(81)知合いですよね 後編(☆)
『知合いですよね』最終話となります。
※別サイトと一部内容に変更があります。
七海の中に生まれたモヤモヤの正体―――それを彼女は当初、単純な嫉妬か若しくは黛の素っ気ない対応に対する違和感なのではないかと、何となく考えていた。
黛はもっと元カノに優しく接した方が良いのでは?少なくとも元気かどうか一言二言確認するくらい、しても良かったのでは……とそう考えていた。そしてそう思いながらも、初めて目にした大学時代の彼女があまりに美しく、好感の抱ける素敵な女性だったから―――自分を引き比べて落ち込み、嫉妬心を抱いているのかもしれない。だから何だか煮え切らないようなザラザラした落ち着かない気持ちになっているのだろう……そう単純に想像していた。
けれども気付いてしまった。
七海が本当に気になっていたのは―――自分の事だったのだ。
別れた相手に対して黛が取った素っ気ない行動を目にして。
もし自分がこの先黛と別れる事があったら―――あんな風に目礼で済ませ、次のパートナーをエスコートして去っていくのだろうか?そう無意識に七海は想像してしまったのだ。
七海は美山に自分を重ねて見ていた。
美山を残して去る時、自分が置いてきぼりにされてしまったような錯覚を抱いたのだ。
だからつい足を止めて、黛に訴えてしまった―――かつて親しくしていた彼女と話をしなくて良いのか、と。
それに対して黛から『別に話す事なんかない』と言われて、未来の自分がそう言われているような気分になってしまったのだ。
七海と違って黛は色んな女性と付き合って来た。長く続かなかったのは、ずっと七海の事が忘れられなかったから、と後々打ち明けられた。
けれども―――七海がその女性達と同じ立場にならないと言う未来の保証は無いのだ。
付き合ってみて、やっぱり違った。これはただの思い込みだったのだ。―――そう黛が気付いて次の新しい女性を見つけた時……七海と再会した黛にあのように素っ気ない態度を取られたらと考えると、辛かった。それは意識の下で知らず動いてしまった心の問題で。
要するに、七海は自分の事しか心配していなかったのだ。
美山に同情した訳でも、道義的に黛の対応を責めていた訳でも無い。
ただ怖かっただけだ。
自分の気持ちを大事にしていただけ。
黛が自然に七海の気持ちを優先してくれた事にも気付けず、有難いと思う前に、自分の中にある恐れだけに目を向けてしまったのだ。
それに気が付いた時、何だかとてつもなく恥ずかしくなってしまった。
体中の血液が一瞬沸騰して、カッと体が熱くなるくらいに。
黛に美山に優しく接して欲しかった、なんて―――ひどい大嘘だ。
元々黛に優しく接して欲しい相手は美山では無く、未来の自分なのだ。きっと実際美山に優しく接する黛を見たら―――七海は嫉妬に苦しんで胸を痛めてしまうだろう。
黛が七海に対してもあんな風に冷たくなるのかと想像して―――悲しくなった。だから彼女に優しくして欲しかった。
けれども、そんなのは相手に対して失礼な話に違いない。現在の妻からそんな安い同情心を向けられた彼女が、返ってプライドを傷つけられたと感じてしまう可能性もあったのだ。実際は七海の不用意な台詞にも、美山は気を悪くする素振りも見せずやんわりと対応してくれたが。
そう、美山も『話す事なんて無い』と答えていたではないか。
七海は結局、自分は自分の事しか考えてないんだと気が付いたのだ。美山の心配をしていた訳じゃ無い。黛と離れたくない、失いたくない―――黛の愛情が自分に向けられなくなった未来を想像して、彼女に自分を投影して悲しくなっていただけなのだ。
本当に何て自分勝手なんだろう……!
ああ、浅ましいなぁ!と七海は自分が嫌になった。
七海は黛を好きで―――彼に今、恋をしている。
だけど、恋とは……ただ、ほんわかした優しいものじゃない。そう思い知らされてしまった。
自分の幸せを手放したくないと言う独占欲や、それに纏わる嫉妬や様々な打算とか―――かつて七海とは無縁だと思っていた感情が、確かに黛との絆が深くなるにつれ、副作用のように、特に欲しく無かった雑誌の付録のように困った荷物となって七海の中にいつの間にやら積み上がってしまっている。
それでもなお、彼を手放したくないと思ってしまうのだ。
だから本当にどうしようもない。
七海にも、黛にも、美山にだって。
誰がどうしようと、これは解決が出来る問題じゃないのだ。
もどかしい想いを抱えながら一人、七海は広いベッドに潜り込み柔らかな上掛けを肩まで被って―――ゆっくりと目を閉じたのだった。
日付が変わった頃漸く黛が帰って来る音で、ウトウトしていた七海の目が覚めた。相変わらずよれよれの黛はフラフラしつつ、ベッドに体を預ける。スプリングが沈む動きで、黛が潜り込んで来た事が彼女に伝わって来た。
続いてにじにじと七海の横に近付いて来る気配があって。あれよと言う間にがっしりとした腕が伸びて来て、しっかりと抱き込まれてしまった。
「……お帰りなさい」
七海が寝惚けながらそう声を掛けると。
「ん?ああ……起こしちゃったか?」
よれよれの黛は、眠たげに彼女の耳元で囁いた。
「んー、ウトウトしてたとこ」
「ゴメンな……寝よ?」
そう言って、キュッと再び柔らかく腕に力を籠められる。
そこからじんわりと温かさが伝わって来る。
その温かさが呼び水になったように、七海の中にじわじわと熱いものが込み上げてきた。
どうしよう。と思った。
何かが身の内にせり上がって来るのを感じている。黙って今日は眠った方が良いに違いない。けれどもどうにか彼にこの熱いものを伝えたい、そんな衝動を抑えきれなくなった。
「……目が冴えて来ちゃった」
そう言って七海はクルリと体勢を反転し、黛に向かい合うと―――大仏のように半眼になった黛の顎に、首を伸ばしてちゅっと吸い付いた。
黛が驚いて、パチクリと瞳を全開にして―――七海を見る。
何故か妙に積極的な気分になってしまった七海は―――続けて彼の唇に吸い付いた。眠りかけていた筈の黛がそれに応えるように口づけを深くする。七海もいつも以上に積極的に応戦してしまう。すると―――我に返ったようにポンっと黛が口を離し、荒い息を吐いた。
「どうした、七海?珍しく積極的―――」
「龍之介、好き」
なんて言ってみる。
何故だか急に、七海は黛の名前を呼んでみたくなったのだ。
「……」
「大好き」
「くっ……!」
ギュッと抱き込まれて、七海の体が軋んだ。
かと思うと次の瞬間、ガバッと解放されて―――途端に自由なってしまった自らの体に、七海は戸惑う。
すると黛が七海から身を引き剥がし、ベッドの端にザッと後退るのが目に入って、更に彼女は戸惑う事になる。
「え?黛君……?」
思わずショックで元の呼び名に戻ってしまう。
七海は訳が分からず、猫のように四つん這いになって黛の方に歩み寄ろうとした。すると今度は黛はピョンっとベッドから飛び上がり、ドサっと床に転げ落ちてしまった。
「だっだめ!七海これ以上近づくな……!」
「何で……?」
そう言えばこの頃、黛は七海に迫って来ない。
改めてここ最近の黛を思い出した。これ幸いと彼女はゆっくり睡眠を貪っていた。てっきり黛が仕事が忙しいから疲れているのだと思い込んでいたし、『これぐらい大人しくしてくれるとよく眠れるなぁ』と逆に嬉しく思っていたくらいなのだが―――七海から迫って、まさかこのようにベッドから転げ落ちるほど、避けられるとまでは思ってなかった。
猫のポーズで首を傾げる七海を見て、真っ赤になった黛は頭を抱えた。
「何でって―――妊娠初期は大事な時期だから、我慢してるって分かってるだろ!!なのに何でそんなときに生殺しみたいな事を……!俺を虐めてそんなに楽しいか?七海!!」
「―――」
悲壮な叫びを上げる黛をポカンと見下ろし、七海は頭が真っ白になった。
「え?」
「何、惚けて―――」
と言い掛けて、黛は口を噤んだ。
それから呆けたような顔をして、再び徐に口を開く。そんな馬鹿な、と言いたげに七海をジロジロ見つめながら。
「え??七海……もしかして気付いて無かったのか?」
「え?え?私―――妊娠してるの?」
「―――かも。そういう可能性が高い。想像妊娠とか生理不順じゃなければ。もう予定日かなり前だろ?高温期も続いているし―――妊娠初期の症状出てたよな?ほら、合コンで熱っぽかったのも風邪じゃなかったし、眩暈とか貧血とか」
「うそ……」
以前黛は婦人体温計を購入し、七海に毎日測定するように言い渡した。七海は反論するのも面倒で言う通り実行し―――その測定結果は黛がダウンロードしたアプリにより、七海のスマホだけでなく、黛のスマホでも確認できるようになったのだ。こうして黛は常に七海の生理日を正確に把握するに至った。だから七海が「アノ日だから!」と嘘を吐いて黛の要求を回避する事は出来ないのである。
(じゃあ胸がモヤモヤしていたのは―――ひょっとして、ただ単純に妊娠した所為なの??―――つまり『悪阻』?!)
七海は思わずアングリと口を開けたまま、ベッドの上で固まってしまった。
ペタンと腰を落ち着け、そのまま座り込む。
「アプリ見てないのか?」
「え、うん。気にしてなかった。もう考えても無駄だから、黛君にお任せって思っちゃって。だって全然私の要求聞いてくれないし―――って、あれ?避妊していたんじゃないの?オギノ式の安全日がどうとかって、言ってたよね」
体温を測るのは黛がオギノ式で安全日を割り出して避妊する事が目的だと、七海は思っていた。
「オギノ式、ちゃんと活用したぞ。もともとオギノ式は避妊法じゃなくて、排卵日を推測して子供を作り易くする為に尾木野久作先生が発表した方法だ。不妊や多産に苦しむ女性を目にして、彼女達を救うべく先生が研究に研究を重ねて排卵日の割り出し方法を発見したんだ。そもそも彼の意志とは違う所で勝手にオーストリア人の研究者が避妊法に使えば良いと言って広めたから―――不本意な人工妊娠中絶が増える結果になったんだぞ?『安全日』がそれほど『安全』では無いのは周知の事実だよな?避妊法としては非常に不確実な方法だと尾木野先生も元から主張していたワケで―――」
黛が得意げにベラベラ語り出したけれども、七海は混乱していて尾木野久作先生の無念に思いを馳せるどころでは無かった。
「え?つまり黛君は―――子供をつくる為に排卵日を狙ってたと言う事?……その割には規則性は無かったような気がするんだけど……」
排卵日を狙ってやっていたら、流石に鈍い七海でも気が付いただろう。てっきりやりたい時にやっているのだと思っていた。そしてそういう時、寝惚けている事が多い七海は、避妊の有無についてはあまり気にしていなかったのだ。
「やれる時には出来るだけやる、それが俺の信条だ」
黛は何故か胸を張って主張した。
七海はガクリと肩を落とす。
「『信条』って―――カッコよく言ってるけど、つまりは『適当』って事だよね?」
「自分の排卵日に気付かない七海の方が変だ。てっきり分かってると思ってたのに」
「だって、眠くて……」
夜の生活は大抵七海の意見は無視される。その内色々考えるのも面倒になってしまったのだ。とにかく七海は眠かったのだ……!
「―――妊娠、嫌なのか?」
黛が体を起こし、迷子のような瞳で七海を見上げた。
「え……?」
「俺の子供を―――産むのが嫌なのか?」
「いや、そんな事は―――」
結婚しているのに。そんな訳ない、と七海は首を振る。
だからこそ、避妊がどうこうという事を彼女はそれほど気にしなかったのだ。
「じゃあ、まだ早い?もう少し後が良かったのか?」
「ええと、別に時期はいつでも―――」
「じゃあ、あれか??忙しくて子育て参加できないくせに無責任に子供作りやがって、一人で育てられるワケねえわっ!と、こう……怒っているのか?」
「……いや別に……黛君がずっと忙しいの分かってるし……子供が出来たら私が頑張るよ、ほら実家も近いしさ」
黛が自信なさげに振る舞うのは珍しい。
何だか申し訳なくなって来た七海は―――慌てて取り成すようにそう言った。
「じゃあ―――いいんだな?」
黛の目がキラリと光った気がした。
その時、少し早まったかな、という思いが七海の頭を掠めたが。
しかしこれはもう、どうにもならない事だし、第一おめでたい事なのだから―――もう頷く以外の選択肢は、実際七海には残されていなかった。
「えっと、う、うん。勿論……私だって、嬉しいよ?」
それに黛の子供を授かった事自体は―――本当に七海は嬉しく思っている。
驚いたものの―――やっと実感が湧き始めてきた。じわじわと再び胸が、先ほどとは違う感情で温まり始める。
そこに黛の明るい声が響いて、それを切っ掛けに七海はある事に気が付いた。
「じゃあもう生理予定日から一週間は十分過ぎているから―――検査薬確認して、病院だな!初診は俺も一緒に行きたいから土曜日か日曜日やってるとこな!」
「……」
満面の笑みを見せる黛が、ベッドに上がって来て七海の手を取った。
七海は思った。
あれ、何かこのパターン前もあったな……と。
付き合った初日になし崩しに結婚する事を承諾させられ、家族にいきなり紹介されたあの日を思い出す。面食らって戸惑いを見せる七海を言い包め、黛はいつの間にか説得し頷かせてしまっていた。
勿論子供を授かった以上産む以外の選択肢など無いし、産む事自体は自分も楽しみなのだが―――どうしても流された感に包まれてしまうのは、何故だろう??
嬉しそうに彼女に抱き着いて来た黛の背に手を回しながら―――七海は釈然としない思いを抱かずにはいられなかったが……その内『まあいっか』と諦めた。
流されてるけれど―――七海は幸せなのだから、結果オーライだ。
そうして彼女は夫の背にまわした手に、力を込めたのだった。
【知合いですよね・完】
以前から幾つかヒントを置いていたので、妊娠については予想していた方も多いのではないでしょうか。ベタな結末でスイマセン(^^ゞ
『波瀾は無い』と書いていたのに、波風を発生させてしまいました。雰囲気が壊れてガッカリした方がいらっしゃったら、すいません。楽しんでいただけたなら嬉しいのですが。
お読みいただき、有難うございました。




