(80)知合いですよね 中編(☆)
(79)話の続きです。
※別サイトと一部内容に変更があります。
美山に連れられて、同じビルに入っている隠れ家みたいな落ち着いた喫茶店に入った。
彼女がブレンドを頼んだので、七海も同じものを頼む。
すこし酸味のある香りが馨しい。目の前の美女は、座っているだけで絵になった。珈琲を飲む仕草でさえ、まるで雑誌の撮影を目にしているように錯覚してしまう。
一口飲んでからカップを置き―――そして、いつも七海に向けていた優し気なふんわりとした微笑みを改めてその口に湛えた彼女が、漸く本題に入った。
「ええと―――何から話しましょうか。あの、気付いてますよね?私と旦那さんの事」
美山の微笑みに違和感は無いように、七海は思った。少し眉を下げた申し訳なさそうな表情が変化と言えば変化だろうか。
「えーと、はい。彼から聞きました」
「何と言ってました?」
美山は少し上目遣いに七海を見ている。
何となくだが―――七海は思う。彼女は、黛の反応について興味を持っている。彼女の視線、仕草が、そう言っているような気がしたのだ。
「『彼女だったの?』って聞いたら、『そうだ』って」
素直に答えると、ふふ、と美山は綺麗に笑った。
こんな状況でも彼女に見惚れ、嫌悪感を抱けない自分を―――七海は不思議に感じた。
やっぱりアイツ、悔しい事に『イイ奴』を見抜く勘だけは本物だな、とも思う。黛の事が無かったら、もしかしたら全然違う理由で彼女とお茶をしていた未来もあったかもしれない。
そのような事を呑気に考えてしまう自分はおかしいだろうか?と七海はボンヤリと考えつつ、美山の次の言葉を大人しく待っていた。
「三年前かしら……別れたのは。私が仕事で色々悩んでいて―――結局ちゃんと仕事に向き合おうと決心して、別れる事にしたんです。でも本当にあの時は吃驚したなぁ……結婚なんて全然考えて無さそうな飄々とした彼が、こんな若い内に結婚してしまうなんて。―――すっかりちゃんとした旦那さん、やってるんですもの。ちょっと浮世離れしている人だと思っていたから、別人かと思っちゃっいました」
そんなにちゃんとはしていない。
黛はきっと―――あまり常識的な旦那さんでは無い。
……とは思うものの、何と言って良いか分からなかった。一応彼女の方から別れを切り出したのだと言う事実にホッとする。黛が酷い振り方をした―――という経緯だったら、目の前でイチャイチャされたら、きっと美山は複雑な気持ちになっただろう、と七海は思った。
安堵で緊張が緩んだ。だから七海は、この間からずっと気になっていた事を自然と口にしていた。
「あの……この間は時間が無くて、ほとんど話も出来なくてすいません」
ふふっと夢のように笑って、美山は首を振った。
「話す事なんて無いもの。もうずっと前に別れた相手だし」
そういう美山の瞳は何だか悲し気に見えた。
「あの、今美山さんは……」
ご結婚は?と聞きかけて、失礼な事を聞いてしまう所だったと息を呑む。察した様子で美山は首を振った。
「生憎仕事ばかりで恋人も夫もいないの。やっと色々身辺が落ち着いたって所かな?だから―――彼が幸せそうで良かった。そう思ったの」
「―――」
七海は何とも言う事が出来ず、口籠る。
黛の代わりにお礼を述べるのも、変な気がした。
「ごめんなさい、こんなお話。……ちょっと愚痴みたいね?彼は元気でやっているのかしら?本当はそれだけ聞きたくて、お茶に誘ったの。ほら、別れた相手が元気じゃ無かったら寝覚めが悪いじゃない?」
スムーズに美しく片目を瞑る、美山。何て上手にウインクが出来るんだろうと、七海はこんな時なのに感心してしまったくらいだ。
「ええと、仕事は忙しくていつも寝不足ですが―――休みも呼び出しが多くて、ちゃんとお休み取るのも難しい日も多いですけど、とりあえず元気です。きっともともと頑丈なんですね、精神も体も―――本人もそう言ってましたから」
ケロッと何でも無い事のように自分のスペックを語るのを、七海はもう自慢だとも思わなくなった。黛が頭が良いのも、精神が強いのも、体が強くて手先が器用なのも、本当の事だからだ。その代わり彼は自分を嵩上げして誇張したり、大きく言ったりする事は無い。欠点を隠しもしないし、粗があっても恥ずかしいとも思っていない。妙に達観していて自分を高い所から、冷静に見ているところがある。
だから焦ったりしないのかな。
写真を撮った会場で、美山と鉢合わせした黛の挙動を思い出す。
全く動じず、落ち着き払っていた。
すると、フッと美山の顔に影が落ちた。
「そうですね、彼は強いですよね―――ひょっとして他人の悩みや痛みなんか、全然想像つかないんじゃないかって、よくそう思った事もあります。黛さん―――奥様は、そう思いませんか?息が詰まる事って無いですか?彼は何でも軽くこなして、人の苦労が理解できないんじゃないかって」
かつては―――高校や大学の頃は、そう思っていた。
相手の気持ちを思い遣る事が出来ない、勝手な奴だと。
だけど彼なりに―――とても励ましとは思えないような傲慢で乱暴な言葉だったが、七海を心配して、寄り添って、勇気づけてくれた。きっと普通の人がそうするより―――もともと想像できない相手の辛さを思い遣るのは、七海が想像する以上にずっとずっと遙かに困難な事に違いないのに。
彼の態度は一見するとそうは見えないし、彼が掛ける言葉をちょっと聞く限りは、そうは聞こえないかもしれないが、ちゃんとそこには七海に対する思いやりが存在したのだ。
七海はその時やっと、気が付いた。
そうだ。この間の黛の態度も―――同じだったのだ。
もし黛がかつての彼女を目の前にして動揺したり、慌てたりして―――七海の体調の悪さにも気付かなかったら、七海はどう感じていただろう?七海が言うように、黛が彼女を気にして『話がしたい、七海は先に帰っててくれ』なんて言ったとしたら―――七海はひどく傷ついたに違い無いのだ。
七海はハッと息を呑んで、顔を上げた。
穏やかな美山の笑顔に掛かる不安の影を。
この人は―――きっと、黛の事がまだ好きなのだ。どの程度の比重であるか分からないし、未練とまで言えるのかどうか……分からないけれども。けれど、少なくとも何がしか心残りがあるのかもしれない。
そこで七海は、自分の中のモヤモヤの正体に―――気が付いた。
そしてカッと体が瞬時に熱くなる。
「奥様?」
「あ、ええと―――あの」
何と言ったら良いのだろう、と七海は逡巡した。
いつもは察しの悪い七海だが―――自分の中のモヤモヤの正体に気付いた途端、彼女が悩んでいたであろう事や、その時の葛藤が想像できるような気がしたのだ。
そしておそらく彼女は、黛のそのような思い遣りに気付かなかったのだろうと言う事にも気が付いてしまった。若しくは付き合っていた若い頃はお互い思い遣りを素直に示せなかったのかもしれない、とも。―――それとも其処まで深く付き合えなかったのかもしれない。体の付き合いがあるかどうかと言った意味では無く、心の、という意味で。七海は彼女の言葉や態度からそう想像したが、相手を傷つけないよう配慮しながら―――慎重に言葉を選んだ。
「そうですね。彼は、すごく強い人です。私も―――子供の頃、彼は人の痛みなんて分からない人なんじゃないかって思っていた時期がありました」
「……」
「でも分からないなりに―――歩み寄ってくれようとする、と言うか……彼は勝手な事ばかり言う人ですけれど、こっちが言った意見を無視する訳じゃなくて……ちゃんと聞いてくれようと努力してくれます。漸く最近、私もその事に気付けたんです。だから―――言っても言っても我を通される事があって疲れる事もありますが……息が詰まるとかそういう事は無いです」
外では恥ずかしいと言うのに、抱き着いたりキスしてきたリ。
眠りたいのに眠らせてくれなかったり、名前を呼べと何度も言って来るくせに呼んだら呼んだで暴走したり。
でも、何より七海の体調を一番に気遣ってくれる。荷物も持ってくれるし、暴走してもある程度で止めてくれる。頭突きで強制終了しなければならない時もあるけれども、七海よりずっと力が強く反射神経の良い黛は、本気になればそれを避けられる筈(?)なのだ。だからつまり、七海の意志を黛なりに尊重してくれているのだと、彼女はそう受け取っている。
何よりとても―――七海を愛してくれて、彼はいつもそれを惜しまず示してくれる。
「奥様は―――もしかして、昔から彼をご存知なんですか……?」
美山の少しだけ硬い声が七海にそう尋ねた。
少し彼女の声が震えているような気がして、それで七海は、自分が自分の考えの中に沈んでしまっていた事に漸く気が付いたのだ。
パチクリと瞼を瞬かせ、軽く肩を寄せて―――それから落としてみる。
すると何だかちょっと気持ちがすっとして来たような気がして来る。
視線を再び美山に戻して、七海は素直に頷いた。
「あ、はい。高校の同級生で。彼の幼馴染と親しかったので卒業後も何だかんだ付き合いがあって―――世に言う『腐れ縁』ってヤツなんです」
「……そうだったんですね」
彼女が視線をカップに落として一瞬押し黙ったので―――七海は首を傾げた。
「ええと、それが何か……?」
美山はフッと口角を上げて、柔らかい微笑みを取り戻した。
少し自嘲気味に見えるのは、気のせいだろうか?と七海は思う。
首をゆっくりと振って、美山は仕切り直した。
「いいえ、何でもありません。……じゃあ奥様は十分にご存じですよね、彼の性格は」
七海は顎に指を当てて、少し考え込んだ。
そして改めて首を振る。
「いえ、今思うと……あまり自分は彼の事を知らなかったんだなって気付かされている所なんです。彼は基本、自分の話したい事しか話さないので。お喋りだから―――色々聞き流していましたし、こちらから聞く暇が無かったと言うのもあるのですけれど」
思えば最近の彼は随分大人しくなったもんだ、と七海は思う。いや、黛が忙し過ぎて接する時間が少ししか無いからそう感じるだけだろうか?それとも昔はただ単に七海に構って貰いたかったからしゃべり続けてちょっかいを掛けて来ていたのだ……とか??―――だとするとあの時既に高校生にもなっていたのに、随分子供っぽい事だと思った。
「―――お喋り……ですか?」
おや、と七海は思う。
もしかして彼女と付き合っていた頃は、そのような子供っぽい行動は封印して大人らしく振る舞っていたのだろうか。だとすれば、何だか面白く無いなぁ……とも。
「えっと、そうですね。正直うるさいなって時の方が多かったですね。彼の幼馴染が私の友達なんですが―――とにかく昔から彼が自分の話ばっかりするので、彼女もほとんど聞き流してました。私も正直、高校の頃はコイツ面倒臭い奴だなって、彼の事思っていまして……」
つい昔を思い出してしまい本音が出てしまった。その事に気付いて慌てて七海は口を噤む。元カレをそんな風に言われて、気を悪くするかもしれないと心配になったからだ。すると、美山は眉を下げて困ったような戸惑うような表情を作った。
「そうなんですか。高校生の頃は少し違ったんですね。私は年の割に寡黙で落ち着いた人だと思っていたのですが……」
美女の前だから格好付けていたのだろうか?……と七海は少し拗ねた。
だけどそれをそのまま彼女に言うほど、無遠慮にはなれなかった。
そして二人の間に沈黙が落ちる。
どうしよう……と七海は思った。
誘われて来たものの―――もう七海は自分の気持ちに気が付いてしまった。思えば馬鹿な事を考えていたものだと恥ずかしさのあまり体温が上昇してしまったくらいだ。だからもう―――自分から彼女にこれ以上何かを言う必要も、聞く必要も無いのだと、気が付いてしまった。
彼女が聞きたかったり―――七海に聞かせたい事があれば、諾々と耳を傾けるだけだ。
果たしてそれが―――彼女の糧になるかどうか、分からないけれども。
「「……あの」」
顔を上げて声を発したのはほとんど同時だった。
「どうぞ」
「いえ、どうぞ」
と一頻り様式美の譲り合いを行って―――最後に七海が美山に譲った。
「あの、有難うございました。本当に不躾なお誘いをしてしまって―――正直、断られると思っていたので」
「あ!そうですね。そう言えば……そうするべきですよね、本当は」
七海はつい真っ赤になってしまう。
そうなのだ。ノコノコ誘われて着いて行くなんて、相手に対して不遜と言うか―――失礼な振る舞いだったかもしれない。相手が話したいと言っても、本当は気持ちを慮って断るべきだったのだ。そんな簡単な事に今更思い至り、自分が恥ずかしくなってしまった。
すると、美山が慌てて体の前で手を振って七海の遠慮を否定した。
「いえ!あの、そんな事は全くないです。こちらから誘っておいて、ある訳無いです。今のは完全に私の失言なので気にしないでください!」
そして七海と目が合うと、美山は再び困ったような表情を作り―――声のトーンを落ち着かせて、改めて薄く微笑んだ。
「本当にお話できて―――良かったです。有難うございました。いろいろと―――その、謎が解けました」
思っても見ない言葉に、七海はキョトンとする。
「『なぞ』?……ですか?」
黛に『謎』??あの口から生まれたような裏表の無い人間の何処に『謎』が……??ああ、美女の前では寡黙ぶりっ子していたんだっけ、と七海は思い直す。
確かに七海が黛の事で、付き合うまで知らない事がいくつかあったのは事実だった。彼の母親がジャズピアニストだと言う事も、黛本人がピアノを弾ける事も彼は語らなかった。自慢ばかりする奴だと思っていたが、実際はそれまで思っていた以上に遙かにスペックが高い男だったのだと、付き合ってから思い知らされる事になり―――図らずも、これまで彼は自身を控えめに言っていたのだと言う事実が判明する事になったのだから。
けれど美山はもう既に玲子の存在を知っている。その他黛の事で知らなかった事と言えば何だろうと七海は考えた―――ピアノが弾ける事とか?意外と礼儀が身に付いているとか?子供扱いが上手いとか?玲子の実家の事は美山は知らないだろうし……と色々と考えを巡らせたが、ハッキリ『これ』と言うものは思い付かない。
「ええ。だから―――スッキリしました。今度こそ、本当に」
「あ、はは……」
もう何だか―――笑って誤魔化すしかない。
七海は、そう思った。
美山の台詞自体が謎だと思ったものの、これ以上話し続けるのも無意味なような気がした。きっとその意味を自分が知っても仕方が無い、美山が何かに納得したと言う事実の方がおそらく大事なのだから。
そして同時に。彼女の返事を聞いて、改めて七海は確信を持ってしまった。
やはり彼女には、どういう種類のものかは分からないけれども―――なにがしか黛に関して未練があったようだ、と。
それなのに無防備に彼女とお茶している自分は一体どんな間抜けなのだろう……七海は自分自身に呆れてしまう。
「では、そろそろ行きますか?これ以上休憩していたら、いくら身内と言っても怒られちゃいそうです。次の予約も近づいていますし」
「えーと、身内?もしかして、紗里さんの妹さんですか?」
年齢的には無理が無いように思えるが、顔はあまり似ていない。
「ええ、紗里は私の義理の姉なんです。昔から彼女のアトリエに出入りしていて。彼、玲子さんに無理矢理エスコートさせられて連れまわされてましたよ」
なるほど、それが付き合う切っ掛けだったのか。と、七海は得心が行った。
きっと大学に関係ない彼女は全て、玲子が連れ回した先で出会った女性なのかもしれない。合コンにもそれほど興味が無く、ナンパなど積極的にしなさそうな黛が何故様々なタイプの女性と付き合っていたのか―――七海が抱いていた黛に対する疑問が、図らずも一つ明らかになった。黛は付き合ってはいないと言っていたがアメリカのサックスプレーヤー、メグも、そう言えば玲子つながりだった……!と七海は付き合い始めの頃出会った、鮮やかな印象の赤毛の女性を思い出した。
そして、ますます何で―――黛は自分が良かったのだろう?と改めて思う。
もしかして単に、玲子繋がりは嫌だったのか……?とも。
それとも単なる刷り込み?少年の時期に手に入らなかったから、いつまでも執着してしまったとか?―――いつかそれを、彼に確認する機会はあるのだろうか。
そんな事を七海はぼんやりと考えながら、透き通る青空のような水色のラッピングに包まれた―――玲子からの贈り物を手に帰路に就いたのだった。