
まるで風呂あがりの子供を追いかけるようにして滋田はタオルを私の頭に被せて拭こうとするが、私はそのままドアへと向かう。
「すぐ乾きます」
「風邪をひく…ってあーあ」
滋田の呆れ声と共にノックが鳴るや否や、すぐにドアが開かれた。石川だ。珍しくひどく驚いた様子で、切れ長の目を見張っている。
何か弁解しようと口を開きかけたが、石川の方が早かった。
「井沢! お前はどうしてそう面倒事ばっかりに引っ掛かるんだ!」
頭の上から怒鳴り声が響いたかと思えば、大きな手にタオルごと髪をわしゃわしゃとかき混ぜられる。いくら怒っているからって、妙齢の女性に犬を拭くような乱暴さはいけないと思うんだけど!
私がいくらか抵抗すると、大きな手は勢いを緩めたものの私の髪を拭くのを止めようとはしなかった。柔らかな手つきで頭を撫でられるかわりに、大きな溜息をつかれる。
「……沖島の悪癖に乗るな。あいつはお前が甘やかすからつけ上がってるんだ」
甘やかすも何も、沖島の合コン好きはすでに病気だ。私は振り回されているに過ぎない。
タオルの下で口を尖らせていると、石川が低く指摘してくる。
「食べ物に釣られる性格をどうにかしろ。いつか痛い目を見るぞ」
我が上司はどうしてこうも痛いところをつくのがお上手なのだろうか。
「社長への同行も最近目に余る。業務扱いでないものは極力断れ」
それができればこんな風に日本酒かぶっていないのです。
「分・かっ・た・か?」
言い聞かせるように言われて、私は渋々「はい」と答えた。
石川の指摘はもっともだが、トラブルはいつも向こうからやってくるのだ。
ぐちぐちと心の中に不満を貯め込んでいる私の頭を大きな手は柔らかく丁寧に拭いた。意外にも慣れた手つきだ。
「……まったく。お前のせいで過労になりそうだ」
石川の溜息が近い。鬼の主任から爽やかなシトラスの香りがして何だか複雑な気分になる。鬼のくせにこんな甘酸っぱい香りがしてていいと思ってるのか。
「石川。これどうするんだ?」
私の後ろから滋田が石川に声をかける。その気安い言葉に石川も平然と答えた。
「タクシーにでも乗せます」
「連れて帰らないのか?」
「社長の同行を引き継ぎますので。これの仕事ですし」
これ、とはどうやら私のことらしい。口を挟めばまたお小言を食らうだけなので私は大人しく髪を拭かれておく。
「お前が送らないなら、俺が送っていこうか」
「遠慮しておきます」
石川の実に嫌そうな声に滋田はハハハとひと笑いする。
「鉄面皮のお前のそんな顔、初めて見た」
「余計なお世話です。――帰るぞ、井沢」
するりと大きな手が離れたかと思えば、すでに石川は踵を返している。
急いで追いつかねばならないが、不本意ながら滋田には今夜多大に世話になった。
「滋田さん、ありがとうございました」
「おお、珍しい。井沢のお礼は貴重だな」
そんな憎まれ口を叩いたが、滋田も珍しくはにかむように笑って私を追い払った。
悪い伊達男ではないのだが、性格がひねくれているのだ。滋田という人は。
石川について玄関ポーチまで出るとすでにタクシーが待ち構えていた。
鬼上司は私をタクシーに押し込めると、止める間もなく運転手に先払いしてしまった。
「これに乗って帰れ。酒臭い秘書は役に立たん」
確かにそうだがこの人の口の悪さは本当にどうにかならないものなのか。
「週明けは休むなよ。視察と会食とスピーチがある」
月曜日が来ないで欲しいと願いたくなるスケジュールである。
溜息をこらえていると、不意に肩にかけたままだったタオルを頭から被せられた。
だがそれきり石川は何も言わない。
沈黙に耐えられなくなったのは私の方だった。
「……あの、滋田さんとお知り合いなんですか?」
「ああ。腐れ縁だ」
何となく分かるような気がする。石川と滋田が気が合うとは思えなかった。
妙に納得した私の頭に、タオル越しに大きな手が乗せられた。
「あとのことは俺に任せろ。――風邪をひくなよ」
呟くような早口は幻か。
大きな手が離れていくと、石川はタクシーのドアを閉めた。
何か確認しようにも、石川が「出してください」と言ったタクシーは私のことを待たずに走り出してしまう。
思わず窓から石川を見つけると、鬼上司はすでに背中を向けていた。
何なんだ、あの人。
あんなに良い香りがするくせに、モテないなんて詐欺だろう。
(変な上司)
俺に任せろなんて、どの口が言うんだ。
――うっかり安心してしまったじゃないか。
私は自分で思っていたより恐々としていたらしい。
誰より怖いと思っていた鬼上司に叱られたというのに、その鬼上司の言葉で肩の力が抜けてしまったのだ。
私は結局タクシーが駅前に着くまで、すっかり眠りこけてしまった。
※
翌月曜日、沖島が珍しく私に謝ってきた。
先日の事件を誰かから聞き及んだらしい。
「――あの女とはさっぱり別れたから。迷惑かけて悪かった」
そのひどくバツの悪そうな顔が物珍しくて私は思わず口走ってしまった。
「何か悪いものでも食べたんですか?」
ふっと沖島の向こうで笑ったのは水田女王さまだろうか。
沖島は苦虫を潰すような顔をして「お前ってホントは口悪いだろ」と唸った。
その日も私は相変わらず水田に怒られ、沖島にからかわれ、
「井沢! さっさと茶を出せ!」
石川に怒鳴られた。
石川はどうしてああも残念なイケメンなんだろうか。せめて怒鳴らなければさぞモテるだろうに。
そんなことを面と向かって言えるほど、私の心臓は強くない。
だから「はい」と大きく返事をして、忙しい毎日を送るのだ。
けれどこの業務だけは好きになれない。
「井沢、ホテルのインペリアルスイートを押さえてくれ。あと佳苗に贈る花束も」
恋人との愛に溺れる社長の要望は日に日に面倒臭さを増していく。
――ラブストーリーなんてうんざりだ。よそでやってくれ。
本音を言えたらどんなにいいだろう。
しかし私は悲しき社会人で、秘書であった。




