十三、覚えてますか?(☆)
ある日の黛夫妻の会話です。
妊娠中期5ヶ月くらいのイメージです。
※別サイトとは一部表現に変更があります。
二子玉川にあるショッピングセンターに図書館カウンターがあると知って以来、七海はショッピングがてらよくそちらを利用するようになった。
以前は雑誌などはタブレットやスマホで確認する事がほとんどだったが、カウンターで紙の雑誌を借りて読む事が多くなった。電磁波の胎児に対する影響を考えて……と言うより、液晶画面を見るのが以前より疲れるような気がしたからだ。そういえば悪阻が酷い時はテレビの音もトゲトゲしく感じる事があって、電源自体あまり点けていなかった事がある。更に体調が悪い時は音楽もクラッシックしか聞けない時期もあった。妊娠してから疲れやすくもなったし、妙に感覚が鋭くなったような気がする。
新しい雑誌や本は図書館で手に入りにくいので書店で購入するしかないが―――処分するのも勿体ないので予約出来る分はなるべく図書館カウンターを利用するよう心掛けている。
休日の昼間、ソファに座って妊婦向けの雑誌を読んでいる時、ある記事に目が留まった。
『胎内記憶~尋ねてみよう、生まれる前はどうだった?~』
翔太が生まれる頃、育児雑誌や本でこのような記事を目にした事があった。興味があったので翔太とお風呂に入った時など何気なく尋ねてみたが、とうとう彼からはそのような想い出は語られる事は無かった。両親はと言うと、上の三兄妹で何度も試みて結局聞き出せずに終わったので翔太には何も聞かなかったらしい。もうすっかり諦めていたそうだ。
「本当に体験した人なんているのかな?」
絶対無いとは言い切れないと思うが、大多数は後から見た記憶が組み合わさった場合が多いのじゃないかと七海は考えるようになっていた。
「どうした?」
先ほどベッドから起き出したばかりの黛がシャワーを浴び終わり、七海の隣にポスンと腰掛けた。体を寄せて、手元の雑誌を覗き込む。
「胎内記憶……翔太に聞いてみたんだけど、全く覚えてなかったんだよね」
勿論、七海にもそのような記憶はない。身近な人間から体験談を聞く機会もこれまで無かったので、七海はその存在そのものに懐疑的になりつつあった。
「お腹の中にいた時の記憶―――あったら面白いなぁって思って何度か尋ねてみたんだけど」
「俺は覚えていたらしいぞ」
「えっ」
「生まれた時の産科医の服装とか部屋の中を覚えていた事があるって、玲子が言ってた」
「本当?」
「ああ、俺が退院した後あの病院リフォームしたから間違いないんだって。玲子も親父も俺に分娩室での話した事無かったから、かなり驚いたらしい」
こんな身近にいたとは!と、七海は珍しい物を見るような目で黛を眺めた。
「やっぱ記憶力の良い人って、赤ちゃんの時からそうなのかな?」
「いや、そういう基準じゃないんじゃないか?何かで読んだけど、胎内記憶は胎児は皆持っているものでオキシトシンの働きで消えてしまうらしい。だから生まれた子供のうち胎児の頃の記憶を持っている奴は三割くらいだって―――つまりパソコンで言えば、ハードディスクを初期化したかしなかったかってくらいの違いでしかないだろ?」
「『オキシトシン』って……ええとホルモンだっけ?確かストレスが減るとか言う……」
「『幸せホルモン』とか『愛情ホルモン』って言われているな。一般的には皮膚接触で放出されるそうだ。例えばこんな風に……」
頬に手を伸ばされてするすると撫でられる。それからチュッとそこへ黛の唇が吸い付いた。ボンヤリとされるがままになっていた七海はハッと気が付いて体を引く。何となく不穏な空気を感じたのだ。起きたばかり昼の日中からと言うのは困る。せっかく二人の予定重なった貴重な休日だ。七海の計画では、これから黛と散歩がてら図書カウンターに本を返して、序でにショッピングセンターでランチを食べようと計画していたのに。
「うん、分かった。なるほどね」
そう言って雑誌に目を戻す。すると黛は七海に体を寄せて耳元で囁いた。
「……まだ足りないんじゃないか?」
雑誌を奪われてソファの背に押し付けられた。ニンマリ笑っている悪戯めいた黛の瞳に―――七海は慌てて反論した。
「手、手を繋ごう!これも皮膚接触!」
そう言って向かい合ったまま、黛の右手を左手で、左手を右手で取ってキュッと握って笑って見せた。ちょっと見、まるでレスリングの試合の開始直後のような状態にも見える。
「……」
「あ!あのね、行きたいトコがあるんだよねー。新しく出来たファミレスでね、子供連れでも行けるって言うから生まれる前にチェックしたいなぁって」
黛はジットリと七海を睨んでいたが―――それから諦めたように身を引いた。
「じゃ、もう出かけようか?黛君とお散歩、久し振りだから楽しみだな~」
自分でも少々強引な気もしたが……フッと諦めたように黛が微笑んでくれたので、七海は胸を撫でおろした。
それから久し振りに二人でお出掛けする事を楽しみにしていた彼女は、ウキウキと出掛ける準備を始めたのである。黛はそんな七海を優しく見守りつつ、彼女の計画に大人しく付き合ったのだった。
が、勿論彼は諦めた訳では無い。
諦めたのではなく実行を延期しただけなのだと言う事は―――後ほどじっくりと七海は夫から教えられることになるのである。
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