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秘書のわたし 番外編  作者: ふとん
秘書のわたしになるまで
1/9

しがない事務の私

相変わらず設定はいい加減です。

あまりツッコミは無しの方向でお願いします。


 その日は確か、とても忙しい日だった。


 決算が近いこともあって庶務一課はどの部署からも引く手あまたで、隣の席では違う部署の書類整理を手伝っているというような有様だった。

 だから、私のような二十六になろうかという中堅はとても忙しかった。


「井沢」


 次を頼む、と係長に呼ばれて私は次の書類を受け取った。正直助かった。さっきまで会議に必要だとかいう椅子の数をひたすら数えていたのだ。椅子はもういい。

 けれど受け取った書類もひどかった。分厚いファイルが三つもある。

 これを今から整理しろという。時計を見れば、終業時間間近であった。

 私は結局、残業を係長に申請した。

 残業は嫌いだが、働かねばならない。


 先月、長くお局様として在籍していた庶務課のお姉さんが寿退職した。

 入社当初から優しくも厳しくご指導くださった皆のお姉さんである。

 披露宴にお呼ばれし、五歳年下の彼との幸せそうな姿を拝見し、私も柄にもなく和やかな気持ちになったものである。

 そして同先月、大学時代の友人が第二子を早々と出産したと報告があった。


――お分かりだろうか。ご祝儀貧乏というやつである。


 無論、めでたいこと続きなのは弁解のないところである。だが私の懐が膨れる話でもない。

 二十六になりつつある独身女の懐事情などこんなものだ。しばらく飲みにも行けそうにない。


 そうして溜息をついているうちに残業組は一人二人と消え、とうとうフロアには私一人となった。

 庶務のフロアはだだっ広く、パーテーションもない。そして人のいない場所は一つずつ明かりが消されていくので、気が付けば私はまるで舞台女優にでもなったかのようにスポットライトを浴びていた。むなしい。

 観客のいない舞台で大きく伸びをしていると、男性が一人慌てたように庶務課のフロアに駆け込んできた。

 背の高い人だ。私のスポットライトに気付くと何やら駆け寄ってくる。

 光の下に現れたその人は、大層整った顔立ちをしていた。

 日本人らしくない切れ長の目、高い鼻に薄い唇。微笑めばモテるだろうに表情は硬い。地味だが清潔感のあるスーツときちんと整えられた黒髪も相まって、雰囲気はまるで質実剛健な騎士のようだった。だが、今は焦ったように眉が歪められていて微妙に艶めかしい。清廉潔白な騎士を悪い冗談にひっかけてしまったようで、訳もない背徳感に私はわずかに目を逸らした。


「まだやっていたんだな」


 背徳の騎士さまは私の手元にある分厚いファイルを見咎めるように目を細める。


「それが何か?」


 相手がどんな人かもわからないので、胡乱に見上げると彼はますます顔をしかめた。


「……締切を書き忘れた」


 ぼそりと言った彼の言葉に私はそういえば、とファイルの書類にある締切を確認した。日付はない。だから係長も今日中の締切なんだろうと私に渡したのだ。


「……本当は一週間後の締切にするつもりだった」


 どうやらこの人がこの迷惑な書類の預け主らしい。

 やれやれ無駄な残業をしてしまった。残業代はつけていただくけれど。

「そうですか」と私が整理を始めると彼は不思議そうな顔をする。


「もういいぞ」


「これで終わるんです。ついでなので持って帰ってください」


 机の上に分けておいた書類をまとめれば、これで終わりだ。

 整えてファイルで綴じて隣でこちらを見つめるイケメン騎士さまに手渡す。


「お疲れさまです」


 書類を手渡されたイケメンがじっとファイルを見つめているので、仕方なく補足説明をする。


「色違いの付箋で分けていますが確認はしてください。あと誤字もあったのでそこにも付箋をつけておきました」


 余計なことだったかもしれないが気になったのでつけておいたのだ。

 怒るなら怒れ、と見上げるとイケメンは表情筋をわずかに緩めた。そうするだけで驚くほど綺麗な顔が引き立った。いつもこうしていればいいのに、と不愛想といわれる自分を棚に上げておく。

 

「……早くて助かった。これからも頼む」


 今度はこっちが驚いた。

 まさかこのクールビューティから労いがもらえるとは思っていなかったのだ。

 私が間抜けに目を見開くとイケメンは目を細めた。

 その穏やかな瞳が思いのほか優しく感じられて、私は思わず視線を外す。この人、意外と女ったらしなのかもしれない。

 外した視線の先では、もうすぐ時計が夜の九時を指そうかというところだった。


「……あーあ」


 思わず溢すとまたイケメンに見つめられた。しまった。これでは話を聞いて欲しいとねだったようなものだ。でも誰かに話したいような気分でもあったので、私は観念して笑った。


「今日があと三時間で終わりますね」


「何かあるのか?」


 怪訝なイケメンにまた笑う。


「大したことじゃないんです。私、今日が誕生日でして。二十五歳が終わるなぁと」


「……もう二十六歳なんじゃないのか?」


 もっともな意見に私は口を尖らせた。


「誕生日はセーフなんですよ。私が決めました」


 ふっと吐息が聞こえて、咄嗟に見上げるとイケメンが口元を手で隠していた。笑った? 笑ったのか?

 凝視する私の視線を避けてイケメンが目を逸らす。


「――誕生日に残業をさせて悪かったな」


 空耳か。

 イケメンは私を横目にぼそりと言う。


「……誕生日おめでとう」


 そう言い残してイケメンさまはさっさとフロアを去っていってしまわれた。

 残された私はしばらく空いた口が塞がらず、やがて大笑いしてしまった。


 なんて恥ずかしがり屋のイケメンさまだ!


 同郷の友人にいい酒の肴が出来たと私はひとしきり喜んで、その日は疲れていたが和やかな気持ちで帰宅することができた。

 イケメンはやはり保養になるらしい。



 ※



 そんな残業をした数日後、私は季節外れの辞令を渡された。


「…………は?」


 その辞令は移動命令であった。

 移動先は、秘書課。

 何かの間違いだろうと係長を問い詰めても、首を横に振られるばかりだった。


「どうも向こうが井沢を是非にって、人事にねじこんだらしいんだ」


「人事って…」


 人事に恨みを買った覚えもなければ、秘書課の偉い人の知り合いもいない。

 庶務は庶務なのだ。事務職と管理職が出会う場面などそうあるはずもない。


「……いったい何の陰謀なんでしょうか」


「それは僕に分かるはずもないな」


 中年オヤジの係長は神妙に頷いて「まぁ仕方ない」と困った顔をする。


「井沢くんは我が課のホープでとても残念だけど、秘書課でも頑張っておいで」


 君ならやれるさ、と万年中間管理職のおじさんに言われたところで何の薫陶にもならなかったが、私は辞令を手に古巣の庶務から旅立つことになってしまった。



 移動先の秘書課は、本社ビルの上位階に位置している。

 秘書課の近くには社長室もあって、庶務のただ広いフロアとは違って部屋に分かれているどころか何だかカーペットまで違う。ふかふかだ。

 制服ではなく、スーツを着用しろということで私は入社以来袖を通していないパンツスーツをクローゼットの奥から引っ張り出してきた。ヒールも黒がいいだろうと葬式用だ。

 移動用の段ボールを手に秘書課の前に立つと、中ではすでに人が忙しく働いている様子が伺えた。始業時間は九時で、まだ八時半のはずだが。

 すでに人がいることに何だか緊張が高まって、それでも入らないわけにはいかないのでノックもそこそこに秘書課のドアを開ける。

 ざっと、人の視線が私に集まった気がした。

 でもそれは一瞬で、挨拶もなく人の視線は霧散した。

 あっけにとられて私は立ち尽くしてしまった。

 いくら季節外れの人事だといえ、知らない新人が来れば声ぐらいは掛けるはずだ。庶務はそうだった。

 大声で挨拶してもいいが、どうすればいいのかも分からず棒立ちになっていると横から「おい」と声を掛けられた。

 顔を上げてみると不機嫌なその顔に見覚えがあって声を上げる。

  

「あ」


 私の間抜けな顔に、今日の彼は不機嫌に顔をしかめた。


「井沢真由美だな。さっさと席につけ」


 穏やかに和らげることもできるはずの切れ長の目に睨まれる。

 ついてこい、と言わんばかりに踵を返すので慌ててついていくと「ドアを閉めろ」と厳しく言われた。

 長身のあとについていくと、机を横に四つ、端に一つずつ繋げたグループがある。横並びの机ではすでに二人が仕事をしている。目の覚めるような美女と爽やかそうな青年だ。

「おはようございます」と一応言ってみるが、彼らもちらりと私を見ただけで何も言わなかった。


「手前が沖島、向こうが水田。分からないことは彼らに訊け」


 面倒そうに言うと彼が立ち去ろうとするので「あの」と声をかける。

 するとあの日のように焦る様子もなく、和ませる様子もなく彼は私を睨んだ。


「俺は石川だ。役職は主任」


 あの日、恥ずかしそうに私の誕生日を祝ってくれたイケメンはもうどこにもいなかった。

 彼はただただ、私を不機嫌に睨む不遜な上司となっていた。


「井沢真由美。お前にはこれから我々、社長秘書の一員になってもらう」


 本当に不吉な命令をくれる、口の悪い上司さまである。




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