(64)お願いされて
(63)話で黛が考えていた事など、です。
抗議の頭突きを食らい、頭を擦る黛は潤んだ瞳で睨まれた。
「ちがーう!分かってるでしょ、聞こえない振りして~!」
七海がこんな反応を返して来る事は、黛の想定の範囲内だった。黙って流されてくれればなお嬉しかったのだが。
「ちっ……バレたか」
と悔しそうに言って見せたが、これも黛にとっては可愛い嫁とイチャイチャする行動の一環に過ぎない。流されまいと動揺して息を切らす七海も、これはこれで良し……と彼は密かに満足している。
すると七海がハッと気を取り直して居住まいを正した。
「ゴメンなさい。話があるから待ってたの」
「話?俺はボディランゲージの方が……」
とセクハラ親父のような台詞を吐きながら手を伸ばすと、七海はすかさずその手をガッと掴んできた。その必死な様子もまた可愛らしい……と、黛はニヤニヤしながら華奢な掌に手首を拘束されるままに一旦大人しくしてみせる。
聞けば以前飲み会で話し掛けて来た『医者』狙いの後輩の女から合コンを強請られているらしい。七海はその肉食女子の行動をそれほど迷惑とは感じていないようだが、黛を気遣って申し訳無さそうにしているので、敢えて何でもないような言い方を選んだ。
「合コンなら出そうな奴いるな」
「えっ」
七海は驚いているが、ストレスの多いハードな仕事なので、プライベートまで緊張感を持ち込みたくない仕事から離れて優しいふわふわした女の子に癒されたい……!と愚痴っている同僚は多い。
ベテラン看護師の平岩さんなどはそれを聞いて「逆に現場を見てない彼女が仕事の辛さを分かってくれないってボヤく医師も多いんだけどねぇ……」と鼻で嗤っていたが。
「じゃあ、黛君の職場のお医者さんは看護師さんと付き合う人ってあまりいないの?」
と言う七海の素朴な質問に、どう答えようか一瞬迷う。
看護師と医師のカップルもいるし、夫婦もいる。そして女性の多い職場だから仕方ないのかもしれないが見た目や性格に関わらず男の医師はかなりモテる。一人の医師を巡って看護師が争うという事もあるし、結局遊ばれて捨てられたとか、果ては不倫に嵌って揉めに揉めた末離婚……なんて醜聞も真偽のほどは分からないが、風の噂で彼の耳まで届く事はあった。
幸い黛の周りは仕事優先でそういう事にうつつを抜かす医師はいない(と彼は思っている)ので、身近にいる浮ついた人間と言えば今のところ思い当たるのは遠野くらいだった。
「……いや、いなくもない」
結局無難な回答に留める。そういうドロドロした噂のほとんどは七海には不要な知識だろう、と彼は判断した。
黛も実際これまで看護師や窓口の医療事務職員、そして女性の患者から好意を向けられる経験は何度かあった。しかし元々昔からそういう事には慣れているので、特にどうと言う事も無い。勉強ばかりで女性に縁の無かった男が研修医となって急にちやほやされおかしくなってしまうという例はあるようだが。
告白されれば片っ端からお断りし曖昧な秋波にはニコリともせず事務的に対応すると、望みが無いと理解して皆引き下がる。黛自身が好きな訳では無くて医者ブランドがモテているだけなので、直ぐに彼女達の熱気は冷めて可能性のある他の若い医師にすぐに矛先が切り替わる。それだけの話だった。
そんな事より黛にとっては二人の時間を楽しく過ごす事の方がずっと大事な事だった。だから余計な事は口にしない。
「そうなの?どっちなの?」
「まあ……人に依るかな。だから合コンに出たいってヤツは確かにいる」
「へえー、じゃあ土日とか休みの前日なら集まりやすいのかな?」
「……お前も出る気か?」
「え?そうだね多分……流石に丸投げじゃ後輩が心細いと思うし……」
おそらくそんな心配は無用だと、黛は思った。
伝え聞きだが、その後輩の逞しさならサポートなど不要なのは明らかだろう。しかし七海の性格上「顔出しくらいしないと……」と考えてしまうのも分かっていた。行くなと言ってもそのオネダリ上手な後輩に仲介役を頼まれて、断り切れずに参加する様子が目に浮かぶ。
「昼だ」
「え?」
「夜は駄目、ランチ合コンなら紹介しても良い」
黛の周りの男達は過酷な仕事とストレスの所為か、はたまた体育会系の体質の所為か飲み過ぎて羽目を外す事が多いのだ。七海に直接被害が無くても、七海の同僚に迷惑が掛かれば彼女の立場が不味くなる恐れがあった。七海が参加するなら出来る限り黛も参加するつもりだが、うっかり黛だけ病院に呼び出されてしまい七海が取り残されてしまう可能性もある。遠野に声を掛けるつもりはサラサラ無いから危ない事は無いだろうが、同僚の研修医が自分のいない処でお酒に酔って可愛くなった七海と話をするなんて状況は、絶対に回避したいと思った。
「ええ?お昼に合コン?」
「最近そういうのもアリって何かで読んだぞ。一定量以上飲むとスプラッタな話ばかりになる奴もいるから、顔合わせはそれぐらい距離を取って後は気に入った相手同士に任せればいいんじゃないか」
得意げに手術の話をして成功しかけた合コンに失敗した同僚がいた。その合コンの後半は聞くところによると、まるでお通夜のように盛り下がってしまったらしい……。
「そっか、そうだよね」
七海が納得したように頷いた。あまり気が進まないが、これくらいなら許容範囲だと黛も安堵した。
「ありがとう、じゃあそれでも良いか後輩に聞いてみるね。そしたら黛君も職場の人に聞いてみてくれる?」
「ああ」
「……」
するとギュッと七海が黛に抱き着いて来た。彼女からこんな風に抱き着いて来るのは珍しい。黛の胸は躍った。
「本当にアリガトね。黛君がこんなに気を使ってくれるなんて思わなかったよ。ゴメンね、忙しいのに」
「気にするな」
黛は七海をギュッと抱きしめ返し、体を引き寄せて柔らかい髪に顔をグリグリと埋めた。同じシャンプーを使っている筈なのに、七海の髪は特別に良い香りがするような気がする。
嬉しくなって腕に力を込め、黛は七海の背を優しく撫でた。そしてわざと弾んだ声で、確約を求めるようにこう言った。
「七海の『お願い』だからな!楽しみだな~七海は真面目だから、お願い聞いたら絶対すっごい『お返し』してくれるんだろうなぁ」
「……え……」
「いやー、楽しみだなぁ。何して貰おっかなぁ……」
「……え、えーと……」
戸惑うような七海の声に、ほくそ笑む。
七海を揶揄うのは非常に楽しい。それだけでも十分美味しいのだが……。
何を『ご褒美』に要求しようかと考えると―――今からワクワクが止まらず、ついつい口元が緩んでしまう黛であった。
黛も色々考えています。が、結局最後には嫁とのイチャイチャに思考が捕らわれ些末な事はどうでも良くなります。ある意味単純な性格なのかも。
お読みいただき、ありがとうございました。