(14)黛先生の婚約者
K大病院からほど近い外苑西通り沿いのダイニングバーで黛を待っていると、少し離れた席に座っている同じ年頃くらいの女性二人の話が急に七海の耳に飛び込んできた。
「黛先生ってさ……」
スマホを触る手が止まってしまう。ほど好く混んでるそこはガヤガヤと話し声が交錯していて、それまで彼女達の話は七海の耳に届かなかった。なのに恋人の名前が出た途端、クリアにその二人の声だけを鼓膜が拾い始めるから不思議だ。漫画だったら今七海の耳はダンボみたいに大きくなっている事だろう。
「カッコイイよね~、寡黙な美男って感じで!」
「えーでも、愛想悪く無い?必要以上の話しないし、なんか近寄り難い雰囲気あるよね」
「平岩さんとは結構仲良く話していたよ」
「パートのおばさんでしょ?ひょっとして熟女好きなのかな……?」
七海は耳を疑ってしまう。
『美男』は置いておいて―――『寡黙』とか『熟女好き』とは何だ。黛のイメージと掛け離れている人物像に、思わず内心突っ込みをいれそうになってしまう。
「……遠野先生みたいに、もうちょっとにこやかに出来ないのかな?」
「でもさ~遠野先生って、遊び人っぽくない?」
「まあねー、弘崎さんと松本さん、火花散らしているよね。先生どっちにも良い顔しているから……」
黛の話題から離れたようでホッとする。
しかし病院で働いている看護師さん?……だろうか。
少し大学病院から距離が離れている店だから、職場に関係する人間がいると考えていないのだろうか。実名を上げて大丈夫なのかな……と七海は他人事ながら心配になってしまう。
すると暫くして再び話が黛の事に戻ったので、またしても七海の耳が自動的にダンボ化した。
「それでさ!聞いた?黛先生、婚約したって言うの」
「うん、聞いた。確か高校の同級生って」
「加藤先生がさ……」
聞き覚えのある名前にドキリと心臓が跳ねた。
何となく聞きたくない。だから違う事に意識を向けようとスマホに目を向けるが、どうしても意識がその女性達の会話から離れなくて困ってしまう。
「その婚約者を見た事あるらしくて『地味で目立たない』とか『彼に似合ってないから、すぐ別れそう』とか遠回しに貶してたよ」
(いや、おっしゃる通りですけどね……っ)
否定できないのがもどかしかった。七海本人もそれは重々分かっているので、尚更他人の口から聞きたく無い。それにしても何処が遠回しなのだろうか。直球じゃないか―――とやや、やさぐれた気持ちになってしまう。
「それはさー、やっかみでしょ?だって加藤先生って黛先生と仲良いアピールすごかったじゃない?確かに同級生だから気安い口もきいているし、黛先生も看護師にきかないぶっきらぼうな口調で話していたけど―――それを、気の置けない親しい間柄だからって加藤先生がわざわざ強調してたんでしょ?上条さんに向かってさ」
「ああ……加藤先生、黛先生とよくセットになる上条さんを牽制していたよね。彼女、綺麗だから……」
「でも上条さん彼氏いるし、黛先生タイプじゃないって言ってたけどね。だから加藤先生の事、うっとうしかったみたい」
「でも良い気味じゃない?加藤先生、黛先生が自分に気がある……みたいな事匂わせていたでしょ?それが全然違ったって言う……高校の同級生だったら、加藤先生よりずっと長い付き合いなんでしょ?」
辛辣な物言いに、七海も聞いているだけでヒヤリとしてしまう。
やはり加藤はあの調子で職場でも軋轢を生じさせているらしい。ある意味、裏表の無い自分に正直な人間……と言えるかもしれない。
「そうだねー、きっと悔しいから彼女の事落として言ってるんだよね?黛先生の婚約者、本当はスッゴイ美人だったりして。だから加藤先生わざと彼女の事『地味』だとか『目立たない』とか言ってるんじゃない」
「そうだよね~、あれだけ美男子だったらきっと彼女もかなりの美女のハズだよねー」
七海は頭を抱えて、知らず姿勢を低くしてしまう。メニューをサッと手に取り相手はこちらに気が付いていないのに、顔を隠して息を殺した。何だかひどく申し訳なくなってしまったのだ。
(加藤さんの言う通りなんです~、『地味』で『目立たな』くて、ついでに『似合っていない』庶民なんです~!!)
全くその通りだと七海は思う。そしてこの後起こる事を想像して蒼くなった。
ここに黛が現れたら―――彼女達は加藤が言っていた事が真実だと一瞬で知るのだろう……と。
これまで何度も彼の溢れ気味の好意に溺れそうになった七海は、既に黛の気持ちに疑いを持ってはいない。自分も勿論黛が大好きだし、彼から離れようと言う気持ちは微塵も持っていないが―――今この場で彼女達に自分が黛の婚約者だと名乗り出るような真似は―――何だかとってもしたくない。そう思ったのだった。
「おい、何してるんだ?具合でも悪いのか?」
テーブルに突っ伏して怯えている七海に向かって、覗き込むように黛が声を掛けた。
(ひーっ)
七海はメニューで顔を隠しつつ、黛に向かって小さな声で言い募った。
「しーっ静かにっ!座ってよっ」
「は?お前大丈夫なのか?」
通常運転の黛は、七海の意図を理解してくれない。
「あっ黛先生!」
すぐに、二人の女性に気付かれてしまった。
「ああ、茂古沼さんと鳥飼さん、お疲れ様です」
「お疲れ様でーす」
「お疲れ様です」
黛はペコリと頭を下げてから、席に着いた。
七海はメニューを見る振りで顔を隠し、不自然にソッポを向いている。
「なにしてるんだ?」
ヒョイッとメニューを奪われ、七海は真っ赤になってしまう。
すると噂話をしていた女性二人が興味津々でこちらを見ている瞳とバッチリ視線が合ってしまい……顔を真っ赤にしたまま、えへらっと笑って会釈をすると言う、より情けない状態に陥ってしまった。
向こうも薄ら笑いで気まずげに会釈を返してくる。
七海は無性に、泣きたくなった。そんな七海の心情を理解していない黛はもう既に察している情報を彼女に与える。
「あの人達、うちの看護師さんなんだ」
「あ……そう、みたい……ね」
息も絶え絶えに返事をする七海の顔を、黛は覗き込んだ。
「お前、本当に大丈夫か……?」
「うん……ひゃぁあ」
熱くなった額に黛の冷たい手を当てられて、思わず変な声が出た。
「帰るか?」と優しく言われ、七海は速攻で頷いた。女性陣の視線にこれ以上耐えられそうに無い。
席を立ち、再び彼女達と目が合い会釈を返す。二人とも、何故か満面の笑みでニコニコしていた……。
七海と黛の二人が立ち去った後、看護師の茂古沼と鳥飼は顔を見合わせた。
「……本当に、地味だったね……」
「うん」
「まあ、美女って言うかどっちかって言うと『可愛い』系??確かに目立たない感じだけど、優しそうって言うか」
「なんかちょっと、黛先生の印象変わったな。素敵かも」
「え?あんまり好きじゃ無いって言って無かった?」
「失礼な言い方かもしれないけど、加藤先生の方がよっぽど美人だしお金持ちじゃない?でも黛先生全然加藤先生のアプローチに靡かないし、素朴な彼女と仲良さそうだから性格重視なのかなって。いっつも冗談も言わないから顔がイイだけに冷たい印象があったんだけど―――」
「そうだね。うん、なんか彼女としっくりしてる感じで良かったよね。あんな派手な顔してるわりに、黛先生って堅実なんだね~。仕事では寡黙なのに、彼女には優しいっつーのが意外性あって良いなあ……。あーあ、私もあんな彼氏、欲しいなぁ~~!」
七海にとってはあまり嬉しく無い評価をいただいたのだが―――この噂はすぐに病院の看護師仲間の隅々まで広まって―――七海は図らずも陰ながら、黛の株上昇に一役買う事になったのである。
ダンボ化した七海でした。
加藤先生も相変わらずのようです。
お読みいただき、有難うございました。