(99)黛先生の悩み事
進路について悩む黛のお話です。
研修医は二年目に、大学の附属病院を出て他の病院で経験を積むことになっている。
都内の総合個人病院、緊急医療センター、離島のうちどれかを選択しなければならないのだが……人気が集まる研修先、不人気な研修先はその年その年で流行があり違う。今年の不人気は、去年人気だった緊急医療センターだった。
妻が妊娠中の黛は都内の病院を希望していた。必ずしも抜けられるとは限らないが何かあれば駆けつけられる距離ではある。離島には産科も助産院も無いので、もし七海が仕事を辞めて島まで着いて来てくれたとしても出産前後は離れ離れになってしまう。緊急医療センターでは激務は当り前だ、同じ都内に住んでいたとしても顔を合わせる時間が今以上に少なくなってしまう。都内の総合病院だって忙しい事には変わりないのだが―――そんな消極的な理由で黛は進路を希望していた。
そんな心掛けが原因になったとは思えないが。
黛の行き先は、最も避けたいと思っていた緊急医療センターになってしまった。
七海と付き合う以前、研修医になりたての頃、実は黛は緊急医療センター志望だった。父である龍一もかつて経験したと耳にしていたし、早く一人前になる為に過酷な環境に身を置くのも良いかもしれないと考えていたからだ。つまりは自分の実力の無さに焦っていたと言う事なのだろう。
そして元々黛が外科医を志望したのも龍一の背中を追っての事だった。できれば父親と同じ外科分野、そして同じ整形外科医になりたいと思っていたくらいだ。著名な父親と比べられ外野アレコレ言われるだろうが―――黛は昔から人に陰口を叩かれるのも絡まれるのも慣れているし、特にそう言う悪意は気にならない性質だった。
けれども。諦めていた恋が実り結婚まで漕ぎ付け、彼女のお腹の中に自分の子供が宿っている今となっては―――遣り甲斐を重視して忙しく過酷な道を選ぶ事に、躊躇いの気持ちが生じ始めている。
父と玲子の夫婦関係を黛は否定はしない。同じ時間を過ごす事が少ない家族ではあるが愛情に疑いを持った事はない。口には出さないが黛は両親をそれぞれ尊敬している。だからずっと父親の軌跡をなぞるように、そのガッシリとした背中を追いかけて来た。そうする事が接する時間の極端に少ない、自分達親子の証のような気がしていたのだ。
見た目には全く現れていないが、黛は近頃悶々と悩んでいた。そして頼れる看護師、平岩に思い切って尋ねてみる事にした。平岩の夫は緊急医療センターも経験している外科医で、一番過酷で忙しいと言われる消化器を担当している。彼はパワフルな働き振りで外科医の世界ではちょっとした有名人だった。
「平岩さんの旦那さんって忙しいですよね」
「そうね」
「ほとんど家に帰って来ないんじゃないですか?その―――夫婦間で揉めたり……別れようとか考えたりしませんでしたか?」
否定的な聞き方をしてはいるが、黛は少し平岩の発言に希望を持っていた。例えば「忙しくて会えないけど、尊敬しているから」とか「会えなくても大丈夫。愛情があるから」とか―――通常の平岩のイメージから、そのようなポジティブな回答が返って来るのでは、と期待していたのだ。
「揉めた事はないね」
「!―――そうなんですか?」
やっぱり平岩はスゴイな、と黛は思った。おそらくほとんど一人で子育ても家事もこなしただろうに飄々と答える様子に感心さえしていた。
しかし続いて出て来た平岩の台詞に黛は絶句する事になる。
「うん、諦めてるから。何であんな人と結婚しちゃったんだろ?お医者様としては優秀だけど、家庭人としての存在は皆無。もう遠洋漁業に出てる漁師か、カメラ片手に飛び回っている冒険家だと思う事にしているの。ほら、都内に居るのに帰って来ないのかよ、って思うと腹立っちゃうからね」
平岩の率直な言葉に、黛は少々顔色を蒼くする。自分の将来を暗示しているような気がしたからだ。
するとその様子に気が付いた平岩がカラカラと笑って、黛の肩を叩いた。
「黛先生新婚なのに緊急医療センターなんだって?どうしたの、不安になっちゃった?」
「今、更に不安になりました……」
肩を落として溜息を吐く黛に平岩は有難い薫陶を授けた。
「ま、大丈夫よ。ウチの旦那仕事に浮気はするけど女に浮気はしないから、一応愛情は残ってるし。黛先生も浮気するタイプじゃないから、大丈夫じゃない?」
「そんなモンですか」
「そんなもんよ~、だってもう十分忙しいの知ってて結婚してくれたんでしょ?仕事で忙しい部分は奥さん、覚悟してくれているんじゃないの?」
確かに黛の妻、七海に仕事の忙しさで責められた事はない。逆にほんのり労わってくれる事の方が多くて、結婚してからますます黛はその七海の控えめなサラリとした優しさに惚れ込んでしまっている。正直結婚してから、以前より深く七海の事を愛してしまい、執着してしまっている自覚はある。きっと七海なら黛が忙しくても―――黛を嫌うとか離婚を切り出すような事はしないだろうとも、思う。
可愛い妻に黛が想いを馳せていると、思い付いたように平岩は視線を上に上げて口を開いた。
「あ、間違えた。どっちかって言うと―――ウチの旦那の本命が仕事で、浮気相手が私かも。アハハ」
ポツリと呟きこちらを見た平岩の目があまり笑っていないように見えた。妙にリアルだったので―――黛の浮上しかけた気分が、冷えてパタリと床に落ちた。
将来まさか七海もこんな風に黛の事を語る日が来るのではないか……と、ブルリと背筋を震わせたのだった。
希望者が多い都内病院はジャンケンになりました。負けた黛は『こんなコトなら離島希望にすればよかった……!』と後悔。どっちにしろドコを選んでも違う理由で忙しいんでしょうけどね。本人も分かってはいます。
次話はもうちょっと明るい筈(?)です。
お読みいただき、有難うございました。