(86)朝ご飯の日
玲子が渡米した後のお話です。
眠くて眠くて仕方が無い七海が、休日に目を擦りつつキッチンへ向かうとダイニングテーブルに座ってタッチパッドで新聞をチェックしている龍一を見つけた。
「おはようございます」
「おはよう」
「今、朝ご飯作りますね」
するとタッチパッドの電源を落として龍一が立ち上がった。
「皆が休日の朝くらい寝てなさい」
「えっとでも……」
「俺が作る。もし眠くないならソファで待ってても良い。卵とパンくらいだが……平気か?」
悪阻で食べられないかどうかという事だろう。七海は咄嗟に頷いた。
「えっと、でも……悪いですし」
「悪くない。座ってろ」
「う……あ、はい」
龍一の迫力に気圧されて七海はまたしても反射的に頷いた。背が高く逞しい体格の厳めしい龍一に真顔で見つめられると、小娘の七海はちっとも逆らえる気がしない。
冷蔵庫に入っていたペットボトルの麦茶を押し付けられ、七海はスゴスゴとソファーへ移動する。仕方なくタッチパッドで、気は早いがマタニティグッズやベビーグッズのページをチェックしてみる。
それにしても、キッチンが気になる。
七海がそこで料理をするまで、誰も触れていなかったような場所で。全くこれまで料理に手を出して来なかった様子の龍一が朝食を作るとは。
思わずハラハラしながら、時折キッチンを遠目に眺めてしまう七海であった……。
「おはよー」
黛が欠伸をしながら、ダイニングにやって来た。
ちょうど七海が黄色が目にも鮮やかな美しいオムレツとトーストをテーブルに並べている所だった。コーヒーの香ばしい香りが食欲をそそる。
「おっ!美味しそう」
と七海が運ぼうとした皿を奪って、並べるのを手伝う。
すると七海が「だよねぇ」と他人事のように頷いたのだ。
「これ、お義父さんが作ったんだよ」
「え……!」
衝撃に固まる黛。
これまで父親が料理をする場面など目にした事が無かったからだ。
いや、トースターでパンを焼くとか、買って来た食べ物を電子レンジでチンするとか、飲み物やスープの為にお湯を沸かす所は見た事があるが―――少なくともこのように形の整ったオムレツをフライパンで焼くような姿を目にした事は無かった。
「冗談?ドッキリ?」
「本当です。この目で見ました!作るところ」
結局耐えきれずにフライパンがジュウッと音を立てた時、七海は立ち上がってしまった。ダイニングルームのカウンター越しに、龍一の手際を目を丸くして眺めていたのだ。感動のあまり、思わず変な敬語になってしまうくらい驚いた。
そんな遣り取りをしている内に、龍一はフライパンをザッと洗い簡単な片づけをすませてダイニングルームへやって来た。
整った食卓の前に座り、視線で二人に座る様に指示をする。
黛と七海は一瞬目を見交わして―――大人しく席に付いたのだった。
フォークを入れるとオムレツの表面が割れて半熟でトロトロの、良い具合の中身が現れた。
「うーん!すごい!美味しいです。私ここまで絶妙に作れないです。ホテルの朝食みたい……」
ウットリとオムレツを味わう七海。一方でオムレツをペロリと平らげ、二枚目のトーストに齧り付いている黛は微妙な表情をしていた。
「料理なんて、一体いつ習ったんだ?」
黛の尤もな質問に、龍一は無表情のまま事も無げに答えた。
「子供の頃からやってる。学生の頃は自炊で、バイト先で賄いも作っていた」
「へえ~」
初めて耳にしたらしく、黛が感嘆したように声を上げた。
意外な過去に思わず七海も目を丸くする。七海の印象では、何となく龍一も玲子同様に良家の出で、料理など滅多にしない生活を送って来たように思っていたからだ。
息子である黛も七海と同様、父親の腕前にかなり驚いたようだ。少し面食らいながらも続けて尋ねた。
「親父が料理出来るなんて意外だ……何で今までやらなかったんだ?」
「……俺が台所に入ると、玲子もやりたがるんだ。危ないから包丁もフライパンも使わないように気を付けていた」
「あー……」
何となく想像が付いた。龍一に台所に立たれてこのように見事な料理を作られたら、玲子は龍一の妻として対抗心を燃やさずにはいられないかもしれない。龍一を大好きな玲子は夫に料理を差せ続けるのを黙って観ていられないような気がした。
すると龍一が平坦な声でシレッと続けた。
「玲子の指は天からの授かりものだからな。傷をつけるのは忍びない」
そう言った龍一の口元が微かに弧を描く。
深い愛情の籠った台詞に―――七海は思わずドキリとして、黛と目を見交わした。
言葉少なな龍一が照れもせずに言う率直な台詞に、聞かされる方が何だか恥ずかしくなってしまい、休日の朝から妙に落ち着かないソワソワした気分になってしまったのだった。
龍一は実は料理が上手だと言うお話でした。
今は仕事に専念していますが、手先が器用なので基本、何でもできます。
お読みいただき、有難うございました。