(76)ありがとう
(75)話の続きです。
その日七海とロビーで待ち合わせしていた玲子は、社長と常務、課長と社長秘書に囲まれていた。
衆目が集まる中、身を隠そうとした七海を見つけ玲子が大きく手を振ったので、七海は仕方なくその目立つ集まりに近付いたのだった。何とか身の上話を短く切り上げて二人はタクシーを捕まえ、乗り込んだ。
「七海ひょっとして疲れてる?」
「うっ……目立ち慣れて無いもので……直接社長や常務と口きいた経験なんて、まず無いですもん」
あっても会議室にお茶を頼まれて配った時に「アリガトね」なんて声を掛けて貰うくらいだ。総務課の目立たない一平社員の事など、お偉いさんは気にした事も無いだろうと彼女は思う。先ほども恐縮しまくった七海はお偉いさんにペコペコ頭を下げ、それを玲子が面白そうに微笑みを湛えて見守ると言う、コメディの舞台のような一幕を繰り広げた所だった。
溜息を吐いて肩を落とす七海を見て、玲子が肩を抱き寄せて笑った。
「アハハ、七海って面白い事言うのね。初老のオジサン三人に囲まれて挨拶したくらいでそんなに疲れるなんて。ホント可愛いんだから!」
「玲子さんは囲まれ慣れているでしょうけど……普通は偉い人と話すのは緊張するものなんです!」
コンサートやライブ会場でライトを浴び大勢の客の熱視線を浴び続けている玲子には、全く縁のない感情かもしれない。いや、経験では無く生まれつきだろうか?ピアニストでは無い黛も、きっと動じないような気がする。CEOとか会社社長とか十人くらい押し寄せたって、きっとツラっとしているに決まってる。やはり遺伝か……と、夫とソックリに整った顔で微笑んでいる、美しい姑の顔を見返して七海はそう推察した。
「なあに?私の顔に何か付いてる?」
「いえ……大変美しいです」
「あら、有難う」
黛もそうだが、玲子も非常に素直だ。褒めた言葉を照れて逸らすと言う事が無い。一方七海は、これまで表立って褒められるという経験が少なかった為、黛が手放しに褒めてくれても未だに恥ずかしくてドギマギしてしまう。しかし玲子のように褒め言葉に対してただ素直に感謝の気持ちを返してくれるのは―――褒める側にとって気持ち良く感じるものだな、と最近彼女は認識を新たにしつつある。だからいつか自分も自然にそう振る舞えるようになれればなぁ、なんてこの頃密かに思っているのだ。
そんな遣り取りをしながらタクシーが辿り着いた場所は、青山にある、とある白いビルの前だった。
「さあ着いたわよ。目的地はここの七階のお店!行こう、七海」
「あ、はい」
背中を押されるように、エレベーターに乗って七階へ。普通の店舗ビルと違い、廊下が狭くまるで人の家に遊びに行くみたいな感覚がする、と七海は思った。
「ここね、昔はマンションだったんだって。リノベーションって言うの?お店で使うように改造したみたいよ」
「へぇー面白いですね」
「ああ、ここよ『702』号室」
その扉には『SOMETHING BLUE』と凝った字体で穿たれた、銅製の銘板が固定されていた。右上には小鳥のモチーフがあしらわれている。
ピンポーンと、インターホンを玲子が躊躇いも無く押すと、少し間があって「はいはーい」と扉の向こうから声が聞こえ、ガチャリと鉄製の古い扉が開けられた。
「いらっしゃいませ」
ニコリと笑うのは、おっとりとしたタマゴ型のつるんとした輪郭の女性。気軽な口調の割に―――その柔らかな笑顔には何処か気品があるように見える。
「紗里、今回は無理言っちゃってゴメンね」
「そんな事おっしゃらないでください!こんな日が来るなんて夢みたいって思っていた所なんですから」
その親し気な遣り取りを聞いて、七海は思った。
あ、この人『玲子ファン』だな……と。
玲子と一緒にいると、彼女の信奉者らしき人にたびたび出会う事がある。その人達が玲子を見る瞳はいつもちょっとウルウルしていて、込められた熱気が傍らにいる七海の目にも明らかに見て取れるのだ。
「さ、入ってください」
促されて入った場所は板張りの広い空間。壁際にレトロな雰囲気のソファや椅子が並んでいて、壁の一部が床から天井まで大きな鏡張りになっている為、より広く感じられた。
「わぁ……」
不思議な空間だと七海は思った。キョロキョロしていると、カチリと紗里と言う女性と視線が合う。興味深そうに七海を視ているその瞳に、思わず七海は頬を染めた。そんな彼女の肩を抱いて、玲子が紗里に笑い掛けた。
「紹介するわね、ついこの間息子と結婚した七海よ。七海、こちらはここのオーナーの紗里」
「初めまして」
ペコリとお辞儀をすると、紗里も優雅な仕草で頭を下げてくれる。年齢不詳に見えるが、自分よりは年上で、そして玲子よりは年下なのだろう……と彼女の立ち居振る舞いや態度で七海は類推した。
「よろしくね、七海さん」
優しく微笑まれて、七海ははにかみを返す。
「紗里とは長い付き合いなの。ずっとお洋服を作っていてね、他にもメインのお店があるんだけど、最近ここにもアトリエを構えたって聞いて時間を作って貰って。本当は売れっ子だから予約が一杯だったのだけど―――無理を聞いてくれたのよ」
そう言う玲子に、紗里は静かに微笑みを返す。
余裕の表情に風格が感じられた。本当に売れっ子なんだろうな、とその態度だけで七海は思う。
「じゃあ、早速取り掛かりますか」
紗里が部屋の一角にある大きなカーテンの方に目を向けると、そこに控えていた綺麗な女性がカーテンを引いてくれる。
鏡張りの壁が現れて床に絨毯が敷いてあって、そこに白い衣装を纏ったトルソーが一つ置かれていた。
「あっ……!」
七海は驚きで、言葉が出なかった。
そこにあるのは、純白のウエディングドレスだった。
「サイズは以前測ったものを使って貰ったの。仮縫いだから、今日は試着して補正して貰おうと思って」
「あの……これ……」
つい最近セミオーダーのスーツを作ろうと提案した玲子に連れられたお店で、全身採寸された事を思い出す。もしかしてそこは紗里のメインのお店だったのだろうか?と七海は考えた。しかし何と言って良いか分からず―――戸惑った視線を七海が二人に向けると、紗里がコクリと頷いた。
「お式はまだだけど、ウエディングドレスだけでもプレゼントしたいって玲子さんが」
「うちの息子が甲斐性なしで、なかなか式を挙げられないみたいだから、ドレスだけでも七海に着せたかったのよ」
ニコリと微笑む玲子を見返す七海の胸に、熱いものが込み上げる。
紗里がすかさず補足するように言葉を継いだ。
「やっぱりお写真くらい早めに撮った方が良いわよ。年数が経つと忘れちゃうから―――実際私も結婚して十年以上経つけど、ウエディングドレス着ないままだし」
玲子が目を丸くして、紗里を振り返った。
「そうなの?服を作るのが仕事なのに?」
「どうしても仕事優先になっちゃって、人の服ばかり作ってます。ウエディングドレスを手掛け始めたのもここ数年ですしね。本当は玲子さんのドレスも手掛けたかったんですけど……今更ですよね」
紗里が如何にも残念そうに言うと、玲子は思案するように腕を組んで顎に指を掛けた。
「そう言えば私も……ウエディングドレス着た事無いわ」
真顔で言う玲子に、紗里は驚きを露わにして詰め寄った。それまでの優雅な微笑みが嘘のように、少し興奮気味に。
「ええ!勿体無い!こんなに美しいのに……!じゃあ……じゃあ、玲子さんのドレスも作りましょうよ、いえ、是非私に作らせてくださいっ!」
「えー、アラフィフにもなってウエディングドレスはキツイわぁ」
「玲子さんの美しさは、幾つになっても変わりません!」
何だかファンとスターの遣り取りが始まってしまった。
じゃれている二人を尻目に、それまで壁際に大人しく控えていた美人スタッフが歩み寄って来た。
「放って置いて、試着始めちゃいましょう」と片目を瞑って悪戯っぽく笑ったので、七海も笑顔で頷いてから、玲子に向き直った。
「あの、玲子さん。本当に嬉しいです、有難うございます!」
すると一頻り紗里に絡まれていた玲子が、七海に歩み寄って彼女をキュッと抱きしめた。
「こちらこそ、有難う。七海が私の家族になってくれて―――本当に嬉しいの。渡米前にお礼に何かしたかったのよ」
恥ずかしかったが、七海もキュッと感謝を込めて玲子を抱きしめ返した。
一拍置いてフフッと笑った玲子が、七海の頬に軽く口付けてから体を離す。
「さ、着て見せてちょうだい」
七海は頬を染めつつ玲子を見つめ返し、頷いてから美人スタッフと一緒にカーテンの向こうの試着スペースに向かったのだった。
いつだったか読者様から「七海がウエディングドレスを着る所が読みたい」というコメントか感想をいただいたので、何処かで出せたらと思っていました。
しかし書いてから気付いたのですが、七海まだ試着すらしていませんね……。中途半端でスイマセン。後でおそらく、お直し後の話を追加すると思います(笑)
お読みいただき、有難うございました。




