(50)黛先生の事情
少し戻って(41)話より前のお話。短い設定説明のようなお話です。
「指輪って何処にしまってたっけ」
衛生上の観点から指輪を着ける事を禁止している病院もあるらしいが、黛の病院では結婚指輪を着けて仕事をしている医師も幾らか存在する。ただし何処の病院でもそうらしいが、外科の医師は大抵職場では指輪を嵌めていない。
元から着けないと言う者が多いが、結婚当初着けていた既婚者も手術や手洗いで外したり着けたりするのが面倒になったり、うっかり病院に外したまま忘れてしまったり―――という事が続き、結局無くさないように家の引き出しに仕舞い込んでしまう、という事例が一般的なようだ。
結婚式はまだ先だが、黛と七海も入籍する前に結婚指輪を注文し婚姻届を提出した後、百貨店のジュエリーショップで出来上がった指輪を受け取った。指輪は双方の家族と親しい友人に披露した後、ケースに入れて引出しの奥に大事に仕舞われている。
黛は他の外科医と同様、仕事で着け外しするのが面倒で最初から嵌めていない。
七海はと言うと、その内行う予定の結婚式で交換してから嵌めようと思い、その時まで使わずに仕舞って置くつもりだった。磨けば問題無いのだろうが、結婚式ではなるべく使っていない状態にしておきたかったからだ。
結婚の了承を貰い浮かれていた黛は、以前七海に婚約指輪を勧めて躱され不満に思った事があったが―――既に結婚届も提出し名実共に妻となった七海が、美味しい朝ご飯と愛妻弁当を用意してくれ、帰ればホンワカとした少し低い声と温かい体温で癒してくれるので、七海が自分も嵌めていない結婚指輪をしていようがいまいがどうでも良くなっていた。
つまり些末な事が気にならなくなってしまうくらい、今度は新婚生活に浮かれているだけなのだが……。
「クローゼットの引き出しの中だよ。どうしたの?病院では着けないんじゃなかったっけ」
「んー……外来と院内診察の時だけ、嵌めようかと思って」
黛が結婚指輪をしない理由を聞いていた七海は、不思議に思った。
「嵌めたり外したりするの、大変なんでしょ?」
「そうなんだけど……やっぱり、結婚したから着けておこうかなって」
「ふーん?じゃあ、私も着けた方が良い?」
「いや、別にいいよ。したくなったらで。俺も着けてみてよっぽど面倒になったらまた外すかもしれないし」
「そう?じゃあ、黛君が着けるのお試しじゃ無くなったら私も着けようかな?結婚式の時私のだけ新品って言うのもなんか変だし。磨けば見た目は分らないんだろうけど……」
七海がその話題に拘る素振りを見せなかったので、黛は少しホッとした。
黛が指輪を嵌めようと思い立ったのは、ちょっとしたトラブルがあったからだ。
看護師や受付事務の女性に対して仕事以外の余計な話をせず距離をとっていた黛だが、患者に対して不愛想にばかりはしていられない。
連絡先を渡されそうになったり、私的な話に持ち込もうとする女性患者(偶に男性もいる)を適当にあしらっていたが、二度ほど治療が終わって縁が切れた筈の患者に待ち伏せをされた事があったのだ。結婚している事を告げると一方は引き下がったが、もう一方は『結婚しているなら何故結婚指輪をしないんだ!詐欺じゃないか!』と逆ギレしたのだ。
病院によっては規約で指輪の出来ない処も結構あるし、手術で着け外しするから元々していない医師が多いのだと―――落ち着いて反論すると、最後には渋々と言った調子で理解を示してはくれたが―――待ち伏せされて貴重な帰宅時間を削られた挙句逆ギレされるなど、面倒事はこれ以上御免だと思った。
と言う訳で、物凄く面倒だが―――黛は、外来と院内診察の際はなるべく結婚指輪を着けるよう心掛けるようになったのだった。
(41)話の予防接種でいただいた「七海は指輪をしていないの?」という感想をヒントにしました。ちなみに七海はあまり指輪などに拘らないタイプです。
お読みいただき、有難うございました。




