(82)経験者は語る
前回まで少し重かったので、軽めにしました。
ベテラン看護師平岩の夫は消化器系の外科医師である。緊急医療センターに勤めていた経験もある、強者だ。ちなみに平岩もかつて同じ場所に勤務していて、若い頃はかなりハードな生活を送っていたそうだ。夫とデキ婚で結婚し、妊娠発覚後暫くして看護師を引退。上の子供が中学生になったのを機に彼女はパートに復活し、現在に至っている。今では大学生と高校生の二人の子供を強制的に自立させ、以前勤めていたこの大学病院で働くようになった。
「デキ婚って―――平岩さん意外に情熱的ですね」
黛のソワソワした様子を目にした平岩は、忽ち七海の妊娠を見抜いてしまった。序でとばかりに平岩に妊娠時の注意事項を尋ねた黛に、平岩が自分の経験を語ったのだ。
「ホントはもう事実婚みたいな物だったんだけど、忙しくて両家の挨拶とか入籍とか先延ばしにしてたのよね。勢いで籍入れよっかって話になってさ」
「妊娠初期って、仕事辛く無かったですか」
デキ婚であれば、妊娠期間と仕事が被っている筈だ。事務の七海が電車に乗って仕事へ行くのも心配な黛は、ハードな看護師の仕事をしていた平岩の妊娠初期がどのくらい大変だったのか気になってしまう。
「それが仕事している方がね、悪阻を忘れちゃうって事あるみたい。気が紛れるのかも。若かったし、結構平気だったのよ。貧血とか眩暈は結構あったけどね」
「俺もう奥さんに仕事今すぐ辞めて欲しいくらいなんですよね、通勤とか……体が心配で」
「奥さん『辞めたい』なんて言ってるの?」
「いえ、でも何かあったらと思うと……」
平岩が腕組みをして値踏みをするように、椅子に座る黛を睨みつけた。黛はその視線にヒヤリとして思わず背筋をピッと伸ばした。
「忙しくて一緒に居られない夫が―――何言ってんの?って感じ。仕事取り上げて置いて、独りぼっちで家に閉じ込めておくつもりなら、ペットと同じよ!」
「う……でも、心配で」
「金使う暇ないんだから、タクシー使わせるとかさ。その辺はお金で解決してやりなさいよ。色々もっと工夫できるでしょ?職場の上司に配慮して貰うとか。それに安定期に入るまで、まだまだ分からないんだから。気を付ける付けないに限らず妊娠の一割強が仕方なく流産しちゃうって、医師なんだから分かってるでしょ?無理しないように気を配ってあげればいーの。辞めるにしても安定期まで様子見てから考えた方が良いわよ。万が一子供が駄目だったら―――彼女仕事も無くしておウチで独りにされたら、おかしくなっちゃうわよ」
「……」
「立派なお父さまも同居してるんだからさ。医師が二人も居るんだから、大丈夫よ」
隆一の専門は整形外科なので、産婦人科となれば素人同然だ。それは平岩も分かっている事だろうし、ほとんど家にいない親父は全く役に立たないだろうなぁ、と黛は思った。
かと言って、自分も中々帰れる立場じゃない。玲子の渡米も近づいているし……七海の前では見せないものの、黛も初めての経験に色々と不安を募らせていたのだった。
するとまるで、その心の溜息が聞こえたかのようにバーンと背中を叩かれて、平岩に気合を入れられた。
「色々不安なのは分かるけど、先生まで不安がってたら奥さんは誰に頼れば良いの?ドーンと構えてなさいよ、『お父さん』!」
「う……ケホっ」
力仕事を軽くこなす平岩の張り手はかなり痛い。
しかしグサリと尤もな事を言われて、背中より胸の方がもっと痛んだ。
平岩の言うとおりだ。黛がオロオロして慌ててしまうのが、一番七海の妊娠に良くない事なのだろう。
「……あ、そろそろ時間ね。黛先生、外来始まりますのでよろしくお願いします!」
唐突に平岩の口調が変わった。
ON―OFFの扱いが激しいが、それぐらいの方が切り替えが明確にできて黛には有難い。
黛も今は目の前の仕事に集中しようと―――頭を振って気持ちを切り替えたのだった。
平岩さんはバリバリの肝っ玉母さん系でした。
妊娠の10~15%、10人中1~2人は染色体異常が元で自然に流産してしまうと言われているそうです。(ご存知かもしれませんが、一応補足します)
安定期に入るまで周囲に言えない期間は他人に甘え辛いので、黛の心配も当然と言えば当然かもしれません。出産と仕事をどうするかはそれぞれの家庭の考え方次第で違いますが、かなり悩みますよね。
お読みいただき、有難うございました。




